映画館の隣に座っていた女性が、出演していた女優だった件

 マジか、と思った。


 暇を持て余して観に来た青春ラブコメ映画。

 それが、上映が始まって10分もたたずにいきなり隣の女性がグスグスと泣き出したのだ。

 それも序盤も序盤、登場人物たちが登場したばかりの段階でだ。


 一体何がどうしてそうなった?

 泣ける要素なんて微塵も感じられなかったのに。


 チラリと隣に目を向けると、女性はハンカチを口に当てながら号泣していた。


 なぜに!?

 いや、なぜに!?


 中盤の山場やクライマックスのシーンならまだわかる。

 なんでこんなオープニングで泣くの!?


 映画そっちのけできょとんとその女性を眺めていると、その視線に気づいたのか彼女がこちらに顔を向けてきた。

 ハッとするほどの美人さんだった。

 いや、照明も消されているし、口元にハンカチを当ててるからよく見えないのだけれども。

 少しウェーブのかかった髪にパッチリした大きな瞳、整った眉。

 20代後半くらいだろうか、オシャレなカーディガンを羽織っているその女性は、スクリーンの微かな明かりでもすごく綺麗に見えた。


 思わず見惚れてしまっていると、その女性が会釈をしてきた。


「ごめ……なさ……い……うるさい……でしょ?」


 泣きすぎているのか、うまくしゃべれていない。

 僕は答えた。


「い、いえ……。うるさくは……ないです……」


 ウソは言ってない。

 テレビやラジオ、新聞などでこれでもかというくらいに紹介されていたこの映画。

 そんな番宣の効果か、ほぼ満員の客席。

 僕と彼女はペア席に座っている。

 彼女の声はささやくほどで、きっとそのすすり泣く声も隣に座る僕にしか聞こえない程度のものだったろう。


「私ね、この映画の結末を知ってるの。だからつい、ね……」

「ああ、そうなんですか」


 なるほど、合点がいった。

 つまり彼女はこの映画を観るのが初めてではないのだ。

 映画好きには上映されているものを何度も観る人がいると聞く。きっとこの人もそのタイプの人間なのだ。


「てことは、泣ける映画なんですね」


 小声で尋ねると、女性は親指を突き出しながら「めっちゃ泣けるッス」と答えてくれた。

 やった、当たりだ。

 観に来て正解だった。

 実は正直、あまり期待してなかったのだ。

 今まで番宣に力を入れてたのに、本番でコケる映画を何本も観てきたからだ。この映画もその類の予感がしてしょうがなかった。

 けれども、ちょうど時間的に観られるのがこの映画しかなくて。

 製作陣には失礼だが、仕方なくこれに決めた(というと語弊があるが)、そんな感じだった。

 そもそも青春ラブコメなんてカップルで観るような映画だ。僕のようなお一人様にはちょっとハードルが高い。逆に見ず知らずの女性が隣に座っていてくれて安心したくらいである。


 僕は懐からハンカチを取り出していつでも泣ける準備をしておいた。



 そしてそれはまさしく彼女の言葉通りだった。

 映画は中盤から終盤にかけて怒涛の展開で、涙がとめどなく溢れてきた。

 余命いくばくもない少女と、そんな彼女のために尽くそうとする少年。

 その関係がもう素敵すぎて、切なすぎて、二人が何か言う度に涙腺が緩んだ。


「ヤバい……これヤバい……」


 目頭を押さえながらポツリとつぶやくと、隣の女性も「ほんとヤバいよね」と相槌を打ってくれた。

 気づけば、会場中からすすり泣く声が聞こえてくる。どうやら、泣いているのは僕らだけではないようだった。

 これはもはや青春ラブコメではなく、ヒューマンドラマだ。

 命の尊さ、愛の素晴らしさが見事に表現されている。


 特に良かったのは少女のお姉さん役の女性だった。

 登場から圧倒的存在感を放っていた彼女。

 ものすごく性格の悪いお姉さんとして描かれていて、ことあるごとに主人公の少年に罵詈雑言を浴びせ、「妹と別れなさい!」とまで言っていた。

 当初は「何様だよ」と思って観ていたけれど、後半になってくるとそれは妹のためではなく、死に別れを経験させたくない少年のためとわかって切なかった。


『お願い、妹と別れて……。お願いよ……』


 終盤、そう言って泣き崩れる彼女にものすごく同情してしまい、さらに泣いた。


「ううう……お姉さんいい……。すごくいい……」


 ハンカチで口を押えながら嗚咽をもらしていると、隣の女性から「ううう、ありがとう……」となぜかお礼を言われた。そこに若干違和感を感じたけれど、気にせず映画の鑑賞を続けた。



