エピソード9 西川口で買い出し
伊織は二人分の洗濯物をベランダで干す。ドラム式の洗濯機が備え付けてあり、コインランドリーに行かずに済むのが嬉しかった。
男2人分の洗濯物を干すというのがなかなか切ないシチュエーションだが、これもバイトの仕事だ。
「西川口へ行く」
ベランダにタバコを吸いにやってきた曹瑛の言葉に、伊織は目を丸める。
西川口は埼玉県川口市に位置する。風営法による大々的な摘発により営業できなかくなった風俗店店舗の後に中華料理店や中華系スーパーが入り、ディープなチャイナタウンへと変貌を遂げた町だ。
「はあ、西川口へ」
伊織は気の抜けた返事をする。スカイツリーや浅草などのメジャーな観光地ではなく、西川口か。それが希望なら案内するけど。
新宿駅からJR埼京線で赤羽へ、乗り換えて京浜東北線で西川口駅に着いた。
元同僚に風俗店巡りが趣味の奴がいて、西川口の話も聞いていた。お気に入りの店が取り締まりでつぶれたと嘆いていたのを覚えている。
駅を出ると、平日の昼間とあって閑散としている。中華料理の店が目立つが、横浜中華街のような観光客ウェルカムな雰囲気はなく、地元民が通う食堂といった雰囲気だ。店の外に張り出してあるメニューは簡体字で、もはや日本人は相手にしていないという気概を感じる。
それでも物好きなグルメ家たちはこのディープな街にやってくる。路地の奥にはまだ細々と営業しているのか、かつての風俗店の名残があった。
曹瑛は街の様子を観察しながら、目的の店を探している。ガイドが仕事のはずの伊織は後をついていくしかない。
曹瑛は商店街を入ってすぐ脇道にある雑貨店に入り、地下への階段を降りていく。一階はお茶や漢方薬、地下は中国から輸入した現地ものの調味料や食材が並んでいた。曹瑛は中腰で棚に並ぶ調味料を物色している。パッケージをみても伊織にはそれが何かさっぱり分からない。調味料の瓶や粉末、食材をいくつかかごに入れ、レジへ向かった。こんなものを日本で買ってどうするのだろう。
「请告诉我卖茶具」
「五楼」
店員も中国人らしく、曹瑛は中国語で会話をしている。流暢かつ自然なイントネーションの日本語を話すので彼が中国人なのをすっかり忘れていた。
切れかけの蛍光灯の灯る狭い階段を五階へ上がる。曇ったガラスから入る自然光だけの店内は薄暗い。埃被ったガラスケースに中国風の椀や急須がところ狭しと並んでいる。ここは茶器を扱っている階だ。観光地で見るような華やかなものでなく、地味で実用的なデザインが多い。
伊織は店内を興味深く見回す。曹瑛は店員と何やら話し込んでいるので、邪魔をしないがいいだろう。
「気が済んだか」
時間を忘れて茶器を眺めていたところに、曹瑛から声をかけられた。ふと見れば、その手に重量感のある箱を持っている。なにやら大きな買い物をしたようだ。
「茶器に興味があるのか」
「いや、別にそういうわけでは」
連れてこられたからただ見ていただけと、というのも野暮なのでやめておく。
曹瑛は店員に何か指示をした。店員は棚から茶器を見繕い、手提げ袋に詰めている。曹瑛はそれを受け取り、アリペイ(電子決済)で代金を支払った。
一階に降りて、曹瑛は棚にある円盤状の包みや桐箱を見繕って購入している。伊織は値札を見て驚いた。そのひとつひとつが万単位だ。
躊躇無くそんな高い買い物をする曹瑛の姿を伊織は呆然と見ていた。
「用事は済んだ」
「では、帰りますか」
腕時計を見て、曹瑛は無言で歩き始めた。あらかじめ調べて道が頭に入っているのか、足取りに迷いはない。交差点を渡り、三叉路を住宅街の方へ入って行く。
「昼飯にする」
そこは中国東北料理の店だった。ネオン看板には東方熟食坊とある。壁紙にまで油が染みこんだ狭い店内には、簡体字のメニューが雑然と貼ってある。
香ばしい匂いが空腹を刺激する。着席した分厚い木のテーブルには巨大な丸い鉄鍋が備え付けてあり、そのインパクトに驚く。
曹瑛が早口の中国語で注文を済ませた。中国語で世間話をしながら笑っている。自分と一緒のときには見せない朗らかな表情に、伊織は複雑な気分に陥る。
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