第1章 村

1話 いざ異世界へ

 一カ月前。






「本契約における業務の履行をしない時、相手方は不履行した者に対して本契約を解除しただちに“違約金として一億円を支払う。尚、支払いは現金一括払いのみとし、払えない場合は残金を寿命から差し引く”ものとする』」




 ――――い、いちおくえんんんんん!?






 私はある日突然そんな馬鹿みたいな金額の契約を結んでしまった……らしい。“らしい”と言ったのにはそれなりの理由がある。私は直筆の『志村桜子しむら さくらこ』の文字を忌々しく見つめた。




 何故こんな事に、何故こんな馬鹿げた契約を。


 私は、目の前にいる不敵な笑みを携えた青年の足元で崩れ落ちていた。








 ――思えばそう、その日は朝からついていなかったのだ。




 まず、七時出勤の早番なのに寝坊をした。起きたのは六時半。


 五分で準備をして自転車に飛び乗った。勤務先の保育園は近場で、必死に漕げば十分で着く。


 ただ保育園を目前にして自転車ごと横転し、膝と腕から出血。早番の職員は二人のみで七時になればすぐに開園準備も子どもと保護者への対応もしなくてはならない為、手当もそこそこに仕事を始めた。




 昼間に自分のクラスで怪我をした子どもがいた。ちょっとした子ども同士の喧嘩で、顔にうっすらひっかき傷が出来た程度。おもちゃを取ったとかどうたらとかそんな理由だった。


 ただ怪我をした子どもの母親がやっかいなクレーマーで、顔に傷がと伝えると事実婚のチンピラ上がりの男性を伴って園に怒鳴り込んできた。


 私は園長にしこたま叱られ、その保護者には「誰にでも出来る仕事なのにまともに面倒も見れないのか」と言われ、保育時間は夜の7時までなのに八時まで居座られた後に始末書等の事務処理をしていたら早番なのに夜の九時まで残っていたというわけだ。どんなわけだ。




「転職したい。絶対する。今年度終わったら絶対辞める……」




 でもA先生はもうすぐ産休でそのまま育休取るだろうし、B先生は来年寿退社だ……辞められないかも……。ていうか私四年目なのにまだ後輩がいないってどういうこと? 


 ……ああ、去年もその前の年も新人は一年で辞めたんだった!






 今日から八月。日中の息苦しくなるほどの熱気は夜の九時過ぎともあって落ち着いていた。


 鈴虫がどこかで鳴いている。自転車に乗っていれば爽やかに感じられたんだろうが、今朝の転倒でライトが壊れてしまったらしく残念ながら乗ることはできない。


 仕方なく携帯電話のライトを頼りに私は帰路についていた。




「はぁ……」


「死にそうな顔してどうしたんだよ桜子!」




 背後から聞き慣れた声がする。スポーツウェアに身を包んだガッシリとした体格の青年が走ってやってきた。恐らく夜のランニングでもしていたんだろう。




「こんばんは刀次とうじ……私はもうボロボロだよ……」


「しっかりしろよォ! なんかうまいもん食えよ! 肉とか!」


「若いっていいよね発想が……」


「桜子だってまだ若いだろーが。年寄りぶんなよ」


「高校生に比べたらおばちゃんだよー」




 話しかけてきたのは、鷹村刀次たかむら とうじ。高校三年生だ。


 彼は家が隣同士なこともあり、小さい頃にはよく過ごしていた。兄弟のいない私にとっては刀次と遊ぶのは楽しかった。六歳も離れているので遊ぶというより面倒を見るという方がしっくりきていたけれど。


 あんなに小さくて可愛かったのに、今は身長185センチのムキムキだ。時間の流れは怖い。




「そうだ。今週のさインターハイなんだけど、観に来れないか?」


「あっそうだった。え? どこだっけ」


「今年はO県! 個人戦は日曜日だからさ桜子に応援してもらいたいなって」


「えっ遠い……急には無理……車で片道五時間はかかるじゃん……」


「えっ」


「えっ?」




 刀次は剣道部の主将らしい。団体は惜しくも県大会で敗れたが、個人戦は圧倒的な実力差で優勝した。インターハイでも優勝候補に名を連ねている。私も幼馴染としても姉的存在としても鼻が高い。


