エピソード8 首を絞めて詫びも無い

 伊織は首に食い込む曹瑛の手から解放されようとその腕を掴み抵抗を試みるが、呼吸困難により力が入らない。意識が遠のいていくのを感じる。ダウンライトの薄闇の中で切れ長の瞳が冷酷に光り、凄まじい殺気を感じた。

 意識が落ちる瞬間、曹瑛ははっと我に返り、手を放した。


「げほっ・・・ごふっ」

 伊織はフローリングの床に突っ伏して、懸命に呼吸を取り戻そうとしている。曹瑛はその姿を目を細めて見つめていた。


「ち、近寄るな」

 伊織は後退り、距離を取る。本気で殺される、そう思った。男どうしでプロレス技をかけ合ったり、軽いもみ合いのケンカに巻き込まれたこともあるが、そういうお遊びではない。

 尋常ではない握力、それに確実に頸動脈を締め上げてきた。しかも瞬時に狙いをつけて。伊織は壁に背をつけて尻もちをついたまま、抗議の目で曹瑛を見上げる。

 曹瑛は無表情で伊織を見下ろし、それ以上近づくことはなかった。そのまま毛布を拾い上げてソファーに横になる。


 これで謝らないのってどうかしてるぞ。遅れて怒りがふつふつと湧き上がってきた。呼吸が整い、冷静さを取り戻した伊織は曹瑛の背中を憎々しく睨み付ける。

 それに、客人をソファに寝かせて自分がベッドに寝るわけにはいかない。伊織にとってはそれが不義理に思えてどうしても譲れなかった。


 伊織は意を決して立ち上がる。首を保護するため厚手のタオルを巻き、警戒しながら曹瑛にじりじりと近付いていく。

「ここじゃなくて、ベッドで寝てください」

 伊織は毅然とした態度で挑む。

「あのう・・・」

 曹瑛は完全無視だ。絶対寝てなどいないくせに。しかし、恐ろしい首絞めが怖くて、これ以上曹瑛に近づけない。しばし様子を伺うが、反応が全く無い。こうなったら何も聞いてくれないのがこの男だ。


 伊織は諦めて寝室のクローゼットから毛布を取り出し、ソファーの近くに置いた。

「これ、寒かったら使ってください」

 返事は無く、寝息も聞こえてこない。

「勿体ないからベッド借りますよ」

 何が勿体ないのか、と思いながら断りを入れたと言い訳を作っておく。伊織は渋々ベッドに横になる。アパートのせんべい布団と大違いだ。あまりの心地良さに気持ち良く眠りについた。


***


 翌朝、スマホのアラームで目が覚めた。仕事を辞めても自堕落な生活はするまいとアラーム設定はそのままにしている。

 眠い目をこすり、伊織は半身を起こした。カーテンの隙間から漏れる朝日に目を細める。見覚えのないカーテンの色だ。そうか、ここはバイトで用意されたマンションだ。ベッドから置き上がり、顔を洗おうとバスルームに向かう。


「あれ、いない」

 朝日が射すリビングのソファに、曹瑛の姿はない。ふと、キッチンから良い香りが漂ってきた。テーブルにはサラダ、目玉焼き。箸の用意まで。

「おはようございます」

 寝ぼけた伊織の姿を一瞥し、曹瑛はドリップしたコーヒーを注ぎ始めた。バイトの自分の仕事なのに、客人に朝食を準備させるとは失態だ。


 伊織は慌ててバスルームに向かった。冷たい水で顔を洗うとやっと頭がすっきりしてきた。歯磨きの最中に、鏡に見入る。首の両側、曹瑛の指が締め付けたあたりがあざになっていた。背筋がゾクリと震えた。一体、どれだけの力で締め上げられたのか。

 顔を合わせるのも憂鬱だが、ドリップコーヒーの芳醇な香りに誘われて伊織は曹瑛の前に座る。


「昨日のことだ」

 曹瑛が口を開く。首を絞めてすまない、と謝罪を予想した。そう言うなら許すつもりだ。

「俺は眠っているときに他人が傍にくるのは好きじゃない」

 何を言っているんだこの男。伊織は驚いて埴輪のように口を開けたまま固まった。謝るどころか、近づいた伊織が悪いといわんばかりだ。

「気をつけることだ」

「ひとの首を絞めてそんな言い方って」

 伊織は憤慨し、断固抗議すべく立ち上がろうとする。曹瑛はそんな伊織を一瞥し、優雅な仕草で砂糖と牛乳をたっぷり入れたコーヒーを飲んでいる。

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