二人のK

マジシャン・アスカジョー

二人のK

 積み上げた段ボールに目がとまった時、滝川修二はふと誘惑にかられた。

 すでに日付はまたいでおり、朝には引っ越し業者が来てしまう。

 まだ何も始まっていない部屋を見渡し、修二はあきらめた笑い声をもらした。


<床に置いた時に倒れるようなカバンはダメ。すぐに買いなおしなさい>


 当時の上司に怒られて買った黒い牛革ビジネスバッグが、段ボール箱のふたを持ち上げていた。

 高い買い物だったが、手汗を吸ったハンドル部は、クローゼットの奥で緑色の粉を吹いていた。カバンごときに2万5千円も払う文化のない修二にとって、今でも分不相応な買い物だったと思い出す。



 修二はウェットティッシュで付着したカビをふき取ると、詰め込み過ぎてパンパンに膨らんだカバンを段ボール箱から取り出した。


 後輩がまとめてくれたExcelのショートカットキー一覧に、研修で配られた”決算書の読み方”。そして英文法律用語をまとめたノート。


 詰め込まれたノートやプリントの束は、思い出の品というよりも、会社員人生への未練ばかりだ。いつか会社に戻る日が来た時に読み返そうと詰め込んだままになっていた。

 変色し始めた履歴書用紙は、6年前に配送センターのアルバイトに応募した時のものだ。



 側面の広いポケットに、ビニールに入ったままの寄せ書きの色紙が突っ込んであった。

 

 真ん中の2L版に、トランスレーター部の14人と、隣の島だった秘書課の女子たちが集められていた。

 最終出社日に、花束と一緒に受け取ったものだ。繁忙期の真っ最中に辞めたことを考えると、こうして形だけでも整えてくれた同僚に感謝するべきである。

――ありがとう、皆さん。僕はちゃんと頑張っていますよ…。



 写真を囲むように、色とりどりのメッセージが寄せられている。

 左下に、紫色のボールペンで奇妙な丸文字が並んでいた。


<こだわりを持って、辛せをつかんでください。応援してます>


からせ、って何だよ!」


 ”幸せ”という字が、スパイシーな字なっていた。

 8年経って発見した堀込恵子の誤字に、修二は膝から崩れ落ちた。



 その堀込恵子の”からせ”から対角の右上には、上司だった浅野香保里かおりの角ばったメッセージが書いてあった。


<”夢”とは叶わないものを指します。夢ではなく、目標と訂正するべきです>


 しかも、赤字で書いてある。

 修二は色紙を太ももに打ち付けて爆笑すると、スマホを取り出した。


<会社辞めた時にもらった色紙。

「辛(から)せつかんで」って何?

 赤字は上司。添削課題のつもり?マジうける(爆)>


 アップで収めた名前部分にモザイクをかけると、Twitterに晒した。



 …アハハハ、マジうける。

 段ボールや小物が散らばったフローリングの上に転がった。


 ぶら下がった蛍光灯がまぶしい。

 修二は色紙を顔の上に乗せると目を閉じた。


 明日にはここより2万5千円安いボロアパートに移る。

 …2万5千円って上司にいわれて買ったカバンと同じ値段じゃん。

 アハハハ、マジうけるわ。


 修二の頬に伝うものがあった。




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 浅野香保里かおりは、難しい上司だった。

 デスクには、こだわりスパイスで作ったという”自家製インドチャイ”を香らせており、気に食わないことがあると口をすぼめてじっと相手を見つめる癖があった。


 靴。服。腕時計。

 どこにも傷など一つもない。

 頭の形がいいのでショートボブが似合っていた。


 身の上話を一切しない人だったので実際は分からないが、

 薬指に指輪を付けていた記憶はないし、何より土日も普通に出社していることがすべてを物語っていた。



 修二がこの弁護士事務所に入れたのは、オーストラリア留学帰りに取ったTOEICの点数というより、たまたまゼミの教授の友人がそこで執行役員をしていたからだ。

 しかし国内だけでなく、海外にいくつもの支店を抱える大手弁護士事務所での翻訳事務は、半年程度の留学経験で太刀打ちできるものではなく、入社後1年半ほどは会社から補助を受けながら専門学校の夜学に通ったものだ。


 トランスレーター部は、契約書や訴訟準備資料などを翻訳する専門部隊で、修二は日本語で書かれてもチンプンカンプンの専門用語と修二は日々格闘していた。仕上げた英訳はエディターと呼ばれる法律用語に詳しいネイティブにチェックをしてもらい、その後担当弁護士の元に届くことになっている。法曹関係者は言葉にうるさい。てにをはの使い方から、言葉の選び方まで容赦なく赤入れで戻ってくる。座りっぱなしのせいで腰を悪くしたのもこの頃だ。

