母さん、お肩を…(ある研修医の話)

上松 煌(うえまつ あきら)

母さん、お肩を…(ある研修医の話)

「ちょっと待ってください、橋詰先生っ」

自然に声を荒げていた。

「あなた、なにをしたいんです?おれは当直業務を続けたい。出て行って下さいよっ」

しばらく返事がなかった。

頭をかきむしったらしく髪が乱れていて、額に深くかぶさった前髪が哀しげな眼を半ば隠していた。

かなり胸が痛んだが、とにかくこっちは血気盛りの20代だし、相手は疲弊しきった42の中年研修医だ。

いざとなれば若いほうに利がある。

だが、彼を叩き出したくはなかった。

本当に人間性の高い医師向きの人で、忙しくても疲れていてもそれを顔や態度に出すことはなかった。

ソフトで誠実な対応には、特に入院患者や家族たちが敏感に反応し、研修半月立たないうちに橋詰先生の周りにはハートが漂っている気さえしたほどだ。

その人が、なぜ…?


 ナースの話ではこの日の夕方、橋詰先生は大林部長に呼び出され、ついに最終通告の『医局を敵に回したらど~なるかぁ』を突きつけられたのだ。

それはクビを意味した。

そしてそうなったが最後、医局が手を回し、自分で開業しない限り拾ってくれる病院はほとんどなくなるのだ。


 「橋詰先生、大林は弱いんです。弱い者が権力を持つとどうなるか。優秀な者、力量のある者への恐怖と嫉妬をパワハラで解決しようとする。あなたは医師たる天分と資質に恵まれた優秀な人だ。おれたちネーベン(研修医)もオーベン(指導医)もナースも、あなたをけなす人はひとりもいない。いるのは大林と狂った取り巻きだけですよ。ね、考えてください。医局がなんです?新制度でおれたち若手が独立できるのは26から29歳に延びちゃったけれど、おれ、そのあとすぐに開業予定なんです。その間、バイトかなんかで食いつないで、開院したらおれを手伝って助けてくださいよ。ねっ、ねっ?」

これは本心だった。

ちょっと先の話だったけれど、橋詰先生が来てくれたらどんなにいいだろうと思っていたことは事実だ。

思いつめた心情には十分同情できるけれど、騒ぎを起こしては大林部長を利するだけだ。

本気で何とかこの場を収めたかった。

先生は弱く笑った。

本当に寂しい泣き笑いだった。


 「時間がかかりすぎる。…ぼくは巽野(たつみの)先生みたいに若くはない。高い理想を掲げて医師を目指したけれど、今はもう、絶望…絶望しかないんだ」

耳をふさぎたくなるほど、悲痛な言葉だった。

哀しすぎて鳥肌立つほどだ。

「待って、待ってくださいっ。路線変更の余地はあります。精神科、そう、精神科がある。今の世の中に蔓延している醜悪なパワハラやセクハラ。それに身を持って戦ったあなたは患者の最も強い味方になれる。そうですよ、それに特化すればいい。内科

医ばかりが医者じゃないです」

なだめるように言いながら、頼むからこのまま帰ってくれと願っていた。

取りみだした橋詰先生の醜態を、だれかに見られてはいけない。


 「ははは…。何度も、そう思ったよ。そう…何度も何度も何度も。だけど、疲れた。子供がいないぼくは妻を亡くしてからひとりぼっちだ。順調だった会社をたたみ、この年で医者を目指したのも、世の中の人が最愛の人を亡くす悲しみを少しでも軽減できたらと願ったからだ…。ふっ、思い上がってたよ。とにかく終わりにしたいんだ。ぼくはこの当直室に来るまでは誰かに思いのたけを言い残すだけでいいと思ってた。だけど君を見て、巽野くんを見て、いっしょに連れて逝こうと思ったんだ。君は必ずぼくの二の舞になる。苦しむだけになるんだよ。この封筒の山を見てごらん。こんなもんじゃ、すまなくなるんだ」


