影
「あ、やべ」
クリスが天上を見上げ、後ろへ下がる。
「キャッ」
エミリーが短な悲鳴を上げる。
ひったくりでもするかのように娘をさらうと、彼は窓の外へ飛び出した。
後ろでガタガタと音が鳴った。
全てが崩壊していく。
その光景を背に、二人は脱出。
一息ついた。
対するエミリーはいまだに生きた心地がしなかった。
心臓が早鐘を鳴らしている。
ひやりと背筋を汗が伝っていった。
一方で前方は大惨事。
巨大な屋敷は見る影もない。
散乱するは瓦礫の山。
この様子では、男も無事では済まないだろう。
身動きが取れなくなっているのなら、こちらは安全だ。
クリスは不用意にそちらへ赴く。
「ちょっと待ってよ」
言葉では引き止めながらも、エミリーはその場から動かない。
青年は吸い寄せられるように、男の元へ足を運ぶ。
「あれだけ大口を叩いたんだ。そんな男の無様な姿がどんなものなのか、はいけ、ん?」
ニヤニヤと口を動かしている途中、それは飛んできた。
矛だ。
とっさに頭を下げる。
矛は吹っ飛び、彼方へと消え去った。
「あぶな……」
内心震えながら、軽い感想を漏らす。
「あんた、慢心癖があるわね!」
エミリーが追ってきた。
「よく気づいたな」
「なに誇らしげに言ってるのよ」
軽く怒っている。
だが、青年は全く気にしていない。
ヘラヘラと笑うばかりだ。
そこへなにやら低い声が届く。
「ああ、なんだって? 俺がなんだと? ああ、キレてんぞ、完全にな」
地獄の底から湧き上がるような声。
足元を見る。
瓦礫が動く。
岩盤を割るように、腕が伸びた。
男は体に傷を作りながら、瓦礫の中から這い上がってきた。
「もういっぺん、言ってみろ。それとも、なんだ? 俺はどの罪を貴様らに突きつければいい? 第一にこの屋敷か? この俺が生涯集めた宝ごと粉々だ。どうしてくれんだ? ああ、キレた。完全にイカれたよ。いいからテメェら、さっさと木っ端微塵に弾け飛べ」
矛もないまま、男は臨戦態勢に入る。
見開いた瞳がギラリと光る。
「待った、待った」
あわてて青年が手を伸ばす。
「決着はついた。俺らの勝ちだ。負けを認めてくれ」
これ以上はなにも生まない。
呪いはいったん、解除されている。
男が一瞬意識を失ったためだろう。
娘は回収できたし、後は帰るだけだ。
「負けてねぇよ。勝つのは俺だ。負けるのは貴様だ。それが分からんのか? ああ、大層醜い頭をしてんだな。いいぜ。貴様の間違いを突きつけてやる。そこになおれ。八つ裂きにしてくれる」
ドスのきいた声から狂気と憎悪がにじむ。
もはや自分を隠していない。
全てをさらけ出している。
この様子ではどんな言葉も届かないだろう。
「蛇よ、絡みつけ。黒き炎は罪人を地獄へ誘う。覚悟しろ、貴様らを縛る縄は、決して解けない」
言うが早いか、地中より蛇が這い回る。
しなやかで黒い体は炎のように蠢き、標的を狙う。
だが、あいにくと、青年は魔窟へと赴く気はない。
「結果は同じだ!」
斧を振りかざす。
刃が蛇を切り裂く。
呪いの術は目の前で霧散した。
「しつこいわよ、彼。息の根を止めない限り、どこまでも追ってくる」
彼女はおのれに価値がないことを理解している。
それはそれとして、相手は自分に対する恨みを忘れない。
一度殺したいと思ったものは、地の果てまで追いかけてくる。そんな性質をしているのだ。
「地位も名誉も、俺のものだ。貴様らには渡さん。失われてたまるもんかよ。俺はこの地を統べる帝王となる。まだ俺は負けてなどいない。その女を渡せ、もろとも殺す!」
憎悪に煮えたぎった感情を、そのままぶつける。
その様はどうあがいても醜い。
青年は感じる。
これは人間だ。
確かにそうだ。
だが、正しい人間ではない。
反対に悪魔であった火の鳥は美しかった。彼女の引き際は立派で、目の前に立つ男とはかけ離れている。
だから、全てを否定したくなった。間違いを突きつけたくなった。
どうしようもなく、苛立つ。
なぜ彼がまだ、歯向かおうとしているのか。
冷静ながらふつふつと、怒りが湧き上がってくるのが分かった。
「恥知らずの亡霊よ、そんなにほしけりゃあ手にすりゃあいい。その果ては破滅のみだろうがな」
そのとき、どこからか声がした。
聞き覚えはない。
