第5話 父と子
父の住んでいる家は五駅ほど離れたアパートだった。築五十年程の寂れたアパートで、父はその二階に住んでいるという。
地図に書かれた部屋の前に行くと、表札が貼りつけられていて、そこには「森瀬」と私たちと同じ苗字が刻まれている。
会って何を話していいのか分からない。いったいどんな顔をして接すればいいのだろうか、私はそればかりを考えていた。
しかし、そんな私を置き去りして、伍は無造作にインターフォンを鳴らした。
「ちょっと、何考えているの!」
私は思わず、激昂してしまう。
「何って、そのために来たんでしょ」
確かに伍の言っていることは正しいが、私はその無鉄砲な性格に腹が立った。気持ちの準備というものを知らないらしい。
しかし、押してしまったものは仕方がない。私は高まった鼓動を必死に抑え、父との対面に緊張を高める。
しかし、一分ほど経っても父が出てくる気配はなかった。再度インターフォンを鳴らしてみるが何の反応もない。
「まだ寝ているのかな」
「もう昼になるし、流石に起きてるでしょ」
「でも今日は日曜日よ。休日だから寝ているとか……」
照り付ける太陽でホットプレートのようにコンリートが焼き上がる、幸いこのアパートの部屋の前には軒があり、その日差しを直に受けることはないが、真夏の昼間と言うのは日陰でもかなり暑い。
「どうする、帰る?」
「いや待とう」
「待つって出かけているのかもしれないのよ。こんな真夏にここに居たら、死んじゃうわよ」
「大丈夫。本当に暑さでやられそうになったら帰ればいい。僕は簡単に諦めるのが嫌いなんだ」
伍はブルーボックスが入っているリュックを足元に置き、頑として動こうとしない。私はそれを横目に私は溜息をついた。アパートから見える飛行機雲を眺め、いったい自分は何のためにこんな思いをしているかと、卑屈に自問自答をしてみるのだった。
それから一時間が経つ。私も伍も部屋の前でぐったりとしていた。
真夏の日中に一時間も外にいると体力は湯水のように流れ出て行く。
喉も乾いたし、私はもう限界だった。
「もういいんじゃない? そろそろ帰ろうよ」
私がそう言うと流石の伍も承諾した。いくらか不本意な顔をしているが、素直に頷いた。
「あともうちょっとだったのにな」
伍はあてつけがましく呟いた。仮に父が現れたとしてもその暗号が解けるかどうかは分からない。この暑さの中、執拗に父を待つこともないと思う。
伍はリュックから封筒を取り出して、それを太陽に重ねる。折り鶴はもう解体してしまったらしい。私も寄っかかっていた壁から背中を離し、帰ろうとした。
しかしその瞬間、階段から誰かが上がってくる音が聞こえた。
鉄の階段を踏みしめる音が次第に近づいてくる。その瞬間、いままでの暑さが消し飛んだ。一気に体中に寒気が走り、顔が強張る。
アパートの二階で数年ぶりに父との再会を果たしたのだ。
「伍……由芽……」
父は買い物袋を両手に持ちながら、唖然とした表情で言葉を漏らした。
以前の父とは見た目が大きく変わっていて、一気に老け込んだように見える。髪の毛は少し白くなり、髭が伸びて頬はかなりやつれていた。
父は私たちの前に立ち尽くし、この空間にピンと緊張の糸が張りつめる。
「父さん、久しぶり」
その静寂を破ったのは伍だった。伍は自分が虐待を受けていたことなんて、すっかり忘れているかのような口ぶりで簡単に再開の第一声は放った。
しかし、それとは対照的に私は声が出なかった。喉元で言葉がつまり、足は小刻みに震えている。
「なんでここに居るんだ。良太のところに行ってたんじゃないのか」
父の目には驚きと涙が溜まっていた。買い物袋はその場に置いて、父の手が私の頭のほうに伸びてくる。
恐らく、頭を撫でようとしたのだろう。しかし、私はその手を払い除けてしまった。するとその瞬間、父は我に返り、苦悶の表情を浮かべる。
私たちの前で膝をつき、そのまま頭を床に擦り付けた。