 正直言って、ため息が出た。

断定的な言葉は当たっていて、確かに自分も大林部長のターゲットになっていた。

いやがらせやイジメ、パワハラは先生がいなくなれば、さらにエスカレートするかも知れなかった。

それでも橋詰先生はすでに、少しおかしくなっていたと思う。

痛ましく疲れきった土気色の顔に、血走った眼差しが異様な決意をみなぎらせてギラギラしている。

瞳孔の縮小した目を覗きこんでも、その瞳には何者も映っていない気がして、説得の自信がグラつくだけだ。


 万策尽きた気がして、少し沈黙した。

それにしても自分の当直の日はなんで問題が起きるのだろう?

想いは束の間、今日の自分をたどっていた。


          ◇ ◇ ◇


 もう、16時を回っていた。

広い待合室の南側に植生で隠れた小さな広場があって、茂った灌木に隔てられて駐車場に面している。

ベンチなども2~3置かれているが、人目につかないので利用者は少ない。

売店で買い込んだ菓子パンをトマト・ジュースで流しこんで、すばやく腹ごしらえをした。


 今日は月に4回ほどある当直の3回目だ。

今月の初回は、幸いにも徘徊がひとりいただけで何事もなかったが、2回目は散々だった。

頻繁ではないが、要請があれば救急も当然受け入れる。

もちろん、上級医とペアだけれど、ここではファースト・コールは研修医の仕事だ。

急患は50代後半の男性で、

「先生、痛いっ。押されるように痛いんですっ。あたたた…」

を繰り返していた。


 みぞおちから腹の上側への痛みの移動も訴えていたので、腹部大動脈瘤を疑ってそれを報告したが、上級医の初見では腸閉塞または腸捻転だった。

腹膜炎を患ったという言質や直前の嘔吐、便秘などから割り出したようで、検査は見事にそれを裏付けた。

さらに急激な発熱、血流障害や捻転の兆候も見られたため、緊急手術となったのだ。

緊急性の少ないことが多い腹部大動脈瘤のつもりで、のんびりしていたらどうなっただろう?

1年後には、どんなことでも自分で判断しなければならなくなるのだ。

そしてその日は、前日の通常勤務+大忙しの手術補助+寝る間どころか飲み食いする間もなく翌日業務と、32時間労働に突入したのだった。

10時間も小用に行けないという膀胱破裂寸前の思いは忘れられない。


 前回は多少は意思疎通のあるオーベン(指導医)だったが、今回の上級医はあまり接点のない先生だ。

早めに挨拶コールをし、そのまま2Fのナース詰め所に行った。

「ネーベン(研修医)の巽野翔人(たつみのしょうと)です。本日の当直担当です。なにかあったら遠慮なくコールしてください。よろしくお願いしますっ」

満面の笑みで元気良くお辞儀をすると、同じように輝くような笑みが帰って来る。

「こちらこそ、よろしくお願いしますっ」

ちょっと年配の看護主任が、そっと段ボールを差し出す。

「巽野(たつみの)センセ。お土産が…」


 けっこうな大きさだ。

覗きこむと書類と封筒、宛名シールが満載だった。

「大林部長からです。当直の合間に済ませておくようにって…」

「え…。またなの?事務職もいるのに…」

大林先生は超学会べったりの人で、これは案内状なのだろう。

カーストもNO,2の殿上人だ。

「センセは部長に目をつけられたんですわ。新人いびりの対象。でも、メゲないで。わたしたちも出来る限り補佐しますから」

彼女の目線の先には、もうひと箱同じものがあった。

イジメにしても陰湿すぎる。

寝かせないつもりなのだ。


 「ありがとうございます。ほんと助かります。ったく気が重いなぁ。やる気がそがれちゃうよ」

 研修が始まって、まだ4ヵ月ほどなのに、もう、このありさまだ。

「そのやる気が部長センセのイジメのもとですよ。毎年、がんばり屋さんがつぶされるの。あの橋詰センセね、とうとう、それやられて夕方に荷物まとめてましたもの。お気の毒に…立派なお医者様になれる方なのに」

「……」

ちょっと言葉が出なかった。

あの適性のある橋詰先生が、よりによって大林に叩き出された?

