2話 契約書


 

 私が見つめる先にいる青年は金髪を月光で煌めかせ、私を見下ろしている。


 何が何だかわからないまま、私はオウム返しの様に一単語だけを繰り返した。




「カッサ……?」


「そうだ。カッサはこの国の名前。まぁ一度に全てを覚えるのは無理だろうから、少しずつ教えていくさ。最初は戸惑うだろうけど、これからよろしく」




 褐色肌の青年はザブザブと水をかき分けてこちらまでやってきて、呆然とする私の肩に力強く手をかけてくる。整った顔をしているが、美形――と言うよりも、凛々しい、逞しいと表現した方がいいかもしれない。しかし、そんな異性に近づかれても今は全くときめけない。




 八月とは思えない程池の水が冷たくて足の感覚が無くなってきそうだ。先ほどの風で髪がやたら乱れている。そして水温とは逆にこの青年に掴まれた肩は熱い。




 感触全てが生々しい。夢とは思えないほどのリアルさに、私は嫌な予感が振り払えなかった。




「ま、まさか、これって、夢じゃない……?」


「夢? 夢なわけないだろ。君は召喚妖精と契約を交わしてここにいるはずだ」


「召喚妖精ってさっきの……!? じゃぁあの子が言ってた別の世界とかって……」


「そうだ。俺が妖精に頼んでアンタを連れてきて貰った」


「嘘。……うそうそ冗談でしょ! 私、ただ家で寝てて、誰かに攫われてここにいるだけなんだよね!?」


「そういえば召喚に関する契約書の写しと、俺の代理で書いて貰った契約書の原本が、妖精から送られてきたんだが見てみるか? とりあえず池から出ようぜ」




 ガッシリと手を引かれて池を出た私は、先ほどサインした書類の束によく似たものを青年に見せられる。


 はっきりと「志村桜子」の直筆サインが書いてあった。




 しかし待て、これも含めてまだ夢かもしれない――。




 そう強く思った。思わないとやってられなかった。


 しかし、池から上がってもなお寒さに震える足や、池のほとりの草の感触、背筋を撫ぜる夜風、やはり考えても考えても、ここは“現実”だ。




「今みたいに召喚された先でパニックになる例も珍しくないんだとさ。だから今は妖精たちも召喚法に基づいて書面でのやり取りをしているし、その後写しが契約主に届けられるシステムになってる。残念だがここに君が辿り着いた時点で、君は俺の頼みをきく義務がある」


「何、それっ!」


「――と、いう契約になってる。契約不履行時のペナルティも説明されたはずだぞ。あいつらはそういうところやけに細かいんだ」




 そういえば、なんか色々説明してた気がする。まさか現実だなんて思わなかったから全然聞いてなかったけど。




「とにかく、だ」




 先ほどまでの快活そうな雰囲気から一変し、青年は鋭い目つきで私を見下ろす。


 そして、これ見よがしに腰に携えた剣を抜き始める。怪しく光る剣先に、私はゴクリと唾を飲んだ。




「俺には俺の退けない事情がある。アンタにも多々事情があるんだろうが、ここは俺のテリトリーだし、アドバンテージも俺にある。時間も惜しい。そして手荒な事はしたくない……とりあえずは大人しく話を聞いてくれるな?」




 そう告げる声は氷の様な冷たさだった。冷えた下半身が輪をかけて冷えていく。




 ――――契約不履行時のペナルティ……。




 それがどんな物かわからない以上、これ以上この事について“子どものように”喚くのは、私にとって有益でないとそう直感した。なるべく冷静さを装って、私は剣を下ろすように身振りで伝える。




「……取り乱して悪かったわ。ちょっと、いやかなり混乱していて……。あなたの話を聞くから、その物騒なのは仕舞ってくれる?」


「……そうか」




 青年はしばらく私の様子を眺めた後、最初に見た時と同じ笑顔を見せた。




「いや、悪かった。俺の名前はドン・ドルータ。こんな事するつもりは無かったんだが……アンタが混乱していて、俺もどうすればいいかわからなくなっちまって……怖がらせたな」


「……いえ。大丈夫。私は、桜子。志村桜子。」


「サクラコ?」




 なんだか言いづらそうだ。「サクラ」でもいいよと伝えると、「そっちの方が呼びやすい」とまたまた笑った。笑顔の多い青年だ。それだけにさっきの姿とのギャップに戸惑う。まだこの青年の本心が分からない以上、怒らせるのはやめたほうがいい。




