西島くんの嘔吐が見たい!

大滝のぐれ

原初の嘔吐、そのおもひで①



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 小学生の頃、私が入っていた学童クラブでは、毎年夏休みになるとキャンプがあった。学校の最寄りのバス停から貸切バスに乗り、県境に広がる山間部の村の小さなキャンプ場に向かい、そこで川遊び、キャンプファイヤー、流しそうめんなど、夏と聞いて誰もが思いつくような遊びを一通りやるのだ。


 たしか、私が三年生のときのキャンプだったと思う。当日、よし朝だキャンプだ集合場所に行かなきゃと息巻いて布団から立ちあがった私を、激しいめまいとふらつきが出迎えた。いやいやそんなはずはないまさかぁ。不安が頭を埋めつくしていくのを感じながら自分の部屋を出た。リビングに行き、親に愛想笑いを振りまきながら電話台の上にある木製の小物入れの引き出しを開ける。取り出したミルク色の体温計を脇に素早く挟み、待つこと数十秒。そこに表示された平熱よりも二度高い体温は、私を絶望させるには充分だった。なんでこんな日に限って夏風邪をひくのだろう。その場でじたばたしたくなるような、言いようのない気持ちが胸に宿る。


「どうしたの。早く行かないとバス出ちゃうわよ」

 体温計を凝視したまま立ち尽くしている私に、キッチンにいるお母さんが声をかけてくる。どうやら熱を計ったことはバレていないようだった。私は体温計をお母さんに見えないようにそっと小物入れの中に戻し、軽くスキップして朝食の置かれたテーブルに着く。

「うん、そうだね! キャンプ楽しみだなあ」

 パンを手でちぎりながら涼しい顔をする。お母さんに体調が悪いことが悟られていなかった時点で、もう覚悟は決まっていた。熱が出ている、めまいがしている。それがなんだというのだ。私はこの日を楽しみにここのところ生きていたのに、それを当日になっていきなりポッと出の病魔に邪魔されてなるものか。誰がなんと言おうと、私は水着を着て川を泳ぎまくり、キャンプファイヤーで火の神(多分、半裸になった友達のお父さん)から火を分け与えてもらい、流しそうめんをお腹いっぱい食べてやるのだ。ほとんど味のしない朝食を同じく味のしないオレンジジュースで飲み下しながら、私は胸の中で決意の炎を燃やす。平静を装いながら朝ごはんを食べ終えると歯を磨き、苺の飾りがついたお気に入りのヘアゴムで髪を結び、無駄にハイテンションな感じで私は家を出て集合場所に向かった。絶対にキャンプを楽しんでやる、そう思いながら。


 だけど、もちろんそうはならなかった。キャンプ場につくまではなんとか我慢できたのだが、川遊びの最中に水からあがった私を、その場でうずくまって動けなくなるほどのひどい寒気が襲った。近くで他の子の親と談笑していた指導員がこちらに駆け寄ってきて、私は手際よくバスタオルを体にかけられる。彼女が、どうしたのと真面目な顔で質問してくるが、私は答えられなかった。いや、答えなかった。ここで熱が出ていることが露呈してしまえば、今までの努力が水の泡になる。だけど、その年配の指導員の長年の経験からくる勘は鋭く、おでこに手を当てられてあっさりと体温が高いことがバレてしまう。

「すごい熱じゃない。すぐに着替えないと」

 彼女に手を引かれ、抵抗する間もなく私は河原を後にした。離せ私はまだキャンプを満喫してないぞっと思うも、歯がガタガタと震えうまく言葉にならない。結局、山の斜面に設けられた砂利道を登り、私は子供たちが寝る予定だった大きなバンガローではなく、保護者や指導員が泊まることになっている二階建ての一回り小さいバンガローに連れていかれた。「気持ちはわかるけど」とか「他の子にうつしちゃったらかわいそうよ」などと月並みな言葉を口にしながら、指導員は私の水着を脱がして体を拭き、パジャマに着替えるように指示した。しぶしぶ持参していた苺柄のパジャマに着替えると、私は毛布の中に強制的に寝かされた。また来るからね、と言い残して指導員はバンガローの階段を降りていく。足音が遠ざかるたび、視界が徐々にうるんでいくのがどうしようもなく悲しくて、静かに頭から毛布をかぶった。


 それから、かわるがわる友達やその親が私の元を訪れ、心配そうな顔をして励ましの言葉をかけてきた。しかし辺りが暗くなり外から飯盒炊さんで作っているカレーの匂いが漂ってくると、それもなくなった。リノちゃんという子のお母さんが私の看病を担当していたが、カレーを私の元に運ぶと、別のお母さんに呼ばれてバンガローを後にしてしまう。毛布が他の親や指導員のぶんとして大量に敷かれた部屋に、一気に膜のような静けさが降りた。とてもカレーを食べる気になれないし、おまけにめまいも復活してきたので、私はゆっくりと目を閉じた。


 次に目が覚めたとき、まず目に入ってきたのはリノちゃん母だった。彼女はちょうど私のおでこに手を添えようとしていたところだったらしく、ごめん起こしちゃったかな、とそばかすの浮いた顔に笑みを浮かべ、優しい声で囁いた。首を小さく横に振りそれを否定すると、誰かが階段を登ってくる音が床板越しに聞こえてきた。視線だけをそちらのほうに向けると、浅黒く日焼けした、髪の短い男の子が徐々に視界の中に現れた。


「セリカ、大丈夫か」

 声の主のトモヒコくんは、なぜか右腕を背中の後ろに持ってきた状態でこちらに近づいてきて、私の顔を覗き込んだ。襟がよれぎみになっているシャツの首元から、小学生にしては発達している胸板と腹筋がのぞき少しだけどぎまぎした。

 彼は学年が一つ上の四年生で、この学童クラブにおいては最終学年となる存在だ。つまり班長とかほにゃらら長とかそういう役職についている。そんな彼は私の所属する班の班長をしていて、なおかつ私の家の二件隣に住んでいるので昔から仲がよかった。さらにいうなら人望の厚さ、運動神経と頭のよさ、顔の整いかた、どれをとってもかっこいい。当時の私は彼のことが、超がつくほど好きだったのだ。


 大丈夫、と消え入りそうな声で返事をすると、トモヒコくんは輝きすぎて発光するんじゃないか、と思うほどまぶしい笑顔を浮かべた。そして、ずっと背中に隠すようにしていた右腕を、ジャーンという効果音と共にこちらに見せてきた。てのひらの上の紙皿に、スイカの切れ端が二つ並んで載せられている。


「お前川遊びの途中でいなくなっただろ。あのあとスイカ割りをしたときの余り。お前のために残しておいた。カレーは食べられないかもしれないけどこれならどうかなって」

 照れくさそうな様子でトモヒコくんが差し出すそれを、私はゆっくりと起き上がってから受け取った。おい無理しなくてもいいぞ、と声がかかるが、彼からもらったものを食べないなんて選択肢はそもそもない。赤い三角形にかじりつくと、甘い果汁が口を満たし、胸に幸せが広がっていく。トモヒコくん、私のことを心配してくれてるんだ、嬉しい。私は彼に笑いかける。


 それと同時に、思い切り嘔吐した。

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