「俺が悪かった。本当にごめんな。取り返しのつかないことをしてしまった。もうお前らに見せる顔なんてない! 最低な人間だ……全てが自分本位でお前たちのことをなんも考えてなかった。許してほしいなんて言わない。でも謝れせてほしい。これも俺の自己満足なのかもしれないな。これで許されるなんてお思っていない……」
父はそう言いながら、コンクリートに額を擦り付けた。
「顔を上げてよ……」
伍がそう言って、父に顔を上げさせようとしたが、私はそれを止めてしまった。伍の前に腕を出して、言葉を遮る。
「許す許さないじゃないよ。何がどうなろうとも私たちのお父さんはお父さんしかいないんだよ」
私は恐怖に震える声を喉から精一杯ひねり出した。この言葉自体は伍の受け売りだったが、それでも私の口から言いたかったのだ。
それを聞いた父はゆっくりと顔を上げる。
コンクリートは涙で濡れている。額は少し赤くなっていて、目はそれ以上に真っ赤だった。
私はそんな父に黙って、手を差し伸べた。それを握った父の手は以前の優しい手と変わらなかった。
「じゃあ中に入れてよ、僕もう喉からからだよ」
「そうだな、飲み物はお茶くらいしかないけど、いいか」
「なんでもいいよ。このままじゃ、熱中症になっちゃうよ」
父は伍にそう言われ、すぐに鍵を開けて、部屋の中に入れてくれた。部屋の中は蒸していて、外の方が涼しい。
伍は靴を乱暴に脱ぎ捨て、中に入ると、勝手に窓を開け、冷たい風を部屋に入れた。私もそれに追随してお邪魔する。
部屋の中は散らかっていて、至る場所に履歴書が落ちていた。ワンルームで埃っぽくそれほど快適な暮らしをしているようには思えない。
「恥ずかしいもの見られちゃったな」
父は散らかっていた履歴書をすぐに片づけ、不器用な愛想笑いで誤魔化した。その履歴書を見るに、会社をクビになった父はバイト暮らしをしているのかもしれない。
ものが散乱している割に電化製品などは少なく、相当貧乏な暮らしが見受けられる。
父は私たちをちゃぶ台の前に座らせて、お茶を振舞ってくれた。
「これって……」
決して探るつもりはなかったが、部屋のを見渡すと棚の上に母と私たちの写真が置いてあることに気が付いた。
「あぁそれか、まぁ忘れられなくてな。人って亡くしてからその人の大事さに気が付く生き物なんだな。毎日俺はその写真に手を合わせてるんだ」
父は膝を進めてその写真の前で正座をした。
母の仏壇自体は母の実家にある。しかし、父の部屋にあった写真の前にもお供え物があって、簡易的な仏壇のようだった。その隣に私たちの写真も置いてある。
しかし、その写真は遺影とは別の写真で、少し若い頃のものだった。
「これって、いつの写真?」
「それは母さんが伍を生んで間もないころの写真だな。そうやって、そこに置いていると、自分の罪を咎めてくれる気になる。何度かこの部屋にロープを垂らしたことがあった。でもその度に母さんの写真が目に入って、俺を止めるんだ。俺の罪は重い。死んだならそれから解放される、でもそれを母さんは許してくれなかった。生きることのほうが何倍も大変なんだ。それを母さんは俺に教えてくれた。だから、俺が死ねばよかったなんて言わない。生きている人は生きている意味があるんだと俺は思う」
父は写真を見つめながら伍に答えた。
「ごめんなこんな話しちまって」
「別にいいよ」
父は静かに頷くと、再び私たちの前に戻った。グラスの氷が少し溶け始めている。膝に手をつき、父はそのまま正座をしていた。
「伍、その紙どうしたんだ?」
父は少しすると伍の持っていた祖父の手紙に気が付く。
「父さんこれ知っているの?」
「知ってるってなにも、それ俺の親父が俺の母さんに送った手紙じゃねえか。そんなものどこから見つけて来たんだよ」
「と言うことはこの手紙のことを知ってるんだね」
「まぁ一応は……」
伍は興奮していた。叔父の言っていたように、父のほうが祖父には詳しいのかもしれない。そして、この手紙が祖父から祖母に送られたという確証がついに持てたのだ。
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