「一旦俺の家で着替えよう。とにかく今は体を温めた方がいい」


「……分かった」




 このドンと言う青年は、恐ろしいのか優しいのか全く分からない。


 私は彼について歩いていく。池を囲っていた木々を抜けると、草原のようなところに出た。街灯などはないが満月の光が明るく、歩くには不自由なかった。




「ざっくりでいいから聞きたいんだけど、ここはどういう所なの?」




 自分で聞いておきながらさすがに大雑把な質問だ。




「うーんそうだな。一言で表すなら、剣と魔法、そして契約。これがこの国の象徴だ。650年前にニンゲンは自分達の中に魔法を発見した。それから文明を築くスピードがガタ落ちする。自力でなんとかするよりも魔法を使った方が早いからな」


「剣と魔法と契約……」


「そしてその便利な魔法をもっと使うため、ニンゲンは魔法発見から100年後、世界のあちこちに喧嘩を売るようになった。だが魔法を使うには色々制約があって純粋な戦闘には不向きな事もある。だから、戦争の為に元々ニンゲンが得意とする剣を使うやつが増えた」




 当然耳にした事の無い歴史だ。ここは根本的に私が育った世界とは別物らしい。




「……それで、契約っていうのは?」


「ニンゲンが剣と魔法で戦争をふっかけ続けて、このビグーラ大陸が無秩序になった時、“契約の神ハネプ”がこの国に降り立った。それで俺たちニンゲンは、十歳以降は神と契約を結ばないと魔法が使えず、剣の才能も得られないようにされた。十歳の誕生日頃になると契約の神の使いがどこからかやってきて、魔法か剣かどちらかを選ばせてくれるよ」


「あの……魔法を見たことはない私が言うのはなんだけど、魔法の方が圧倒的に選ばれるんじゃないの?」


「いやどうかな。魔法の付与された剣が武器屋で取り扱われているから、そっちを使いたい奴も多いと思うし、さっきも言ったけど魔法も好き勝手に使えるわけじゃないからな」






 しばらく歩くと、寂れた村に辿り着く。古びた木造の家がぽつんぽつんと建っていた。広い畑には作物が育っている様子はあまり見られない。石造りの教会はなかなか立派だが、何か災害でもあったのだろうか石壁が崩れている部分も見受けられる。


 見張り台には人が立っており、ドンが何か仕草をすると頭を下げて通してくれた。合言葉みたいなものだろうか。




 案内されるがまま、周辺では一番立派な――とは言ってもそもそもが古くて小さな家ばかりなのだが――家に迎え入れられる。




「奥の部屋はサクラに用意したものだから自由に使ってくれ。着替えも置いてあるけど、用意したのは女性の仲間だから安心してくれ」


「お気遣いどーも」




 部屋には簡素なベッドと棚があり、体を休める分には困らなさそうだった。私は棚に用意された着替えを身につけ始める。白のブラウスに紺のスカート。下着もいくつか用意されていた。先ほどドンが言っていたのはこの事だったのか。


 手早く着替えを済ませて部屋を出る。廊下を歩いているとなんだか仄かに温かさを感じる。先に着替えたドンが居間の暖炉に火を入れてくれていたようだ。


 椅子に腰かけ、暖炉の恩恵を得る。




「あー寒かった……」




 眠るまでは間違いなく真夏だったはずなのに、ここはどうやら違うらしい。彼に「今は春?」と聞くと「そうだな、夜は少し冷えるが、昼間は暖かくなってきたぞ」と答えた。




「俺は剣の契約をしたから魔法は使えない。魔法がどんなもんか気になるなら、明日の朝他の奴らに見せてもらえるように頼んでみようか。さて、他に聞きたい事は?」


「あなたと私の契約について。もう言ったけど私は夢だと思っていたから、まともに聞いてなくて……ドンから説明してくれる?」


「仕方ない。そこからだな」




 先ほど見せられた書類の束に目を通す。


 ふむふむ……「甲」とか「乙」とか書いてある。なんで日本式なんだ。




「えーっと、『業務委託契約書 ドン・ドルータ(以下「甲」)は志村桜子(以下「乙」)に対し、孤児院経営の業務委託契約(以下「本契約)」を締結する。』……孤児院経営? 私が?」


「それを頼みたくて、わざわざ異世界から君を呼び寄せてもらったんだ」


「いや、そんなのわざわざ呼ばなくてもこの村の人とかに頼めば……」


「この村? いやここは間借りさせてもらっているだけで、とっくに住人はいない」


「そうだったの?」


「最初に言ったはずだぞ、俺たちはレジスタンス組織だ。『不滅の灯ふめつのともしび』と名乗ってる。この腐った国を建て直すため、仲間を集めている最中でな? とてもじゃないが、孤児院を任せられるような人材はいないし、そこに割く本来あったはずの武力は惜しい」