 ラストはもう秀逸の一言に尽きた。


『笑って見送ってほしい』という少女の希望を叶えるため、笑顔で看取る少年とお姉さん。そして安心するかのように微笑みながら息を引き取る少女。

 病室の窓の外で風に乗って桜の花びらが空に舞い上がるシーンで映画は終わった。


 エンドロール後は会場中がスタンディングオベーション状態。僕は立ち上がる気力すらなく、泣き崩れていた。


「めっちゃ泣けたねー」

「お姉さん役の人、すごくハマってたね」

「また観に来ようよ」


 明るくなった会場で多くの客が満足げに帰って行く。

 徐々に人が減って行く中、僕もハンカチをしまい、帰る準備を始めた。

 本当に大満足の映画だった。

 こんなに泣けたのは久しぶりだ。

 脚本も良かったし、役者も素晴らしかった。

 絶対また観に来よう。そう思って隣の女性に顔を向けた。


「あの、僕のほうこそうるさくしてすいませんでした」

「ううん、こちらこそ。一緒に観てくれてありがとう」

「………」



 その瞬間、時が止まった。



 隣に座っていたのは、今まさに上映されていた映画のお姉さん役の人だったからである。

 ハンカチで目頭を拭いてるその姿は、スクリーンで流れていたワンシーンそのものだった。


 なんで?

 え? なんで?


 あまりの衝撃に思考回路が停止する。

 隣に座っていた女性は、素顔をさらけ出しているということに気づいないのか、ニコヤカに微笑んでいる。これは……ツッコんでいいのだろうか。それとも、気づかないフリをしたほうがいいのだろうか。

 ツッコんだらツッコんだで怒られそうだし、気づかないフリというのも無理がある。


 言葉を失って固まっていると、その人は唐突に察したのか慌ててマスクと分厚いメガネを装着した。

 そして何事もなかったかのように一言。


「あ、人違いですー」


 いや、めっちゃバレてるし!

 隠しきれてないし!

 ウソ下手か!


 本人もどうやら誤魔化しは効かないと観念したのか、人差し指をマスクの上に当てた。

 どうやら内緒にしておいてほしいということらしい。

 僕はわけがわからずコクコクとうなずいた。


 てか、どういうことだ?

 なんで出演してた女優さんがわざわざ観に来てるの?

 試写会か何かで観てるんじゃないの?


