6:ツラブセ
その夜。
何ごともなくツラブセまで辿り着き、
「奴ら、今回も来なかったね」
と、ハナコはため息をついた。
「コブシ一家ですか?」
トキオが訊く。
「そう。ちょっとやりすぎたかな?」
「来ないなら来ないでいいんじゃないっすかねえ」
「適度な運動は身体に良いし、それにダイエットにもなるんだよ。最近、ちょっとお腹に贅肉がついてきたからね」
「へえ、意外ですね。ネエさん、男の目を気にするタイプじゃないと思ってました。ああ、それに一つ教えてあげますけど、男は少しポッチャリくらいの女が好きなんですよ」
「あんた、ホントに女心が分かってないね。一つ教えといてあげる。もし男がこの世からぜんぶいなくなっても、女はダイエットをやめないよ、絶対に」
「どういう意味ですか?」
「分からないならいいよ」
興を削がれた顔で、ハナコは淡い月明かりに照らされたツラブセを見上げた。そのまま天国まで行けるのじゃないか、と思うほどの威容を
「あ、ネエさん、気球が浮いてますよ」
呑気に言うトキオの視線のさき、はるか上空に、暗くて見えにくいが、たしかに気球のような黒い影が浮いているのが見えた。
「新しい住人でもやってきたんだろ」
「わざわざ屋上から入るんすか?」
「そのほうが安全だろ、入り口から入るより」
トキオは納得がいかぬとばかりに首を傾げたが、ハナコにはそんなことはどうでもよかった。
――早く帰りたい。
そう思いながら視線を落とした大きな玄関口には、数人の警備員の姿。
九番を根城にする五つの組織と、《ツラブセ》の英雄たちの代表であるムゲン・モチダによって作られた組織同盟――《
主に九番の治安維持のために作られた民警ではあるが、その重要な任務のひとつにツラブセの警備がある。そのため四六時中、シフトを組んで出向してきた民警が、ツラブセの警備にあたっているが、いつ来ても、どの警備員もが、見るからに重そうな機関銃を肩からぶら下げている。
《クニオ共和国》では一般人による銃器の所持は極端に制限されていて、ましてや九番の下々まで回ってくるのはほとんど
それだけでも、ここにはとてつもない権力を持った人間が住んでいることが分かる。
「いつ来ても、なんか緊張しますね」
「ふん、べつに取って食われるわけじゃないだろ」
言って、ハナコは玄関口に向かった。
「止まれ」
くわえ煙草の、アゴヒゲをたくわえた警備員が銃口を向ける。
「ブツを受け取りに来ました」
手を上げたまま目で促すと、トキオが鞄から依頼書を取りだして、アゴヒゲにうやうやしく差し出した。
「
アゴヒゲはトキオから受け取った依頼書へなおざりに目をとおしてから、脇の木製テーブルにそれをぞんざいに放り投げ、両手をあげたままのハナコの体をくまなく検めだした。明らかに度を超えて触りすぎだが、下手にあらがってアゴヒゲの不興を買うのは得策ではないので、じっとガマンをしていると、
「よし、オーケーだ」
と、勢いよく尻を叩かれた。
「来い。余計なまねはするなよ」
「はいはい、分かってますよ」
アゴヒゲの先導にしたがって、ロココ調の大きなシャンデリアが垂れ下がる、
「今日はいつにもまして厳戒態勢ね。なにかあったの?」
手を上げながら訊くと、
「二日前から、全フロアの監視カメラがまったく使い物にならないんだ。今夜でようやく直るらしいんだが、そのせいで、こっちはシフトがめちゃくちゃよ」
と、不機嫌に返された。
ツラブセにブツを運ぶ仕事は多く、そのためにアゴヒゲとも顔見知りだったが、目の下にクマができているのは初めて見る。きっと、睡眠時間をけずって警備に当たらされているのだろう。
「ただの故障でも、ここじゃ一大事ってわけですねえ」
トキオがのんきに言うと、
「いや、噂じゃ、あの《レーダーマッキー》の野郎に監視カメラのシステム系統をハッキングされてぶっ壊されたとかなんとか、みんなして言ってる。そうだとしても、さっぱり目的が分からんから、おれは信じちゃいないがな」
