原初の嘔吐、そのおもひで②
自分の口から蛇でも生まれたのかな、というような違和感が生じる。視線の先で、トモヒコくんの完璧な笑顔がぱりぱりと崩れていくのが見え、そこでようやく思考が現実に追いついてきた。好きな人の前で、私は思いきりゲロを吐いてしまったらしい。
呆然としていると、リノちゃん母が少しだけ慌てた様子で部屋の奥へ走っていった。壁際に置かれていた蛍光ピンクと黒色をしたリュックから、タオルとティッシュを取り出して戻ってくる。そして、それで毛布とその下の床に広がる胃液を拭きとり始めた。
「セリカちゃん、大丈夫、大丈夫だから」
なだめるような声が耳に届くが、そこに込められたリノちゃん母の優しさは、恋する乙女であった私の心には一ミリも届かなかった。
ありがとうございますともごめんなさいとも言えないままでいると、いつの間にかトモヒコくんもティッシュを片手に胃液に手を伸ばしつつあった。言いようのない恥ずかしさが体中を駆け巡る。それだけはやめてくださいお願いします。私の願いもむなしく、彼は私が派手にぶちまけた嘔吐物を拭い始めてしまった。床板に挟まっていた黒いスイカの種(未消化)が白い紙に包まれる。呆けている私の顔をのぞきこむ彼の顔は、完璧すぎてどこか不格好な笑みが浮かんでいた。
「トモヒコくん悪いんだけどセリカちゃんのこと頼める? わたし、他の人を呼んでくるから」
「わ、わかりました」
リノちゃん母は慌てて階段を降りていく。私はトモヒコくんと二人で部屋に取り残された。はっきり言って、地獄だった。
「ごめんなセリカ、スイカなら平気だと、思ってたけど、それさえもだめなほどだったなんて」
「ううん、トモヒコくんこそ私に気を使ってくれたのに。ごめん」
「いや、セリカの、せいじゃ、ない。俺の、せいだ」
なぜか息を詰まらせつつ、彼は一生懸命に私のゲロを拭いていた。トモヒコくんはいつだって優しい。今だって勝手に嘔吐したのは私なのにそれを自分の責任だとし、その罪を肩代わりしようとしてくれている。
頭の先からつま先にかけて、鋭い羞恥心が駆け抜ける。一刻も早くここから逃げ出したい。でも熱によるふらつきがまたひどくなり始めていて、上体を起こしているこの状態でさえも辛かった。倒れこみそうになった瞬間、トモヒコくんはいきなりすっと立ちあがった。どこかに行こうとしていたふうだったが、その足が動くことはなかった。
「ごめん、セリ」
水滴の垂れる音でその言葉は遮られた。トモヒコくんは口を手で覆っている。指の隙間から、なにやら液体が漏れている。彼が手を離す。コップの水をひっくり返したような音。落下地点に視線を移してみると、異臭を放つモノが私のゲロと隣り合った場所に沼のごとく溜まっていた。ニンジンやジャガイモと思われる固形物を含んだそれを見て、ようやく私は理解する。
トモヒコくんも、嘔吐したのだと。
きっと私のゲロを見たことにより誘発されたのだろう。言葉を変なところで詰まらせていたのも、きっと吐き気と戦っていたからに違いない。そんな健気な彼は、立ち込めるチーズのようなにおいの中で素早く身をかがめ、吐き出したカレーだったものを手で掬うようにして一箇所に集め始めた。うわごとのように「ごめん」と繰り返している。においに刺激されたのか、再びトモヒコくんは肩を震わせ嘔吐した。びしょびしょの雑巾を絞ったときと同じ音が発生する。一回目であらかた吐くものは吐いてしまったらしく、今回は私のゲロのように、ほぼ胃液しか出ていなかった。おそろいのスイカの種を、私は泡立つ胃液の中に見つける。
そんな、はたから見れば最悪なことが起こっている中、私は熱に浮かされた状態で、かすかな興奮を覚えていた。
私のことを心配してスイカを持ってきてくれたのも、ゲロを処理しようとしてくれたのも、彼が善性を十二分に発揮していたことの表れだろう。私に対してだけではなく、きっと他の子が今のような状況に陥っていたり、困っていたりしていたとしても、彼は同じようにその光り輝く性質を発揮したはずだ。私はずっとそれを理解していたが、本心では「トモヒコくん優しいけど完璧すぎて怖い」とも考えていた。人間らしい「本当は嫌」「勘弁してくれよ」などのマイナスな感情が、誰かがやらかしたことの尻拭いをする彼の中にはひとさじも含まれていないのではないか、という薄ら寒さをずっと感じていたのだ。
だけどこうして吐瀉物を直視した彼は、我慢できずにゲロを吐いている。モノを処理することに関して「ちゃんと真面目にやらなくてはいけない」という善意に「こんな気持ち悪いもの触りたくもない嫌だ」という悪意が勝ったことを、それは如実に示していた。その結果に私は、ああやっぱりトモヒコくんでさえも、きちんと人間らしい善悪入り混じった感情があるんだ、と安堵を覚えた。そして同時に、完璧を保ってきた人間が、醜い本心の権化であるゲロを惜しげもなく吐き出してうつむくその姿に、言いようのない愛しさと興奮を感じた。当時はかわいい犬を見たときのような、胸と目がきゅっと締めつけられてひたすらにかわいいとしか言えなくなる、あの気持ちと同じだと思っていた。しかし今思えばあれは、自覚してしまえばどこまでも際限なく落ちていくような、麻薬じみている抱いてはいけない類の感情だった。あれになんて名前をつけたらいいのか、今でもよくわからない。
しかし、あの事件があったことがきっかけとなり、以来トモヒコくんとは疎遠になってしまった。そのうえ、他人の嘔吐シーンを見るようなこともあまりなくなり、見たとしてもあのときのような強い感情の動きを感じることはなくなった。
そう、思っていたのに。
「かんぱーい! お疲れさまでした」
「特になにかしたわけじゃないけどね」
「こういうのは雰囲気が大事なんだ」
私の意識が過去の光景から、周りの人間がそれぞれ掲げているジョッキに戻っていく。からん、とガラス同士を打ちつける小気味よい音が鳴り、私が持つレモンサワー入りのジョッキが微かに震えた。中に、炭酸の気泡にまみれたレモンが沈んでいる。
「セリカ、なんかぼうっとしてなかった?」
「大丈夫。ちょっと昔のことを思い出してただけだから」
隣に座っている友人の木更マイが、小皿に山盛りになったミノを、机の上の七輪に並べていく。肉が炙られる音がして、前の席に座っている男子二人が歓声をあげる。
「腹減ったあ」
そう言って、私の真正面に座る城前カイトはひたすらにハイボールを喉に流し込む。顔にはすでにほんのりと赤みが差している。その彼を横目に、酒には手をつけず「センマイ刺しまだかな」と割り箸を手にはにかんでいるもう一人の男子に、私の視線は釘づけになる。
西島ケイ。白い肌と右目の下の大きな泣きぼくろが特徴的なその男は、私が熱い視線を送っているのに全く気づいていない。完全に網の上の肉にしか目がいっておらず、注文したラムネサワーも乾杯のときに口をつけただけでまったく減っていない。その場で地団駄を踏みたくなるのを抑え、机の下で強く拳を握る。
見てろよ西島くん。今日こそ必ず、お前が思いっきり嘔吐する瞬間を拝んでやる。
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