少なくとも知り合いではなさそうだった。
「貴様はどこまでも権力にしがみつき、執着する。そんなものだから引き際を間違えるんだよ」
影が迫る。
正体は分からない。
ろくでもないものだということだけは分かる。
なぜならその気配は、ユーロンと似ているからだ。
「
闇と共に出現する。今まで影も形もなかったものが、目の前に。
空間に広がるは圧倒的な瘴気。ユーロンとは比べようのないほどの、黒い気配。
だが、これはなにだ。
相手の顔が分からない。その存在を、掴めない。
脳内では危険信号が灯る。ただ、それだけ。
シルエットだけが黒く浮かび上がる。
彼が手にしているのは鎌だ。
漆黒に塗りつぶされた刃が、ユーロンの首に突きつけられる。
そして黒が一閃する。
鮮血と共に男の命は終わった。
終焉は静かに。彼の未来は幕を下ろす。
それを証明するかのように、先ほどまで息をしていたはずのものが、目の前に転がっていた。
「無様だな」
くだらないと言わんばかりの口調。
相手の顔は依然として、分からない。
ただ残虐な笑みを浮かべていることだけは、理解できた。
「この世ではクズが最も長生きするものでな。ゆえに最も醜い貴様が生き残った。なかなかの傑作だったぞ、その逃げっぷり。褒めてやろう。貴様はよくぞ、俺の期待に応えてくれた!」
哄笑がほとばしる。
肉体が帯びるオーラは邪悪の化身そのものだ。
クリスにとってもソフィにとっての未知の相手。なにもかもが分からず、不気味でならない。
それゆえに寒気が止まらなかった。
そのとき、人形の表面から黒い霧が発生。立ち込めてくる。
「ふざけるな。そんなこと、あってたまるかよ!」
黒い霧が叫ぶ。魂の声だった。
瞬間、霧が黒い渦を形成する。
とっさにクリスが身構えた。
「なによ!?」
「分からない。けど、なにかが起きる。ただならない、なにかが」
エミリーの悲鳴に対して、クリスは冷静に様子を伺う。
黙ってみている間にも事態は悪化していくようだった。
刹那、男の肉体が消える。
体積をまるごと黒い霧に変換。あたりに飛び散った。
もはや実体をなくした敵は禍々しいオーラを放ちながら、瓦礫を破壊する。
煉瓦が砕け、砂と化す。
頑丈な箱も潰れ、中から宝飾品がこぼれた。
「おのれが大切にしていたものがなにかすら覚えちゃいねぇのか。こいつぁ、傑作。いいじゃねぇか。存分に暴れまわれ。だが、無駄だ。どうあがいても俺はとらえられねぇからな!」
笑い声に喜色を交え、男は言い切る。
そして彼は飛び去った。
男を追いかけるように、黒い霧が広がる。
それに巻き込まれるような形で、攻撃がクリスたちにも迫った。
「これではまるで、本物の亡霊ね」
「まるでどころか、亡霊以外の何者でもないよ」
あきれたようにつぶやく。
ユーロンの命は尽きていたはずだ。
ならばここにいるのはなになのか。
頭が混乱する。
だが、悩んでいる場合ではない。
このままでは二人まとめて倒されてしまう。
「ねえ、あれ!」
エミリーが指す。
地面に転がってきたのはよく磨かれた石。宝石だ。色は灰青で、聖なる光を放っている。
正体は分からないが、使えるものであることは、間違いない。
勢いよくかがむ。手を伸ばし、石に触れた。
瞬間、クリスの肉体が宙に浮く。
「うわっ!?」
「ええ!?」
共に驚愕を表に出す。
エミリーが目をパチクリとさせている間にも、クリスは高度を上げていく。
どんどん距離が広がり、やがて見えなくなるだろう。
そうなる前に彼はエミリーへと手を伸ばす。
「君も一緒に行くんだ」
力強い言葉に釣られて、彼女も青年の腕を掴む。
握りしめた石が、さらに激しく、鮮やかに輝いた。
そこへ影が迫る。
殺される。
確かにそう思った。
しかし、間一髪。
クリスとエミリーが高く上昇したことによって、影は宙を切った。
「どこまでいくのかしら、これ」
不安そうに、真下を見る。
「分からない。どうせならできるだけ高いところまで、行ってみよう」
きっと、なんとかなるはずだ。
軽い気持ちで口にする。
そうしてさらに上へ上へと。
雲の上まで、二人は高度を上げていくのだった。
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