と、アゴヒゲが応えた。
「でも《レーダーマッキー》って、都市伝説みたいなもんでしょう」
トキオが言う。
「何年か前に、清純派アイドルの、かなりエグめの流出ハメ撮り動画を、電波ジャックでテレビに流したことがありましたけど、結局、ヤツが捕まったっていう話は聞きませんしね。巷では、天才的な才能をすべてイタズラに費やしている、かなり悪質な
「おれもだよ」
アゴヒゲがニヤリと口の端を上げた。
「まあ九番のほとんどの連中は、不可解な事象にたいして、真剣に考えることを放棄しちまってるんだな。だから《レーダーマッキー》やら《笛吹き男》だなんていう、愚にもつかないバケモノが、そこらじゅうで望まれない産声を上げるのさ」
わけしり顔のアゴヒゲに視線を向けられたが、ハナコはその手の話にはまったく興味がなかったから、適当にうなずいて返した。
到着を告げるベルが鳴りドアが開くと、その先に伸びる、赤絨毯が敷かれた長い廊下にも警備員がウジャウジャとしていた。アゴヒゲは、モミアゲのたくましい警備員に二人を引き渡すと、任務完了とばかりに、さっさとエレベーターに戻っていった。
「こんなときだってのに、外からの訪問者を歓迎するなんてな。モチダ様も、ずいぶんと
モミアゲがこぼした愚痴に、トキオが
「依頼の人物はどこにいるんですか?」
トキオが訊くと、
「いちばん奥の部屋だ」
モミアゲが廊下の先を指さした――
――次の刹那、
最奥の部屋の壁が轟音とともに崩れ、そこから黒ずくめの男が吹き飛ばされて反対側の壁に勢いよく叩きつけられた。
よほどの衝撃だったのか、ぶち当たった壁がえぐれ、突っ伏す黒ずくめに、砕けた破片が粉雪のごとく降りかかった。
「伏せていろ!」
モミアゲの怒鳴り声で、ハナコたちは廊下の端に身を伏せた。
「侵入者だ!」
モミアゲの声に、金縛りになったかのように動けなくなっていた警備員たちが、我に返って、一斉に侵入者たちへ銃口を向けた。
「なんなんですか、アレは?」
トキオが言う。
「あたしに分かるわけないだろ」
ハナコは必死に冷静さを保ちながら、黒ずくめを観察した。
不気味なソレはいつのまにか立ち上がっていて、二人の軍服と対峙していた。
その両手には、
「き、貴様ら動くな!」
モミアゲの怒声に二人の軍服が反応し、警備員たちのほうへ銃を向け、なんの
銃弾を浴びた数人の警備員が、血色の肉片をまき散らしながらくずれおち、興奮状態に陥った警備員たちが応戦をはじめた。
おびただしい銃弾によって蜂の巣にされた二人の軍服が、のけ反りながら廊下に倒れたが、黒ずくめは、その銃弾の雨をものともせずに、人とはとうてい思えぬ動きで、次々と警備員たちの首から血色の花を咲かせていく。
「そんな……」
ハナコが声を漏らしたときには、伏せる二人の眼前に立つ黒ずくめの他に、立っている者はただの一人もいなくなっていた。
目の前に、カッと目を見開いたままのモミアゲが崩れ落ちている。
不条理な恐怖に体が震えそうになるのを必死に抑えつけながら視線を上げると、黒ずくめは顔をスッポリと覆うガスマスクのようなものの、その口の部分から背中に伸びる黒いチューブから、くぐもった呼吸音を漏らしていた。赤く光る目の部分はカメラレンズになっていて、そのファインダーが機械音を上げながら、ハナコたちを不気味に捉えている。
「なんだ、おま――」
言いかけると、右手で喉元を掴まれ、ハナコはそのまま黒ずくめに軽々と持ち上げられた。
喉がきつく絞まり、呼吸がまるでできない。
「は、離せ!」
飛びかかるトキオを、黒ずくめが左手で払いのけた。
その
「動くな、賊!」
意識の飛びかけたハナコの耳に、聞き覚えのある声が響く。
ハナコと視線が合うと、ムゲンは
「また会ったな、お姉さん」
と言って、黒ずくめに向かって発砲した。
