43:二番目にイヤなこと

「う……」


 か細い声を漏らし、アリスはゆっくりとまぶたを開いた。


 背中に触れるごつごつとした固い感触と、視界いっぱいに広がる岩肌から、すぐにここが洞穴だと理解したアリスは、だがしかし、どうしてここにいるのかは、さっぱり分からなかった。


 頭が……痛い……


 川に身を投げたときどこかにぶつけたの……?

 それとも他にわけが……?

 どっちでもいい……

 とにかく……頭が痛い……


 こめかみをさすりながら起き直ろうとしたアリスは、そこではたと、服を脱がされていることに気がついた。


 下着も、なにもかもすべて。


 一糸まとわぬ、未だ大人とは呼べない体つきの少女を包みこむようにかけられていた物は、ハナコのTシャツで、アリスが横たえられていた場所には、申しわけ程度に木の葉が敷き詰められていた。


「起きた?」


 ぶっきらぼうなはずなのに、いつのまにかそれを聞くだけで安堵してしまう優しい声音が、洞穴の乾いた壁にこだました。


 視線を向けると、ほどいた三つ編みを、おくれ毛にかまうことなく乱暴に束ね上げた下着姿のハナコがいて、外で乾かしていたのだろう、アリスの下着や服を放って渡してきた。


「……ごめんなさい」

「まあ、とにかく服を着な」


 言って、アリスの横で胡座をかいたハナコは、残り火のくすぶるたき火の跡へ、拾ってきた木の枝をくべ始めた。


 間もなく細い煙が立ちのぼり、すぐに木の枝が赤い温度を揺らめかせる。


 服を着て、ハナコのとなりに腰を下ろしたアリスは、夏だということを忘れてしまった、雪のように白く冷え切った手を、たき火にそっとあてた。


 暖まるのを感じながらハナコをちらと見やると、その腹に十字の浅い傷があり、そのほかにも擦り傷やあざがところどころにできているのが見えた。


 川でつくった傷も、たぶんその中にあるのだろう……


「……ごめんなさい」


 ふたたび、おずおずとしながら言うと、


「朝食にしたいとこだけど、なんの道具もないから、困ったな」


 と、ハナコは頬のかさぶたを掻いた。


「自分が強いだなんていう勘違いに、こういうとき気がつくな。道具や仲間がいないと、あたしはなにもできない」

「……ハナコさんは強い人です。わたしは何度も助けられました」

「まあ一応、仕事だからね。だけど――」


 たき火に枝をくべながら、


「――この仕事をどうするか、いまは迷ってる」


 ハナコが言う。


「それは……?」

「……あたしは言葉を知らないから、あんまりいい感じで言えないから、傷つけちまったらごめんだけど、川に飛び込んだあんたを助けたとき、冷たいかも知れないけど『本当にこれでよかったのか?』ってほんの少しだけ思っちゃったんだよ。あたしはバカだから、マクブライトたちの言ってることはあんまりよく分からなかったけど、あんたをこのまま〈赤い鷹〉に渡しちゃったら、ほぼ間違いなく戦争が起きるらしいからね。そんなことは絶対にイヤだけど、あたしは今まで仕事を途中で放棄したことはなかったし、それが地獄の九番で胸を張って生きてくために必要な、最低限の誇りだったんだ……ああ、ちがうな。なにが言いたいのか、自分でもよく分からなくなっちまった」


 ハナコの言いたいことは、なんとなくだけど分かる。


「だから、わたしがいなくなれば――」

「だから一番イヤなのが、なんだよ」

「それ?」

「これもあんまりいい感じで言えないけど、あたしが一番イヤなのはだ。そのためなら、どんな汚いことをしてでも、生き延びる覚悟があたしにはある。だから戦争なんてものは起きてほしくないし、だから本当はあんたが死ぬのがいいのかもしれないけど、あたしが二番目にイヤなのは、なんだ。そしてあたしの中では、困ったことに、二番目が、よく一番目になるんだ」


 言って、ハナコはアリスを力強く見据えた。


「あたしはあんたに死んでほしくない。


 心に染み入っていた。


 涙が、あふれ出す。


 拭っても、拭っても、ほとばしるものを止めることができない。


 それでも必死で涙を拭いながら、アリスはハナコにはじめて出会ったときのことを思い出していた。


 あの時は、ピクシーを吹き飛ばした力が自分のものだとは思いもよらなかったし、そのあとすぐに意識が朦朧として、しまいには気を失ってしまったけれど、そのおぼろげな世界に突如として現れた人のことは、今でもはっきりと覚えている。


