できれば、きみの飼いねことして生まれ変わりたい

 ボクにとって、彼女は特別な存在だった。


 初めて出会った時、彼女は泣いていた。

 公園の木の陰でしくしくと泣いていた。


“人間”に対して警戒心の強いボクだけど、その少女にだけは怖さは感じられなかった。

 車いすに座る彼女のか細い身体がぶるぶると震えているのが、あまりにも弱々しく見えたからだと思う。


「泣いてるの?」


 普段、ボクは“人間”に声をかけることはしない。

 けれども、なぜか彼女に対しては声をかけてみたくなった。


「……?」


 彼女は泣きはらしたその顔をボクに向けた。

 そばかすだらけの顔に、真っ青な瞳、髪の毛は縮れた赤毛。

 泣いていたために目が充血し、ほっぺたが真っ赤で鼻水までたらしている。


 同じ“人間”だったら、きっと品の無い顔と笑うのだろうか。蔑んだりするのだろうか。

 でも、“人間”でないボクにそんな感情はわきあがらなかった。

 むしろ、ボクは彼女に愛情を感じてしまった。


「ねこちゃん……?」


 彼女はボクの姿を見てつぶやく。

 とても小さくて弱々しい声だった。


「どうして泣いてるの?」


 ボクは彼女のかたわらに座り、顔を上げてそう尋ねた。

 もちろん、ボクの言葉なんて通じない。

 きっとこの言葉は鳴き声にしか聞こえないだろう。

 彼女は泣きはらした顔を向けながら聞いてきた。


「もしかして、私を励ましにきてくれたの?」


 ちょっと違う。

 違うけれど、まあいいやと思った。


「うん、そうだよ」


 ボクが答えると、彼女は嬉しそうに笑って

「おいで」

と言って両手を開いた。


 吸い込まれそうな笑顔だった。


 ボクはその両腕の間に滑り込むようにジャンプすると、車いすに座る彼女の膝の上に飛び乗った。


「きゃっ!」


 彼女は一瞬驚いた悲鳴を上げたけれども、すぐに「ふふ」と笑った。


 彼女の膝の上は心地よかった。

 彼女の体温は温かかった。


「めずらしいね、人間を怖がらないなんて。飼いねこだったのかな?」


 そう言ってボクの背中を撫でまわす。

 ボクは生まれついてのノラだったけれど、こうして“人間”と接するのは初めてだった。

 人間の膝の上は、思いのほか快適だった。

 身体中を撫でまわすその感触がとても気持ち良くて、思わず目を細めてしまった。

 家猫はこんなに幸せな毎日を送っているのか、とちょっと嫉妬する。


「うふふ、気持ちいい?」


 彼女は笑いながら何度も何度もボクの背中を撫でてくれた。


 彼女の指先からは、優しさと慈しみが感じられた。

“人間”は怖いイメージしかなかったけれど、とんだ勘違いだったらしい。

 生まれて初めて気がついた。

 でも、気づくのがちょっと遅かったかもしれない。



 背中を撫でまわされていると、ポタリ、と冷たい何かが落ちてきた。

 びっくりして顔を上げる。

 そして驚いた。

 また、彼女が泣いていた。

 笑顔を浮かべながらも、大粒の涙を流しながら泣いていた。


「どうしたの?」


 思わず首を持ち上げて尋ねる。

 彼女は背中にまわしていた手を自分の顔に持って行って、しくしくと泣きはじめた。


 どうしたのだろう。

 何があったのだろう。


 戸惑うボクに、彼女は泣きながら言った。


「ねこちゃん。私ね……、私……今日お医者さんに言われたの。きみはもう長くないだろうって。この冬が越せるかどうかだろうって……」


 ボクには彼女が言っている意味が半分ほどしかわからなかったけれど、言わんとしていることはなんとなくわかった。

 わかってしまった。


「死んじゃうの?」


 その問いかけに、彼女は無言でボクを抱きしめた。



     ※



 病院の近くにあるその公園は、ボクのすみかだった。


 ときたま、道行く人がエサを置いていったりするし、雨露がしのげる小屋もある。

 とても居心地のいい場所だった。


 彼女は毎日、ここを訪れた。

 ボクに会うために。

 ボクと触れ合うために。

 エサも持ってきてくれる。


 ケンサやらチリョウとやらで長くはいられないらしいけど、ボクは短いながらもそんな彼女と一緒にいられるのが楽しかった。


 生れ落ちて15年。

 詳しい年月までは覚えていないけど、だいたいそれくらいだ。

 長く生きたボクにとって、こうして“人間”と触れ合うのは初めての経験だった。


 彼女からは、優しさと愛情をすごく感じられた。

 ボクもそんな彼女が大好きで、心から愛情を注いだ。


「病気、よくなるといいね」


 伝わらないだろうけど、そんな言葉もかけてみた。


「私も好きだよ」


 彼女はそう答えた。

 大きな誤解が生じているけど、どうでもよかった。


 彼女の膝の上で優しく撫でられる。

 ボクはそれだけで幸せだった。


「この公園はね、春になったら桜がいっぱい咲くんだって」


 彼女は枯れた木々を眺めながらそう言った。


「知ってるよ。だって、ボクはここに何年も住んでるんだから」

「きみと見てみたいなあ。満開の桜」


 優しく撫でながらそうつぶやく彼女の目からは、涙が伝っていた。

 ボクは気づかないフリをした。


「きっと、きれいなんだろうね」


 彼女のその言葉は、あきらめにも似たように感じられた。

 だからボクは言う。


「絶対、見よう。約束だよ?」


 彼女は笑った。


「なあに? きみも見たいの? うふふ、そうね。一緒に見ようね」