間違いでは?

いや、ナースが言うからには真実なのだ。

大殿様の教授を筆頭に家老がひかえ、上級武士に下級武士、町民のナースの下に最下層の穢多非人ネーベン(研修医)が蠢く世界だ。

淘汰されるウジ虫並みの立場では、ひたすら辞を低うして理不尽なパワハラをやり過ごすしかない。

ただ、直情径行の自分はどこまでそれに耐えられるだろうか?

我ながら、次は自分の気がするのだ。


          ◇ ◇ ◇


 とにかく夕回診をすませ、大急ぎで申し送りをもらって、1Fの当直室に籠った。

案内状をきれいに三つ折りにし、汚さないよう積み上げていく。

封筒の宛名張りはそのあとだ。

深夜になっても終わる気配のない膨大な量に腹が立つ。


 それにしても大林部長の橋詰先生いびりは常軌を逸していた。

最初は年が近いからなどと言って、ニコニコと個人的な飲み会などに連れだしていたくせにだ。

態度が変わったのは、科の多くの先生方やナースたちが橋詰先生の人柄や力量、覚えの早さなどを認め、ほめそやしたりしはじめたころからだった。

忙しいさなか、毎日のように呼び出しては理不尽な叱責を繰り返し、恫喝や人格否定もあったらしい。

そうしておいて、次は他の研修医との離間工作だ。

嫌われている自分などは相手にもされなかったが、大林部長は陰でかなり悪辣な捏造話を人生経験の少ない若手に吹き込んだようだ。

権威と捏造に脅されて若手は先生を敬遠せざるを得なくなり、橋詰先生は孤立化したが、ナースや上級医たちは部長の長年のやり口を知っていて、むしろ同情的だったのがせめてもの救いだった。


 異様に当直の多いシフト、呼び出されてど~でもいいような仕事をあてがわれ、深夜まで帰されないなどのイジメには、周囲がそっと手をさしのべるなどの協力があったが、42歳の先生には体力的にかなり辛いものがあったらしい。

温厚な顔からは笑顔が消え、眼窩はクマで真っ黒になり、這うように歩く姿が見られた。

それでも努力する先生に最後通告の『医局を敵に回したらど~なるかぁ』だったのだ。

下劣にも表向きは、橋詰先生に技能習得の遅れがあり、医師としての資質に欠けるだった。

そのように仕向けた張本人が口を拭っての、もっともらしい理由づけだった。

橋詰先生はどれほど無念だったろう?


 心がつぶれる気がして封筒を放り出し、PCを立ち上げた。

申し送りを見直して、患者の容体を確認する。

カチャリと音がして誰かが入ってきたようだ。

机はドアを背にしているから、

「はい。なぁに?」

と背中で返事をする。

「…そうか。今夜は巽野(たつみの)くんだったのか…」

疲れきった声が後ろでしたのだ。


          ◇ ◇ ◇


 「巽野先生、ぼくといっしょに逝こう。そうすべきなんだ。君はここにいるべきではない」

絞り出すような橋詰先生の声で我に返った。

「先生、もういち度言います。なにがしたいんです?おれを道連れにしたいならいいですよ。かまいません。ひとりぼっちじゃ寂しすぎるっていう気持ち、わかりますもん。でも、あなたは無駄なことをするんだ。この状況じゃ、たぶん、おれは天国であ

