嘔吐のための共同歩調

「え、城前くんなに急に。ていうか西島くんのゲロ? は? そんなの見たいと思うかな普通。冗談にしても笑えないよ」


 ナイフで脇腹を刺されたかのような衝撃が体を駆け巡り、冷や汗が吹き出てくる。いやでもめっちゃ見たいですけどね、西島くんの嘔吐。

 「なんでこいつに看破されてるの」「好きなんだろ、ならわかるけどゲロってさ、そこまで詳細にバレてんのうわキツ」などと思いながら、私は動揺を隠そうと必死になる。でも城前くんがこちらをねめつけるたびに、体の中でうごめくグロテスクな部分が見透かされている気がして落ち着かない。髪の毛を激しく手で触っていると、彼はため息をついた。

「超図星じゃん。いや俺もひょっとするとそうなのかなーって思っただけだったから正直驚いてるんだけど」

「だから違うって城前くん、私は別にゲロなんて見たくないよ見ないほうがいいに決まってるじゃんだってゲロだよ吐瀉物だよ汚いおじや的なものだよ? いったん胃に収められた食べものが、横隔膜と腹筋の働きで外に放出された物体だよ汚いじゃん」


「別に隠さなくてもいいだろ。なんなら、俺もそうだから」


 うん? 今こいつはなんて言った?

 先ほどまで頭の中で吹き荒れていた思考の嵐がぴたりと止まる。私がなにも言えないでいると、城前くんは組んでいた腕をほどき恥ずかしそうに頭をかいた。その顔は険しかったが、ほんの少しだけ、締まりなく緩んでいた。


「俺、ケイのことが好きなんだよ。もちろん友達としてもそうだし、恋愛対象としても。んでそのきっかけが」

「もしかして、西島くんのゲロシーン? 見たの? いつどこでどのように」

「たしかあれは大学に入りたてのときに、どこだったかな、ああそうだアマチュア無線のサークルの新歓コンパに一緒に行ったときだ。あいつわりと雰囲気がいいじゃん。だから女子の先輩に捕まってしこたま酒を飲まされてたんだよ。そしたらベロベロになっちゃって。その先輩が用意したスーパーの袋にゲーッ、と」

 城前くんが手を口の前に持っていき、嘔吐のジェスチャーをする。

「いやあ、今思い出しても本当に素晴らしい光景だったよ。さっきまで一生懸命に笑顔を作ってたケイが『やってしまったな、でも気持ち悪くて無理だ』みたいな複雑な表情を浮かべて、袋の持ち手を耳にかけてるの。そしてちょっと遠くの席に座ってる俺を見て、笑うように目を細めたかと思うとまた袋に顔をうずめてさ、ときおり水っぽい咳をしながらえずくんだ。そのとき、俺の中のなにかがぱちんと弾ける感じがしたよ。ああ、なんかこいつを守ってやりたいなって思った」

 それから、ケイのことが愛おしくて愛おしくてたまらなくなった。熱っぽい声で彼はそう結んだ。え、城前くんってゲイ(もしくはバイ)だったのということよりも、彼も私と同じこちら側の人間だったということのほうが、はるかに衝撃的だった。


「まあもちろん、ケイのことが好きになったのはそれだけが理由じゃないぞ。優しいとか一緒にいて自然体でいれるとかいろいろあるけど、それらがゆっくりと降り積もっていってそうなっただけだ」

「なるほどね。まあ、それはわかったよ。でもさ、どうして城前くんも西島くんの嘔吐を見たがってるの。だってもう一回見てるんでしょうらやましい私見たことないのに」

「お前、わからないのか。映画だって本だって、すごかったものや面白かったものは何度だって見なおしたり読みなおしたりするだろ。それと同じだよ。俺はケイの嘔吐……神聖さすらまとっていたあの嘔吐シーンを、もう一度味わいたいだけなんだ。俺はただ――」

「そう、私もただ――」


 西島ケイが、ゲロを吐いているところを見たいだけ。

 

 私と城前くんが放った言葉が、きれいに重なる。その瞬間、私たちは固い握手を交わしていた。もう言葉はいらない。てのひらに伝わってくる熱い想いをお互いに受け止めあい、うなずく。

 その後、私たちは長い時間をかけて話し合いを済ませた。絶対に西島ケイの吐瀉物を拝んでやる。そう決意を新たにしながら席に戻る。机上にはトイレに行く前に城前くんが頼んだらしきハラミとシロ、新しいセンマイ刺しがそれぞれ一皿ずつ置かれていた。それらを網に載せたりつまんだりしながら、西島くんとマイは「ご飯頼まないの」「お腹が膨れるから嫌」などとどうでもいい会話をしている。


 自分の席に座り直した私は、いない間に運ばれてきていたレモンサワーで口を湿らせる。しかしそこで、西島くんの手元にある、さくらんぼの浮いているメロンサワーが半分ほど減っていてぎょっとした。その様子が目に入ったのか、マイが酒臭い息を私の首元に吹きかけながら話し出す。