 その言葉が現実になることを、ボクは願った。



     ※



 年が明け、冬の寒さが一段と厳しくなった。

 数週間前から彼女はボクの前に現れていない。


 毎日会いにきていたのに、パッタリと来なくなってしまった。

 最後に会ったのはいつだろう。


 でも、この寒さじゃ無理もない。

 病院の中にいたほうが、いいだろう。

 そう思いながらも、ボクは心がぽっかりと開いたように寂しくて、つらかった。


 会いたいなあ。


 そんなことを思いながら、公園の木の陰で彼女が来るのを待った。

 あの、そばかすだらけで青い眼をした優しい女の子。


 ボクの初めてのお友達。


 いろいろな人間と出会ったけれど、彼女が一番優しくて儚げで、そしてきれいだった。

 桜が咲くまで、あとどれくらいだろう。

 ボクは春が待ち遠しかった。



     ※



 桜が咲いた。


 淡いピンク色の桜の花びらが、ひらひらと舞い落ちている。

 ボクはもたげた身体をむくりと持ち上げて、桜を眺めた。


 何十本と咲き乱れる桜の木々。

 まるで、幻想的な光景だった。


「きれいだ……」


 ボクは起き上がりたかったけれど、もう足に力が入らなくて起き上がれなかった。

 どうやらこの命もそう長くはない。

 舞い散る桜の花びらを眺めながら、そう悟った。


 思えば15年、いや16年か。

 ノラにしては長生きしたほうだと思う。

 病院のそばの公園というのがよかったのかもしれない。

 いろいろな“人間”にエサをもらうことができた。


 でも、どうやら歳にはかなわなかったようで。

 この冬の寒さに、全身をやられてしまったみたいだった。


 短くも長かった人生。

 悔いはない。


 そうは思いながらも、心残りが一つだけあった。



 彼女に会いたい。



 最期に一目でいいから、彼女と一緒にこの桜を見たかった。


 でも、あれから一度も彼女はここを訪れることはなかった。

 チリョウに専念しているのだろう、とも思ったけれど、もしかしたらもう死んでしまったのかもしれない。

 出会ったときの彼女の顔には、あきらめのようなものが浮かんでいた。


 だとしたら。


 だとしたら、悲しいけれどもう二度と会うことはできない。

 あの腕に抱かれることはない。


 でも、じゅぶんだった。

 最後に彼女と触れ合えて。

“人間”の愛情というものを感じられて。

 そして、美しい桜を眺めながら死んでいく。

 これ以上の幸福はないだろう。


「ありがとう」


 なぜか、その言葉が出た。

 ボクの最期の言葉。

 誰に発したかわからない言葉──。




 その時、パアッと世界が明るくなった。


 ……?


 かすんでいた視界が鮮明になり、身体が軽くなった。

 動かなかった足が羽のようだった。

 力がまるで入らなかったのに、すんなりと立つことができた。



 そして。



 立ち上がったボクの目の前に、彼女がいた。

 満面の笑みを浮かべてボクを見つめていた。

 車いすには乗っておらず、しっかりと両の足で立っていた。


 唐突に現れた彼女の姿に、ボクは時が止まった。


 会いたくて会いたくてたまらなかった彼女が、目の前にいる。

 微笑みながら、両の腕を広げてボクを抱きしめようとしている。


「迎えにきたよ」


 その言葉に、ボクは嬉しくなって彼女の胸に飛び込んだ。


「わっ!」


 勢いをつけすぎたのか、彼女の身体が少しのけぞった。


 嬉しい。

 嬉しい!

 嬉しい!!


 彼女の笑顔がここにある。

 彼女の存在を感じられる。


 ボクはいままでの寂しさを晴らすかのように、彼女の胸に顔をうずめた。


「どこに行ってたの!? ずっと会いたかったのに」

「ごめんね、寂しかったよね」


 いたわるようにボクを包み込む彼女。

 ぐりぐりと胸の中で頭をこすりつけながら、ボクは文句をいっぱい言ってやりたかった。


 でも、できなかった。


 温かくて。

 気持ちよくて。


 彼女と再会できただけで、言いたかった文句はすべて吹き飛んだ。


 彼女がいる。

 それだけで幸せだった。


「ねこちゃん、ありがとう。桜が咲くまで、生きててくれたんだね」

「……?」


 彼女の言葉にクエスチョンマークが浮かぶ。

 ふと見ると、地面にはぐったりとしたボクの身体がある。


 よく見れば、彼女の身体も透き通っていて、まぶしく輝いている。


 そうか。

 ようやく合点がいった。

 今のボクも、目の前の彼女も魂なのだ。

 ボクらは死んでようやく再会できたんだ。


「一緒に桜を見ようって約束したもんね。私は先に逝ってしまったけど、きみが生きててくれたから、こうして一緒に桜を見ることができるよ」


 彼女の腕に抱えられながら、花びらの舞う桜の木に目を向ける。


 本当に。

 本当にきれいだった。

 今まで見た、どんな桜よりもきれいだった。


「きれいだね。こんなにきれいな桜、生まれて初めて。生まれ変わっても、こんなきれいな桜が見られたらいいね」

「そうだね。また一緒に見たいね」


 答えながらも、ボクは思う。



 できれば、きみの飼いねことして生まれ変わって。



 その願いが叶うかどうかはわからない。

 でも、光に包まれながら、ボクにはなんだか明るい未来が見えた気がした──。



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