絶望
***
「マーメイド」
淡く色づいた唇が言の葉をつむぐ。
夜、廃校の近くの道をマリアが歩いていると、白きシスターが現れた。
「これは最後の通告です。刻限を過ぎたときあなたの命は儚く散るでしょう」
淡々と事実を突きつける。
マリアはギョッと目を剥いた。
信じられない話だが真実なのだろう。
シスターは嘘で相手を傷つける人間ではない。
本当におのれは消えるのだと、察した。
しかし、納得はできない。
今さら終わりを突き付けられて、あっさりと受け入れられる者がいようか。
恨まずにはいられない。
心に暗い雲が湧き上がる。それは絶望と怒りが入り混じったような複雑な気持ち。
マリアは拳を握り、震わした。
唇を開いて、汚い言葉を繰り出しかけて、直前でやめる。
それでもこみ上げてくる感情は抑えきれず、噛み付くように身を乗り出した。
「どうして!?」
なぜ自分が死ななければならないのか。
理不尽さを噛みしめるように、問いかける。
「あなはは恋をしたことで潜在能力を覚醒なさりました。その代償に相手に愛されねばなりません。もしも愛が敵わなかった場合は……分かりますね?」
抑揚なく理由を述べた。
言葉は頭に入ってくるのに、呑み込めない。心が理解を拒んでいる。
眼がぐるぐると回っている内に視界に薄暗い幕が下り、体の内側まで闇に覆われそうな気配がした。
感情がかき乱されている。
衝動に突き動かされるままに思いを吐き出した。
「分からないわ!」
マリアは激しく髪を振り乱した。
けれどもシスターは相手の叫びに耳を傾けず、冷静に説明の続きを始める。
「あなたはいずれ死する。そうと定められていたがため、覚醒が遅れたのです」
マリアは思い知る。
惨めな女に寄り添ってくれる者はいない。
目を伏せ、眉間にシワを刻む。
唇を噛んだ。
そして彼女は深く息を吐く。
「結局あたし……最初から……」
低くかすれた声に諦めがにじむ。
もはやなにも聞く気になれない。
マリアは歩き出した。
少女の町の向こうへ消えていく。
夜に濡れた世界が彼女を連れ去っていった。
無心で足を動かす。
なにも考えたくなかった。
市街地を巡りふと、足を止める。
ちょうど町の中央だ。傍らには塔が建っている。天まで届くサガプールのシンボルを見上げ、そちらへ赴いた。
中に入って展望台に上る。
誰にも触れられぬ場所からぼんやりと、空を眺めた。
夜空は曇っており今は星の光すら届かない。
マリアはうつむき、かすかに唇を開いた。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。口の中でつぶやいた。
なにかが悪かったわけではないし、特別に不幸だったわけではない。
ただ平凡だっただけ。
熱い想いは伝えられず、恋も実らない。
そうと分かっただけ。
たったそれだけのことで彼女の心は闇に落ちようとしている。
暗黒色の中へ。
なんの抵抗もなく。
彼女は堕ちていく運命に逆らわない。
なぜならもう終わりだから。
恋をした時点で詰んでいる。
少女に未来はない。
今ある命もじきに尽きる。
もういいのだ、終わりで。
このままなにもかもを投げ出してしまえれば。
後はむなしいだけ。
どうせなら全て壊れてしまえ。
彼女は世界を恨んだ。
胸の内側に静かな風が吹き抜ける。
からからに乾いた心はあらゆる水分を蒸発させてしまいそうだった。
「アハ、アハハ、ハハハハ」
塔の上から高い女の声が響く。
いままで、思い悩んでいた。
友情を壊さねばならないこと。
想い人を殺さなければならないこと。
大罪としての役割を果たさなければならないことを。
どうしても避けたかった。心が嫌と叫んでいる。傷つけたくない人がいたから。
しかし、どうしたことだろう。
この世で最も大切に思う者を嫌いになった瞬間、一気に気持ちが楽になった。
「ああ――こんなにもあっさりと……」
にじむ笑み。
放った一言。
むなしい声は夜空に溶けて、消えた。
いつか嫌いになるのなら誰も好きになりたくはない。
傷つき苦しむのなら恋なんてするべきではなかった。
けれども嫌いになったらなったで、爽快感がある。
しがらみから解放された気分だ。彼への未練は欠片も湧いてこない。
自然と口角がつり上がる。
笑みは渇いていた。
笑わない目。
瞳には光が差し込まず、月の昇らぬ空のように、深く濁っていた。
風が強く吹き荒れ、市街地を駆ける。
少女は静かに遠くを見つめた。まっすぐな目、淡い青の瞳に映るのは、暗い色を海。
荒波が押し寄せる音がかすかに聞こえる。
まるで世界の終わりを知らしているかのようだった。
そう、タイムリミットは迫っている。
根拠は白きシスターが現れたことだ。
彼女は言った、「最後の忠告」と。
相手の言葉を信じるのなら明日を迎えれば、おのれは散る。
夜が明ける前にフラン・マースリンを殺さなければならない。
されども彼と決着を着けた後はどうすればよいのだろうか。
いまやなにも求めてはいないのに。
それでもなにもせずに終わりを迎えるわけにはいかなかった。
昏く空虚な感情をもてあましたまま朝日を待つだなんて、ありえない。
一瞬の無音。
目を閉じてからまたゆっくりと、まぶたを開く。
丸くクリアな瞳が青く光る。
皮膚には鱗が生じ、手のひらから手首・腕へと広がっていった。
今の姿は大切な人には見せられない。
だが、この醜い姿こそが少女の本性だった。
やがて彼女は顔を上げて、口元を緩める。
小さな唇に魔を思わせる笑みがにじんだ。
***
濁った空から雨が降ってきた。
フードを被った女は薄く曇ったガラスに触れ、物憂げに外を見つめていた。
純白のローブはそのままだが胸元にアメジストのペンダントはなく、透き通った頬には菫の紋章が刻まれている。謙譲を冠する傾国の女――今はライラ・モスディーと名乗る彼女は、あえて宮廷に戻らず、教会に引きこもっていた。
先刻の出来事が脳裏をよぎる。
サクは嫉妬の女にある情報を教えた。少女にとっては絶望の内容だろうがなにも知らぬまま終わらせるのは酷だ。たとえ消える命であったとしても、やるべきことを果たしてから、消えてほしい。
無慈悲に放った宣告はシスターの精一杯の善意だった。
きつく言わねば少女の覚悟は決まらない。動いてもくれない。
ゆえに祈った、幸福を。どうか星が流れずに済みますようにと。
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