 あれは――


 ――〈沈黙の戦乙女サイレント・ヴァルキリー カリーナ・コルツ〉その人だった。


 今となっては、あの時のあの人がハナコ・プランバーゴだったことは、さすがに分かっているけれど、それでもあのとき目の前に立っていたのは、カリーナ・コルツに間違いなかった。


 あの日あの時までの、息が詰まりそうなほど長い長い幽閉生活のなかで唯一の楽しみだったテレビアニメの中の、弱きを助け強きをくじくステレオタイプな正義の味方が、ついに助けに来てくれたのだと、その時は本気でそう思った。


 世話係のセイさんが、よく「希望を捨てなければ、希望のほうもわたしたちを決して見捨てない」と、確信に満ちた笑みを浮かべて言っていた。


 セイさんは、その他にも色々と心を励まされるような言葉を教えてくれたけれど、アリスは特に、その言葉が好きだった。


 だから、希望を捨てなかった。


 カリーナ・コルツがいつか助けに来てくれるだろうという、自分でもバカバカしくなるほど、バカげた希望を。


 そしてあの絶望的な状況で、カリーナ・コルツが目の前に現れ、ついに来てくれたのだと、アリスはそう思った。


「いつまで頬に川をつくってるつもり? また服が濡れちまうから泣くのはやめな」


 照れくさそうにしてつまらない冗談を言うハナコ・プランバーゴは、カリーナ・コルツの冷静さにはほど遠いし、カリーナ・コルツと比べるまでもなく、銃の扱いが下手だ。


 だけど、カリーナ・コルツのように強くて、カリーナ・コルツよりも勇敢だった。


 それに、《沈黙の戦乙女 カリーナ・コルツ》のことを、ハナコ・プランバーゴは知っているようだった。


 それで、充分だった。


 セイさんや護衛の黒服――サタケさん、ギンガムさん、ポッツさん、ゼンさん、ジュネさん、ナカライさん――たちの無残な死を目の当たりにして、旅へ出てしばらくは口もきけないほど悲しみにうちひしがれていたが、それでも心のどこかでハナコがあの黒いバケモノから守ってくれると、アリスはそう思っていた。


 と、アリスはそう思っていた。


 しかし、長くもあり短くも感じたこれまでの旅を経て、気づかぬうちにアリスは、胸の裡にハナコへの強い憧れを抱くようになっていた。


 そのことに戸惑いながらも、この人についていけば、いつか守られるだけのか弱い存在から、誰かを守ることのできる強い存在へと成長できるかもしれないと、いつか自分も、あのカリーナ・コルツのような存在へ生まれ変われるかもしれないと、アリスはいつしかそう思っていた。


 それなのに――わたしは死のうとした。


 あんなを知ってしまって、平静でいられるわけもないと普通は思うのかもしれないし、事実、そうとうに動揺した。


 そればかりか、自分さえいなければ戦争は起きないなどという、言いわけじみた弱音を吐いて、命を絶とうとさえした。


 あの時はそれが最善策だと思ったし、それが勇気ある決断なのだとも思った。


 だけど、ハナコ・プランバーゴは、を許してくれなかった。


 そして今、「死ぬことが一番イヤで、好きなヤツが死ぬのが二番目にイヤだ」と、こんな自分に言ってくれた。


 たぶん、ハナコ・プランバーゴが二番目ということにしているイヤなことは、よく一番目になるどころか、常に一番目なのだろう、と思う。


 この人はきっと、守りたい者のために命をなげうつ覚悟を持つ人なのだろう。


 それも無意識のうちに。


 守られてばかりじゃダメだ。

 死のうなんて思うのはバカだった。

 生きよう。

 ちがう――


 ――生まれ変わらなきゃ。


 カリーナ・コルツは何が起ころうと、決して諦めない。

 ハナコ・プランバーゴだってきっとそうだろう。

 だったら、わたしも――


 ――涙を拭うと、


「それにしても、遅いな」


 ハナコが思い出したように話題を変えた。


 そういえば、と、あとの二人がいないことに気づく。


「あいつら、もう朝だってのに、まだあたしたちを見つけられないみたい。まあ、あそこからだいぶ流されたから、無理もないけどね」


 苦笑しながら肩をすくめるハナコ。


「まあ、そのうち来るだろうけど。あいつら、あんなんだけど、ちゃんと頼れる奴らだからな。あんたも一応は、信頼してやれよ」


 アリスは無言のまま、しかし力強くうなずいた。

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