 しかし何故か私が応援に来ると信じて疑っていなかったらしい刀次は、すっかり肩を落としてしまった。すまない……私にはもう弾丸で日帰りのスポーツ観戦をする元気はない……。




「ごめんって! その代わり刀次が優勝できたら、どこか好きなところ連れてってあげるから! 元気出して!」


「おう……そうだな、しばらく二人で出かけてないしな……わがまま言ってごめん」


「えぇっいやいや、こっちこそ」




 う。なんか悪いことしちゃったなぁ……。


 しょぼくれる刀次はなんだか大きな犬みたい。目元がうるうるで、今にも子どもの頃みたいに泣き出すんじゃないかと気が気でない。


 職場の先輩に月曜日の勤務時間代わってもらえないか聞いて、行けそうだったら行こうかと考えても見るが、やはり自分の体力にあまり自信が持てない。私はとりあえず話題を少し逸らす事にした。




「そ、そうだ、大学行っても剣道続けるんでしょ?」


「――いや、インターハイでとりあえず剣道は一旦辞めようかなって。大学からはフェイシングに転向するつもりで、是非うちでってあっちの監督からも声かけてもらってるし。……俺、フェイシングでオリンピックを目指すつもりなんだ。今からじゃかなり厳しいと思うけど、絶対に世界で戦ってみせる」




 彼は私に夢を語った。キラキラと目を輝かせるその姿は、私には眩しすぎる。


 刀次は自分で話していて照れ臭かったらしく、その後言葉数も少なくなり、「ランニングの途中だったから」と帰路とは逆方向に走って行ってしまった。




「オリンピックか……」




 長い付き合いだけど初めて聞く言葉だった。


 もしかしたら何か心境の変化でもあったのかもしれないな。高校生だしそんなタイミングはいくらでもあるだろう。比べて私は……。




 昔から子どもが好きで、いつか保育園の先生になるんだって心に決めて、担任を持つのを楽しみに就職したはずが……今では「辞めたい」としか考えていない。


 どうしてこうなってしまったのだろう。転職すればうまくいくのだろうか。


 でももし転職先でも同じような事が続いたら……私は今度こそ保育士なんてやりたくないと思うかもしれない。そんな事になったら、必死で働いているこの数年間や学生時代の勉強が無意味なものになってしまう気がする。




 そんな事を考えながら私は家に辿り着いた。


 誰もいないリビングの電気も点けず、三人掛けのソファに鉛のような身を投げる。




「あー……お風呂に入らなきゃ……その前にメイク落として……ああでも……ほんと、疲れた……」




 そのまま意識は深い深い闇の底へと消えて行った。










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 辺りが暗い。


 そうか私、電気も点けずにソファに横になったから……。


 ……いや違う。寝ているはずの革張りのソファの感触がない。それにいくら暗いからって、普段だったら街灯や車のライトがカーテンの隙間から差し込むはず。こんな、手や足まで見えないほど暗い訳が無い。




「つまりこれは夢ってことだ」




 どうせなら夢なんか見ずにぐっすり眠りたかった。そんなことを夢の中で考えるのも変な話だけど。




「目が覚めた?」




 ついつい乾いた笑いが口をついて出た。それに応えるように上空から声がする。


 首をかしげながら上を向くと、私の眼前に小さな光が舞い降りてきた。




「なにこれ? 蛍?」


「違う!」


「うわっ蛍がしゃべった!!」


「だから違うって! こんな顔の小さい蛍がいるものですか!」


「それ自分で言う…?」




 おかしな夢だなぁと思いつつ、舞い降りてきた光をよく観察する。


 確かに顔の小さな…いや、全体的にとても小さなニンゲンのような生き物が、憤慨しながら私を見ていた。髪は癖のないブロンドのロングで、白い肌にはタンポポのような黄色いふわっとしたミニドレスを纏っている。背中にはオーロラに光る半透明の何かを装着しており、それが光を携えているようだ。




「私は妖精! これは羽! 見れば分かるでしょう!」


「あっなるほど、ティンカーベルみたいな?」


「? うん、た、多分そういうの!」




 実に変な夢だ。……そういえばこの間の土曜保育でピーターパンを観たっけ。それでこんな夢を? どこで影響を受けているか分からないものだなぁ……しみじみとそんな事を考えていると、その妖精とやらが私の鼻先まで飛んできた。