なたは地獄でしょうから。…ね、今のあなたはいつもの橋詰先生じゃないんだ。おれが、いや、みんなが尊敬してやまない、いつものあなたに還ってください」

少しの間があった。

彼は深い息をついて視線を落とし、放心したうつろな表情をした。

正気に返ってくれ、心底祈る気持ちだった。

無音の、息詰まるような時間がどれだけ過ぎただろう。

返事はなかったが、説得は成功したかに見えた。


 ♪かあ…さん…おかた…を…たた…き、ましょ

  タン…ト…ン、タ…ントン、タン…トントン

  お……えんがわ…には…ひが…いっ…ぱい

  タ…ントン、タン…ト…ン、タ……ン…トン…ト…ン♪


 かすれた、つぶやきのような声だった。

それでも、それは明らかに歌声だった。

橋詰先生はきっと、今、亡くなった奥さんとともにいるのだ。

仲良くお互いを思いやりあった日々に、おそらく肩たたきをしながら歌ったであろうその歌を、まるで時を戻すかのように詠っているのだ。


 胸が迫る気がして、少しむせた。

最愛の奥さんを亡くした悲しみを乗り越え昇華して、純粋に医師を目指したひとりの崇高な人間に対して、運命はなぜこれほど過酷なのか?

大林も人間とするならば、人間とはなんと愚劣で醜悪、陰湿で酷薄なものなのか。


 いつの間にか自分も顔いっぱいに泣いていた。

「いや、やっぱりダメだ。心変りはできない。巽野くん、5階だっ」

顔を上げた先生の目にはおぞましい錯乱がよみがえっていた。

5Fのデイ・ルームの隣りには災害時のために、開けられる大窓がある。

橋詰先生を変えることはできなかったのだ。

いや、もとの彼に戻すことは不可能だったのだ。


 そう、それが正しい。

悩み苦しんだ数カ月の時間の累積が、短時間の同僚の説得などで覆るわけがない。

もし、それが覆るのだとしたら、その決心は本物ではないのだ。

それでも阻止しなければいけない。

「先生、ダメだっ。飛び降りなんてっ」

全身で前に回っていた。

身体でドアをふさいで、その行動を阻むつもりだった。 


 室内にいきなり異音が響いた。

ナースからのコールだ。

正直言ってたじろいだ。

それでも出なければいけない。


 瞬間、彼は全身でぶつかって来た。

狂気じみた力に不覚にもよろめく。

止める間もなかった。

橋詰先生は放たれた魔物のように、風を巻いて出て行った。


          ◇ ◇ ◇


 即座に追って引き戻すはずだった。

だが、あわてていたせいか、腰砕けになって四つん這いに転んだ。

深夜の廊下は照明が最低限に落としてあるから、先生の姿はすぐに見えなくなった。

行先はわかっている。

果敢に立ち上がろうとした時だった。

「あたっ、痛ってぇ~」

思わず声に出していた。

はずみで足首をひねったのだ。

めげてはいられない。

ピンピン跳ねながらエレベータに向かう。

最上階の9階から下りてくるボックスに、超イラ立つ。

橋詰先生が操作したのだ。


 ドッシャーッ。

初めて聞く、異様な音だった。

本能的に総毛立つ。

なにが起きたか瞬時に把握できていた。

間に合わなかったのだ。

いや、そんなはずはない。

「先生っ」

エレベータ前から、瞬時にとって返す。

再び、すっ転んでいた。

痛かったが、我を忘れて立ち上がった。


 落ちた場所は待合室の前のベンチのあるあの場所だ。

橋詰先生はきっと無傷でそこに座っている。

その姿が目に見える気がした。

正面玄関に突進する。

自動ドアは電源が切ってあるが、手動で開く。

両腕に力を込め、一気に引き開けた。

街灯の向こうに植生が間近に見えるから、もう少しだ。


 先生が待ちわびているのを感じる。

現場に急ぐ救急隊員のように、冷静に確実に前に進むのだ。

不意に沸き上がるように、橋詰先生の歌声が聞こえた。


 ♪母さん お肩をたたきましょ

  タントン タントン タントントン


  お縁側には 陽がいっぱい

  タントン タントン タントントン♪


 自然に唱和していた。

痛いほど熱い液体が、とめどなく溢れ滴るのを感じた。

音を聞いて駆けつけてくるナースたちの気配を背に受けながら、ただひたすらに詠い続けていた。


 

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母さん、お肩を…(ある研修医の話) 上松 煌(うえまつ あきら) @akira4256

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