「ああーセリカ帰ってきたから教えてあげる。今ね、肉を食ったら酒飲めゲームをしてんの」

 前に座っているとろんとした目の西島くんが「酒を一口飲まないと肉を食べられないんだよ俺は腹が減ってるのにさあ」と、ぼやきとも補足説明ともつかないことを口走る。明らかに席を立つ前よりも酔いが進んでいる様子だ。心の中でマイの行動を称賛しながら適当な相槌を打っていると、トイレのほうから城前くんが戻ってきた。椅子の上に腰をおろす瞬間、私たちはアイコンタクトを交わす。ふう、と小さく息を吐く。彼と話し合った計画を、実行に移すときがきた。


 城前くんによると、計画はこうだ。まず、彼がなにかにつけて乾杯を連発し、西島くんにお酒を枯らすよううながす。その後彼は「二杯目を飲んだのでもうソフトドリンクで勘弁して」と言い出し始めるらしい(城前くんの経験による進言)ので、ジンジャエールを頼むように仕向け、私と城前くんはジンジャーハイを頼む。そして最後にジョッキがやってきたら、どさくさに紛れて色が似ているジンジャーハイを西島くんに渡す。これで西島ゲロにぐんと近づくことができるという寸法だ。


 すべては、西島くんの嘔吐のため。焼きあがったシロを噛み砕いて飲み込むと、さっそく城前くんが西島くんに、飲んでなくないとかほくろの数が多いとか妙な絡みをし始めた。少し酔いが回ってきたらしいマイもそれに加わり、ジョッキを打ちつけあう音が響く。そして三回目の乾杯が終わると、メロンサワーが空になる。

「うー、もうみんな今日どんだけ俺に飲ませたいんだよー、もう無理だあ、ソフトドリンクにしてくださいお願いします」

 西島くんは頬杖をつきながらそう言う。城前くんの予想通りすぎる状況に驚きと少しの気持ち悪さを感じながら、待ってましたといわんばかりに私はメニューを差し出す。そして「じゃあジンジャエールにしなよ」と提案した。緊張で少しだけ声がうわずってしまったが、アルコールで判断能力がにぶっているらしい彼は、特に怪しむ様子もなくうなずく。空いた皿を手に厨房へ戻ろうとしていた店員を呼び止め、ジンジャエールとジンジャーハイ二つ、そして隣のマイから頼まれたカシスオレンジを注文する。


「木更、お前ずいぶん可愛いもの飲むんだな。いつもはずっとウイスキーロックとか熱燗とかそういうのばっかりなのに」

「えーいいじゃん。ゼミ一の酒豪と呼ばれている私にも、休息は必要なのだよ」

 城前くんとマイのやり取りを聞き流しながら、私はマルチョウを頬張る。染み出す濃厚な脂を舌の上で転がしながら西島くんに視線を送ると、彼は軽くうなだれていた。長めの前髪が目元を覆い、シャープでくっきりとしている口元が強調されている。その姿にどぎまぎしていると、絶妙なバランスでジョッキを両手の指の間に四つ挟んだ店員がやってきて、注文したものをそれぞれ机に並べて置いていった。マイや西島くんが手に取るよりも先に、それらを城前くんが素早く分配する。もちろんこの過程で、すでに中身は混ぜられている。それに加え、城前くんが店長と知り合いという人脈を活かし、ジンジャーハイについているレモンを、彼が先ほどのトイレの帰りに頼んで抜いてもらっていた。机に戻ってくるのが私よりも遅れたのはこのためだ。このお店ではアルコールもソフトドリンクも全部ジョッキで運ばれてくるので、ぱっと見では見分けがつかない。お酒を濃くするのはさすがにできなかったらしいが。


 全員のお酒が揃ったのを確認すると、城前くんがジョッキを掲げた。

「じゃあ、酒もきたし、乾杯しなおしますか」

 また乾杯かよという西島くんの声は、私とマイの異議なしという声に遮られる。固く澄んだ音が鳴り、各々がお酒を喉に流し込む。案の定、西島くんが口に含んだ酒を吹き出し、激しくせき込んだ。

「ちょ、ちょっと待ってよ。これお酒入ってない?」

「どれどれ……え、別にジンジャーエールと変わらないけど」

 城前くんは彼から渡されたものに口をつけると、平然とした顔でしらを切った。不服そうな顔をして何度か西島くんは偽ジンジャエールをちびちび飲む。それに構わず、城前くんは自分の杯を彼のジョッキに激しくぶつける。


「もう、ぐだぐだすんなよ。男だろケイ。そんなすずめみたいに飲んでないでぐいっといきなよぐいっと」

 彼は再び西島くんの口元に手際よくジョッキを固定した。彼の口から苦しげな呼吸音が漏れる。そして、あれよあれよという間にジョッキの総量の四分の一がなくなった。城前くんが手を離すと、西島くんは水泳の息継ぎのように、音をたてて深く息を吸う。


「ぶふぅ。やっぱり、なんか違う気がする。うう、頭痛くなってきたわ」

 息を切らしながらそうつぶやく彼の姿を見て、身勝手にも私は、少しかわいそうなことをしたなと思った。

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