しかし背中に銃弾を受けたにもかかわらず、黒ずくめは微動だにしなかった――
――バケモノ
死を感じ、ハナコはついに体の震えを抑えきれなくなった。
「こっちを向け、成敗してやる!」
銃撃が効いていないのを知ってか知らずか、ムゲンが
一瞬、黒ずくめがひるむ。
その隙をついて、ハナコは黒ずくめの
「ガハハ、どうだバケモノめ!」
ムゲンの高笑いが廊下に響き渡る。
よろめきながら、ムゲンに顔を向ける黒ずくめ。
そのマスクに覆われた顔を見たムゲンの表情が、見る見る間に青ざめていった。
「バ、バカな、なぜお前が――」
次の瞬間、ムゲンの首から血色の花が咲いていた。
黒ずくめにすがりつくようにして廊下へ突っ伏すムゲン。
黒ずくめは少しよろけながら、未だ息のある英雄を一顧だにせず、開いたドアへ向かった。
「ま、待て……」
ハナコは声を振りしぼって呼び止めたが、黒ずくめは、まるで意に介さずそのままムゲンの部屋に消えた。部屋からは銃声が聞こえたがすぐに止み、間もなく窓ガラスの割れる音が聞こえ、廊下は静寂に包まれた。
ハナコはよろめきながらも立ち上がり、胃液のついた口元をぬぐって、転がる死体のあいだを縫いながらムゲンに近寄った。
「おい、大丈夫か?」
血走る目を見開いたムゲンは、ハナコに視線を移し、
「ピ、ピクシー……」
と、かすれ声で呟いて、血を噴水のように吐き出しながら息絶えた。
「くそ、なんだっていうんだよ」
ハナコは痛む喉をさすって、開いたドアからムゲンの部屋をのぞき見た。
警護の黒スーツたちの死体が転がり、その先に見える割れた窓からは風が吹き込んで、カーテンを揺らしている。
そこに、もう黒ずくめの姿は見当たらなかった。
「ネエさん!」
トキオが駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか?」
「ああ、なんとかね。それより――」
最奥の部屋へ向かうハナコ。
ドアの横に立って、警棒をかまえると、
「は、入る気ですか?」
となりに立った頼りない相棒が、声を震わせる。
「ああ」
言って、ハナコは開いたドアから室内へと足を踏み入れた。
その廊下にはみっつの黒服の死体が転がり、あたりは血の海と化していた。
ハナコは警棒を強く握りなおし、死体をまたぎながら部屋の奥へと向かった。
天井で三枚羽の循環ファンが回る大きな居間に出ると、そこに黒服の死体が三体と、いくつかの軍服の死体が転がり、それらに囲まれるようにして――
――青いワンピースの少女が佇んでいた。
少女が虚ろな表情で、空よりも青い瞳をハナコに向けた。
一瞬、あの絵本を思い出す。
「やっと、来てくれた……」
少女が
言葉の意味するところが分からないまま、場違いなほど
耳を近づけると、
「その子を頼みます……」
と、苦しそうにささやき、女は、目を見開いたまま動かなくなった。
「……」
ワケも分からずにいると、ふと力が抜けたかのように少女がくずおれた。
すんでのところで、ハナコは少女を抱きとめた。
間近で見る少女は、やはりここには場違いだった。
「ピクシー……」
ハナコは独りごち、廊下から向かってくるトキオを見た。
「こ、この娘が例の……?」
トキオに頷くと、廊下から、エレベーターの到着ベルが聞こえた。
すぐに大勢の足音が聞こえ、
「お前ら、そこを動くな!」
と、入り口で銃をかまえた警備員に、怒声を浴びせかけられた。
「ど、どうします?」
「……やっと使うときがきたみたいね」
「は、はい?」
「煙玉だ」
「え、あ…… マジですか?」
ハナコは少女を肩に担ぐと、立ち上がってそのままトキオにおぶらせ、ゆっくりと深呼吸をして、警棒を強く握り直し、
「ああ、マジだ」
と、言った。
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