彼の意志

「ねえ、あんたに選ばれなかった女は泡になって、消えるんじゃ?」


 エミリーはマースリンのほうを向いて、口に出す。

 声は震えていたけれど彼女の瞳は、確信を得たような光を宿していた。


「彼女のモチーフはマーメイドだわ」


 娘は声を張り上げる。

 ちょうどマースリンも同じことを考えていたところだった。


 分かってはいた、彼女は恋に敗れて泡に消える存在だと。

 それが合っていれば確かに自身は彼女の天敵だ。

 戦わずして勝てる。

 だが、それは――


 瞳が震える。

 心が揺らいだ。


「君はそれでいいのか?」


 クリスが問いかける。

 エミリーは空気を読んで口を閉じ、硬い表情になった。


 マースリンは口ごもる。

 一瞬の迷い。

 別の結末もあったのではないかと、想像したくなる。

 いや、今さらだ。

 彼女が間違いを犯せば殺す。

 彼の意思は最初から決まっていた。

 そのために目の前の二人と組んだようなものだ。


「それでも私は彼女と戦おう」


 それが対抗者としてのおのれの責務だ。

 未練を振り払うように顔を上げ、燃える瞳で前を向く。


「行こう」


 力強い声を聞いてクリスとエミリーは顔を見合わす。アイコンタクト。声には出さずに心を確かめ合い、やがて彼れは立ち上がる。

 さあ、決戦だ。

 先に二人がリビングを出る。

 マースリンも開いた扉をくぐって、外へ。

 廊下にはランタンを掛けてあるが、今は消してある。


「気づかずともよかったものを」


 全体に影が広がる中、壁から数ミリ離れた位置で、ナチュラルな格好をした女が構えていた。

 暗い空間で彼女の外はねボブが、純金の輝きを放っている。


 マースリンは動きを止めて、壁の方を向いた。

 向き合ったところで女――アウローラは問いを投げる。


「あの娘のこと、どう思っとるんじゃ?」


 眉間にシワを寄せ、硬い口調で。


「彼女を恋愛対象に見たことは、一度もないな。無論、あなたに対しても」


 穏やかな口調で、述べる。

 つまり、本人に“その気”はない。


「そうか、わしらは不毛な争いをしとったんじゃな」


 腑に落ちたようにつぶやき、目を伏せる。

 次に彼女は顔を上げて、目をつり上げた。

 眉をひそめ咎めるような口調で問いかける。


「主、なぜ伝えなんだ? わしが御使いであると」

「意外だな。てっきり気にしないものかと」

「なんでそう思うんじゃ?」

「おや、自覚がないのかな。これはひどく残酷な行いなのだよ」


 揶揄するように言い、彼は詳細を語り出す。


「あなたが私を選んだのは“マースリンという男が誰にもなびかぬ者”であるため。私がマリエッタ・ローレライになびかなければ、彼女は泡に消えるのだ。あなたがそう・・なるように仕組んだ。いや、この情報を知っていたのはもっと上――神か」


 推理を並べるような口調から、なにかを思い出したように声色を変え、口を閉じる。

 アウローラを見つめ、目を細める。


「あなたは私を知らなかった。無論、今回の結末も。ちょうど今、次のように思っているのではないかな? 『こんなことになるとは思っていなかった』と」


 マースリンは他人を愛さない。

 それを知っていたのなら先ほどの質問――「あの娘のこと、どう思っとるんじゃ?」は出さなかっただろう。


「なんじゃ全部知っとるではないか。意地が悪いのは主のほうじゃ」

「おっと、これは失敬」


 のらりくらりと交わすように告げ、気を取り直して、彼は言葉をつむぐ。


「私はあなたを人でなしと言いたいわけではないのだよ。実際におのれの正体を知っていたらショックを受けたのではないかな? 御使いとしてのあなたアン・プルミエならともかく、ただの人間と化していたあなたアウローラは」


 冷静な指摘。

 澄んだ青の瞳が揺れる。


「そうじゃな。わしはあの娘を気に入っとった。敵でいたくはなかったんじゃが」

「では、あなた方の関係を崩したのは、私だな」


 マースリンは視線を下げ、かすかに笑う。


「私も続けたかったな、できるのなら」


 惜しむように、または割り切った様子で、つぶやく。

 それを意外に思ったのかあっけにとられたように、アウローラは固まった。

 だがすぐに真剣な表情になり、呼びかける。


「嘘でもいいんじゃ。応えてやってくれんか? あの娘の想いに」


 救いを求めるような熱い口調だった。

 マースリンは口を閉ざしたまま、沈黙する。

 重たい空気。

 激しい雨音。

 雷の轟音。

 ピカッと光ってグレーの空が明るくなった。

 稲光は同時にアウローラを照らす。

 唇を引き結んだ顔。

 彼女の頑なな表情をチラリと見て、彼は口を開く。


「嘘は、私が認められないものの一つだな」


 柔らかな口調ながら繰り出す言葉には、徹底的な拒絶がにじみ出る。


「どうしてもできぬと言うんじゃな?」

「できないな。私が愛する者は母一人だと、病で亡くした後に自覚したのだよ。大切な者を喪った今、ほかに愛する者など見つけられるはずもない」


 感慨深げに息を吐いて、目線を上げた。

 彼の話は言い訳じみた響きがある。

 マースリンを見据える女の瞳は真実を穿つがごとく、澄み切っていた。


「少なくともフラン・マースリンとしての私は、彼女に好意を伝えられない」


 頑なに主張を繰り出す。

 彼はなぜこだわっていり、なにに怯えているのだろうか。

 譲れないものがあるのは分かる。

 しかし、解せない。

 フラン・マースリンだからなにだ。おのれを縛り付けることが彼女の気持ちに応えること以上に、重要だとでもいうのか。

 アウローラは訝しむ。


「そうでなくとも彼女は私の本質を知っているというのに。どこをどう、隠せというのだろう」


 口元をゆるめながらも、言い切る。

 説得は不可能。元よりマリアとは決別をした身だ。いくらあがいても事態は好転しない。甘い幻想を与えたところで運命は何度も、波のように押し寄せ、二人を斬り裂く。これ以上は彼女を傷つけるだけだ。選択肢はない。


 ほどなくしてアウローラは唇を閉じた。

 彼女は御使いであるがゆえに、大罪との戦いに手を出せない。

 今回の戦いと少女の運命は灯火の青年の手に、委ねられた。

 顛末を見届けるしかないことが、ひどくむなしい。

 ほかに方法はなかったのだろうか。


 やるせなさを抱いていると、マースリンは前を向き、廊下を渡る。

 彼女が立ち尽くしている間に彼の姿は見えなくなった。

 広々とした暗い廊下には空虚な空気だけが残った。

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