短編一

サツキノジンコ

短編一

自分には今、余りあるほどの金がある。

いつかの自分では絶対に掴み取れなかったであろう金額だ。

しかしこの金のことを、俺はまだ家族には話していない。

だから今日も愛する妻は朝早くに出勤し、目に入れてもいたくない愛娘は小学校へと登校した。

俺は昼下がり、詮無きことを考える。

オンボロの木造アパートの一室で。

結婚なんて――しないと思っていた。

いや、できないと思っていた――の間違いか。

 実際妻に出会うまでは、俺は一度も女性と交際したことがなかった。二十三歳になるまで一度も――だ。

 勿論、女性経験もなかった。

 だからその時、自分は一生こうなのだと確信していた。

 一度も人と交わらず、親以外の誰かを愛することはないのだと。

 ただそんな予感ならしていた。

 中学校で不登校になり、何とか高校へは入学こそしたものの、どこかでこんな奴らとは違うと驕っていたあの頃に。

 俺は一生このままなのだと。

 一人ぼっちである事容認し、それでもいいと納得すらしていた。

 だが、人は悲しいもので、二十一歳の頃一度だけ人恋しいと思ったことがある。

 決意が揺らいだことがある。

 両親が事故で死んだときの事だった。

 もう、自分を知っている人はこの世で誰一人としていないのだと悟った。

 兄貴たちはいたが、俺はやはり腫れもの扱いで、こいつらの事を親族だとは俺もアイツらも思っていなかった。

 当然葬式以来会ってもいなければ、携帯電話の電話番号も知らない。

 墓には参るが、彼岸や盆は敢えて避け、いつも一人で参っていた。

 母は気さくな人で仕事も家庭も本気で取り組める人だった。

 父は頼りがいのある人だったが、頭は少し硬かったかもしれない。

 二人ともいい人で俺は幸せだったが、それが逆に重荷でもあった。

 ――贅沢、である。

 本当に、これ以上ないくらいの、幸せな悩みだった。

 だから俺は逃げてしまった。

 俺が不幸であれば、親が毒親であれば――そんなことを思って逃げた俺を、兄貴たちは許せなかったのだと思う。

 それは残酷なようで、一番アリガタイ選択だった。

 結局兄貴たちも、俺のことを思っていてくれたのだ。弟が少しでも幸せになれるように、弟の重荷に少しでもならないために、自分たちを切った。

 良い兄だったのだ。

 今となっては娘に親戚の一つもいないのは酷だと思うが、しかしあの頃の俺に娘ができると言っても信じないだろう。

 きっと一人を確信し確定した二十一歳の俺は、何を言われたって信じやしない。

 自分を愛する女ができることも、ウソのような金が回ってくることも、信じやしない。

 でも、初めて女を知った二十三歳の俺でも、信じなかったかもしれない。

 あの時俺は、今の妻のことをただのモノ好きな女だと――疲れて自棄になってしまった女性なのだと思っていた。

 どうせ一夜限りの関係だと割り切ってすらいた。

 投げかけられた言葉も、その時は全てウソだと思っていたせいで、どこで出会い、どんな話をしたのかすら憶えていない。

 覚えているのは、女と交わることの悦びと、すべて終わった後の快感だけだった。

 失礼な話である。

 だが実際にそうだった可能性だってある。

 彼女は疲弊し、俺は生にも死にも価値を見出していなかった。

 それだけが事実だ。

 その後彼女は何故か家に入り浸るようになり――そこからやっと記憶というか、思い出が朧気に点在しだす。

 それまでの俺は、中学校で不登校になってからの記憶や思い出が、ずっと存在しなかった。

 毎日生きるために必要な呼吸をし、栄養を摂る。光合成の代わりに最低限の稼ぎを得る生活は、さながら植物のようであったといえよう。

 非生産的な生活。

 感情的要素が、すべて欠落していた。

 いつの間にか一年が経ち、茫然としている内に二年が経っていた。

 瞬くほどに早くはなかったが、ウンザリするほど遅くもなかった。

 三年が経つ頃には、俺も彼女も愛を自覚していたと思う。

 その証明が目に見える形で欲しくて、結婚した。

 だが今思えば不思議でもある。

 彼女であればもっといい相手と結ばれることだってできたはずだ。たとえ相手がいなくても、こんなオンボロの日陰アパートで暮らすことはなかっただろう。

 一人ぼっちの方が、より幸せな日常を手に入れられただろうに。

 恥ずかしい話、僕は彼女に養って貰っているし、彼女は娘も養っている。

こんな穀潰しのクズ野郎など早く捨ててしまえばいいのにと、思うことは以前からあった。

だがそれは、金の問題ではないのだと最近になってようやく気付いた。

声に出すのもおこがましいような金を手に入れても、やはり俺と彼女は釣り合っていないのだと思うのだ。

ヒトとしての魅力が足りていない。

夫でいるべきではない――と思う。

一度だけ、まだ結婚をしていない関係の時に、別れ話を切り出したことがある。

それとなく――ではなくハッキリと。

その時彼女は何も言わずに小さな涙を一つ床に落として家を出た。

彼女と出会い結婚して今日に至るまで、彼女が見せた涙はその一回きりだった。

 小さなシンクの上に乗せられたまな板にはネギが半分ほど輪切りにされ、一つしかない五徳の上には二人分の味噌汁が入った鍋が放置されていた。

 これで彼女は自由になったのではないか。

 だからこれでよかったのだと、その時ぼくは自分を慰めた。

 しかし次の日、彼女は朝から我が家にやってきて、二人で正座して小さな卓袱台を囲んだ。

 沈黙の中理由を問われ、俺は素直に返答した。

 天が落ちてきそうな重い空気の中、彼女は一言――そう、とだけ言ってまたシンクに立った。

 それ以来俺から別れ話をしたことはないし、これからも俺から別れ話をすることはないだろう。

 そしてふと、窓の外を見る。

 昼下がりだったはずの時刻はいつの間にか夕刻になり、ビルに反射した夕日が部屋の中を淡い朱色に染め上げていた。

 そろそろ、娘が帰って来る頃である。

「――ただいまなのです!」

 玄関のドアが開き赤色のランドセルを背負った娘の元気な挨拶が聞こえる。

「ただいまー、今日は偶々早く仕事上がっちゃって、そこでナツちゃんと出会ったから一緒に帰ってきちゃった」

 少し遅れて今度は愛する妻の声がした。

 彼女は靴を脱ぎながら、今日の帰りが早い理由を説明する。

 どうやら俺も応える必要がある。

「――おかえり」

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短編一 サツキノジンコ @satukino

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