「あなた、私の契約主に選ばれたのよ。あの人を助けてあげてくれない?」


「へ?」


「こことは違う世界で、あなたの力を必要としている人がいるのよ」


「は?」


「なかなか相手方の出してきた判定基準が曖昧でね、随分悩んだんだけど……貴方が適任! 先方も納得してくれてるし、もう締切も無いしね」


「ちょっとちょっとどういう…」




 妖精の小さな小さな手が、私の鼻っ柱をパチパチ叩く。こんな小さいのに、マニュキアまでしてある。芸が細かい。


 そんな事は問題では無い。妖精? 契約主? 違う世界? 何を言ってるんだこの娘は。そこで私は、はたと気づく。――そうだこれは夢なんだ。夢の中くらい少し遊んでみてもいいかもしれない――と。




「……ふむ。話を聞こうじゃないの。困っているみたいだし」


「急に物分かりが良くなったわね。ありがたいけど……」


「まぁお気になさらず。続けて」


「そ、そうね。私は転生の神に遣われし妖精。主のように命を与えたりはできないけど、私達は契約を交わした人物の選考基準に則って一人を選び、別の世界に召喚することができる。これから貴方には別の世界に移動してもらって、契約主の願いを叶えてあげて欲しい。無理は承知だけれどこれが私の仕事よ」


「契約主の願いって?」


「それは向こうで聞いてちょうだいな。あ、一応貴方には拒否権があるわよ。もしお断りだったら言ってね。また選考し直すから。……まぁ、残業にはなっちゃうし、相手方を待たせる事になっちゃうけど……前払い分はしっかり働かなきゃ」




 “残業”という単語に無意識に反応してしまった。大丈夫、ただの残業ならね。その前に“サービス”がついていなければどうという事は無い。




「どうする?」


「いいよ」


「いいの!? それはありがたいけど……じゃぁこの書類にサインを……ちょっと枚数多いのと、注意事項があるからよく聞いてもらって……」




 どこからともなく現れた机と書類の束に驚く事も無く、手の込んだ夢だなぁ……と考えながら話半分に、私は、その書類に、サインをした。








――――――この後すぐ、大いに大いに後悔することも知らないで。








「じゃぁこれで契約終了! 期限は特にないから頑張って!」




 晴れ晴れとした声色で妖精がそう言うと、足元から目のくらむような光と強い風が溢れ出てくる。目を開けていることも立っていることも出来そうにない。




「そういえば、妖精さんの名前って……っ」


「そうね、自己紹介してなかったわね。私はメルキュール。また会えるといいな」


「うっ」




 刺すような光は瞼を閉じているだけでは防げそうになく、思わず顔を手で覆った。




 何か素早く動く物が私の耳元を掠める。


 先ほどまで足裏にあった地面の感触は無くなり、私の体は空中を緩やかに落ちていく。


 急な大気の変化に呼吸が困難になり始めた。




 私はどうなるんだ。




 いや、これは夢だ。誰だってよく見るだろう、どこか高い所から落下する夢。落ちたと思うとハッとして起きるやつ。






 そうだきっとそうだそうだ。だから心配なんていらないんだ。


 やけにリアルな感覚だけどそうに決まっている。






 落下時間が長すぎて気分が悪くなってきた。夢の中で嘔吐する羽目になるのだろうか。現実でも吐かなきゃいいけど……って、そんなことはどうでもいい……! 気持ち悪い、早く夢から覚めてよ私!!








 頭の中で絶叫したその時、落下の終わりがやってきた。


 長い時間落ちていたはずなのに、衝撃はほとんど無く、私の足はダンスのステップのように軽やかに着地をした。


 ホッと息をつく。地面がこんなに安心するものなんて。普段生活している時は考えたことがなかったな。しかし嫌に寒いし、感覚がおかしい。


 ふらつきそうになる両足を堪えて着地の姿勢を整えると、私はそっと両目を開いた。




「満月の晩、水辺の近くでとの事だったが……思ったよりも時間がかかったな。……随分待ったぞ」




 気づくと私は腰まで水につかっていた。銀の月が照らす浅い池の真ん中に私は立っている。


 池の縁に立っていた褐色の肌に金色の短髪の青年が、私に向かって快活に笑った。








「ようこそ、カッサへ。『不滅の灯』は異世界人を歓迎するよ」








 この男との出会いが全ての始まり、全ての元凶。


 私の異世界ライフの初日であった。




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