 レジスタンス……そう言えばそんなことを。それどころじゃない事ばかり起きたから、全くもって忘れていた。




「一つ進んだかと思えば、予期しない事態でまた振り出し……そんな事ばっかりで、まだまだまともな活動は出来ていない。一応俺はリーダーを任されてるんだが、色々懸案事項が多くてさ。俺一人でなんでもやるのは難しいから、少しずつ委託も覚えていかないといけないかなと思ってな? アウトソーシングってやつさ」




 アウトソーシングって単語とファンタジー世界との取り合わせってどうよ、と言う突っ込みは心の中に仕舞っておく。




「あと気になってるのはアレだろ。契約不履行時のペナルティ」


「! そう、それ!!」


「ここだ、見ろ。『第5条(契約違反による解除)甲または乙のいずれかが本契約における業務の履行をしない時、相手方は不履行した者に対して本契約を解除しただちに“違約金として一億円を支払う。尚、支払いは現金一括払いのみとし、払えない場合は残金を寿命から差し引く”ものとする』」


「は?






 い、いちおくえんんんんん!?」








 私は思わず椅子からずり落ちた。手の中にある書類を今一度確認する。見間違いなんかじゃぁ無い。間違いなく違約金一億円と書いてある。




「ちなみにこれはサクラ用だから、君の居た世界の通貨に換算してくれたみたいだな」


「そんなことはどうでもいい! なんでこんな馬鹿みたいな額になるわけ!? あとなにこの払えなかったら残金を寿命から差し引くって!?」


「そう思うだろ? でもこれにサインしたのは君だ」


「だ、だから、こんなことになるとは思わなかったんだって……」


「それは理由にならないな」




 訪れる静寂。暖炉の火がはじける音がやけに耳に響く。


 さっきまであんなに冷えていた体のはずだが、今度は汗が止まらない。


 まさに、悪夢だ。悪夢以外の何物でもない……いきなりこんな額払えるわけもないし、この内容では借金としてコツコツ返していくこともできない。大体寿命から差し引くってあるけど、仮に寿命一年で払える金額って言うのはいくらなんだろう……。




「言ったろ、ここは剣と魔法と“契約”の世界だ。生半可な気持ちで破ればどういう目に合うかは分からない。俺だって召喚妖精に結構な対価を支払っている。同情はするが、よく契約書を確認しなかったのが悪い」


「この悪魔ーーーー!!」


「何を言うか、クリーンな取引だぞ。拒否権もあっただろう?」




 ニヤリと笑ったドンの顔は、どう見たって悪徳商人のそれだ。


 と言うか先ほど、「アンタが混乱していて、どうすればいいかわからなくなった」みたいな事言ってた気がするが、この用意周到さ……私が召喚妖精とまともに取り合わないことも全部計算してた筈だ間違い無い。何故私の性格的な所を把握しているのかは分からないが。




「とりあえず、だ。サクラは明日朝から教会勤務だ。色々伝えていくことはあるが、ま、やりながらでいいだろ」


「うぅ……」


「まぁまぁ、そんなに怒るなよ」




 力強い手が私を掴み、ずり落ちたままだった体が引き上げられる。自然な動作で腰に手を添えてきた。至近距離で見る翠の瞳は爛々としていて、彼の野望が透けて見えるようだ。




「俺はこの王国を一度終わらせる。多くを殺し、より多くを救う。その為にサクラの協力が不可欠だ。頼むから助けてくれ。全てが終われば、君を元の世界に戻せるように全力を尽くす、約束するよ」




 全てが終われば――それって今から私も戦争に巻き込まれて、且つ上手く勝利した後ってことだよね。こんな寂れた町に隠れるように生活しているこの人達が、規模は分からないけど王国相手に戦争吹っ掛けようとしている……。




 無謀だ……下手したら私も巻き込まれて死ぬだろう。しかし、無謀ではあるが……とりあえず今はこの男の言う事をきくしかない。でなければ、戦争で死ぬよりも先に寿命が来る可能性が高い。






「……じゃぁ今の文言も契約書に入れてもらっていい?」


「もちろん」






 とりあえず孤児院の仕事なら私にも出来るだろう。様子を見て抜け出すきっかけを作って、なんとかあの妖精にもう一度会って……元の世界に帰して貰う……私はそう心に決めたのであった。




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