 いろんな疑問が頭の中でうずまく。

 すると彼女は僕の疑問に答えるかのように言った。


「実は私ね、この映画がほんと大好きなの。今日はオフだからプライベートで観に来てて」

「え、あ、ああ、そうなんですか……」


 やっとのことで声を絞り出す。

 まさか好きだからという理由で自分が出演している映画を観に来るとは。

 そんなことあるんだ。

 そうか、だからさっき「ありがとう」と言ったのか。僕がお姉さん役の人を褒めた時に。

 幸いなことに、会場内のお客さんは映画の話題に夢中で誰ひとり気づいていなかった。


「あの、よくあるんですか?」

「え? なにが?」

「出演してる俳優さんが、自分の出ている作品を観るために映画館に来るって」

「さあ。私は知らないけど。でもいるんじゃないかな? お客さんの反応も見たいっていう人もいるだろうし」

「そうですか……」


 例えそうだとしても、そんな人が隣にいるなんて何万分の一の確率だろう。いや、何億分の一かもしれない。

 はっきりいって、いまだに夢を見ているのではないかと疑ってる自分がいる。

 けれども頬をツネっても手の甲をツネっても爪を噛んでも、目が覚めない。やはりこれは現実なのだ。


「ごめんね、驚かせちゃったね」


 彼女の言葉に僕は全力で首を振った。


「いいえ、いいえ! デントモ……トンデモないです!」


 緊張しすぎて日本語がおかしくなっている。

 慌てふためく僕に、彼女は「ふふふ」と顔をほころばせて笑った。

 うっわ、めっちゃ綺麗。

 メガネとマスク越しでもめっちゃ綺麗。


「じゃあ、行くね。できれば、ここで私と会ったこともナイショにしておいてほしいな」

「はい! はい! それはもう!」


 そうだ、この人はプライベートで来てるのだ。だとすれば、黙っておいた方がいい。

 コクコクとうなずく僕に満足したのか、彼女はクスリと笑って手を振りながら去って行った。

 コツコツとヒール音を響かせて去っていくその後ろ姿は、いつまでも僕の脳裏に焼き付いた。


 まさか映画館の隣に座っていた人が、出演していた女優さんだったなんて……。


 僕はしばらく腰が抜けて立てなかった。




     ※



 『ほころぶ、春』


 今回僕が観たその映画はメガヒットで、社会現象にまでなっていた。

 街中のいたるところに映画関連のグッズが売られ、模造品まで出回る始末だった。


 僕はそれから何度か映画館に足を運んだけれど、当然ながら彼女と会うことはなかった。


 あれは夢だったんじゃなかろうか。

 映画で感動しすぎて幻覚を見ていたんじゃなかろうか。

 いまだに信じられず、毎日頬っぺたを引っ張っている。


 隣に座っていた女性、いや女優さんは主人公の少年や少女とともに連日テレビに引っ張りダコのようで、画面に映らない日はなかった。

 僕はそれを、どこか遠い世界の出来事のように見つめていた。



 ある日、お昼の生放送に彼女が登場した。

 あの時と同じ格好をしていた。同じ髪型をしていた。

 違うのは、メガネもかけていないしマスクもつけていないことだ。

 やっぱり。

 やっぱり、あれは夢なんかじゃなかったんだ。

 僕はテレビの画面を食い入るように見つめた。


「今日は女優の桜ノ宮京子さんにお越しいただいています。まずは『ほころぶ、春』の大ヒット、おめでとうございます」

「ありがとうございます」


 MCの言葉にお礼を言いながら頭を下げる彼女。

 物腰の柔らかさから優しさがあふれ出ていた。


「ところで、出演者から聞いたんですけど桜ノ宮さんはよくお一人で映画館に行かれるとか?」


 その言葉にドキンと心臓が跳ね上がる。


「えー? 誰から聞いたんですかー? もう、ナイショにしてたのに。はい、本当です」

「へえええ、本当なんですか。それは映画館スタッフもビックリでしょうねえ」

「それが気づかれないんですよ。変装してますから」


 そうね。

 僕も最初、気づかなかったものね。


「どういうジャンルを観られるんですか?」

「あまりこだわりませんね。ホラーも観ますし、アニメも観ます。アクションやSFも観ます。とにかく、いろいろです」

「最近はどういったものを観られたんですか?」

「この映画です」

「この映画?」

「『ほころぶ、春』」

「ええっ!? ご自身が出演されてる映画を観に行かれたのですか!? そりゃまた……」


 おおげさにひっくり返るMC。

 うん、そりゃ驚くよね。


「どうしても劇場で観たくなってしまって……。先週、オフの日に観て来たんです」

「そりゃまわりもビックリしたでしょうねえ」

「それが、気づかれなかったんですよー。って、さっきも言いませんでしたっけ?」


 そうね。

 気づいてビックリしたの僕だけだったものね。


「でも、すっごくよかったです。映画館で観るとより一層感情移入しちゃって。開始早々、ボロボロ泣いちゃいました」

「開始早々ですか? まわりから変な目で見られませんでした?」

「隣に座っていた男の方が不思議そうに見てましたけど、注意はされなかったです。絶対、なんだコイツって思ってたと思うんですけど」


 笑い声がテレビから流れる。

 わ、話題になってる……。

 僕の事が話題になってる……。

 そして言葉は違うけど「なんだコイツ」は合ってる……。


「でも最後は二人でヤバいヤバい言いながら号泣してました」

「桜ノ宮さんとですか?」

「はい」

「うわあ、羨ましいですね、その人。もしかして桜ノ宮さんに気づいてなかった?」

「上映中はたぶん気づかれてなかったと思います。上映後に顔を隠すの忘れてて思いっきりバレましたけど」


 再び笑い声がテレビから漏れる。

 顔をほころばせて笑う彼女の姿に、僕は胸の高鳴りが抑えられなかった。

 嬉しい。

 あの女優さんが僕の事を話題にしてトークしてる。

 別の意味で泣けてくる。


「じゃあ、大騒ぎになっちゃったんじゃないですか?」

「いえ。その人、私の事を気遣ってくれて最後の最後まで黙っていてくれたんです。先に帰った私を追いかけてもこなくて……」


 驚きのあまり声が出なかったのと、腰が抜けて立てなかっただけだ。

 と、ここで言ってもしょうがない。


「へええ、紳士ですね」

「歳は若干、私の方が上だったと思うんですけどね。素敵な方でした」


 マジか。

 僕は何度も何度も耳を引っ張って、彼女の言葉を頭の中で反芻はんすうした。


 素敵な方でした、素敵な方でした、素敵な方でした………。


 ヤバい、死ぬ。


「また会えるといいですね」

「はい、また一緒に映画を観たいです」



 画面越しに微笑む彼女の笑顔に、僕は一瞬で溶かされた。

 季節は初春。

 春の雪解け水のごとく、僕の心の中に“恋”という名の奔流が押し寄せてくるのを感じた。

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