 全国からPDFで届く翻訳待ちを誰にどう振り分けるか。そのアレンジは、上司の浅野次第だった。区切ってくる締め切りに慈悲というものは一切なかったが、在籍した9年半は修二の専門性を磨く上で価値あるものとなった。


 修二が入社して半年後、産休から戻ってきた26歳がいた。堀込恵子である。子育て経験のある世代からは、”新米ママさん”といたわりを込めて呼ばれていたが、陰では誰もが、”今日の不思議ちゃんは…”とウワサした。

 極度の近視らしく、ほとんど机に突っ伏しているような格好で書類に向かっていた。そのまま船をこいでいることも多かったが、産休上がりとはいえ、さすがにそこは誰も突かなかった。毎日同じお握りを二つ食べると、わざわざ自分の椅子を持って窓際に行き、昼休みが終わるまでぼんやりと外を眺めていた。たまに、「札幌の実家から送ってきましたので」と、ジャガイモやトウモロコシを職場で配り歩いていた。ブランドバッグの端からトウモロコシの髭を覗かせるわけにいかない女子たちは、とりあえず笑顔で受け取ると、夕方近くになって社内イントラネットで押し付け合いを繰り広げていた。

 「…あの人さぁ、ヴィトンのカバン持ってるのに、ユニクロのフリースってヤバくない?」。そういう情報を入れてくる勢力もいたが、結婚も子育てもしたことのない修二にとって、やはり彼女は守られるべき存在だった。


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 ある5月の午後だった。修二はどうしようもない睡魔に襲われていた。ランチにカレーの食べ放題など行くべきではない。仕方なしに一階のコンビニにエナジードリンクを買いに立った。1階ボタンを押してエレベーターを閉じようとしているところに、たまたま堀込恵子も乗り込んできた。彼女は軽く会釈をすると改めて閉じるボタンを押し、壁に寄りかかって目を閉じた。他に乗っている者はいなかったが、何となく距離を取ると、修二はポケットから取り出した携帯電話に視線を落とした。

 バタン!という音に修二は顔を上げた。落ちたのは彼女が胸の前で抱えていたカバンだった。次に修二が状況を理解するより早く、彼女の体はSの字に揺らぐと、そのまま崩れ落ちようとした。慌てて後ろから抱きかかえた修二は間抜けな質問をした。「え、ちょっと!大丈夫ですか?」。大丈夫じゃないから失神したわけで、彼女は修二に全体重を預けたまま白目をむいて口元をヒクヒクさせていた。

 1階のドアが開き、乗り込もうとしたOLたちが抱き合う二人を見てギャッと声を上げた。パニックに陥った修二は閉じるボタンを連打すると、なぜか元の23階を押した。フロアに到着するとエレベーターホールにそのまま彼女を引きずり出し、とりあえず廊下に横たえた。そして猛然と走り出すと、上司・浅野香保里のデスクに駆け込んだ。「大変です!堀込さんが倒れました!」。

 その声を聞いた周りは顔を見合わすと慌てて廊下へ走り出したが、浅野は静かにメガネを外すと、「またですかぁ?」と伸びた感想を述べた。エレベーターホールに戻るとすでに人だかりができており、救急を呼び出している人もいた。一番最後に来た浅野は、人だかりの後ろのほうから「堀込さん、だいじょ~ぶ~?」と修二と同じ間抜けな質問をした。


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 後日、堀込恵子の第2子妊娠が明らかになった。ところが、それをめぐって予想外の社内対立が勃発した。「堀込さんってさぁ、この前産休から戻ってきたばかりでしょ?」。ポイントはそれだけではない。「しかもさぁ、あの人入社して一年も経たずに産休に入っちゃったでしょ?。それでやっと戻ってきたと思ったらまた産休?。完全に会社舐めてるよね?」。悪意はないだろうが、結果的に彼女は働く多くの女性社員を敵に回した。

 実際には、寄れば堀込恵子のKY振りをささやき合う勢力と、「気持ちはわかるけど、まぁまぁ…」となだめて歩く男性陣たちの間で、まれにヒートアップが見られるだけだった。ただ、「男性が甘やかすからいけないんですよ」と浅野が公然と言うようになってからは、働く女性VSことなかれ主義の男性という構造になり始めた。アンチ派にしてみれば、「男はいつだって曖昧にして逃げる」と写り、他方も「とはいえ妊婦を責めるわけにはいかない」と矛先をかわす。修司にとってこの両陣営からの引き込みに巻き込まれることが苦痛でたまらなかった。結局声の大きいほうになびいてばかりいた修司は、次第に飲み会にも誘われなくなっていった。


 修二も含め、男性はマタニティーを完全には理解できない。妊娠だけでなく、生理休暇という言葉は見たことがあるものの、寝込むほどのものか、という程度である。だからこそ、分かってあげられない分、優しくできるゆとりを持つように心がけるべきだ。そこまでが仕事であり、家から一歩でも外に出る人間の義務なのだ。他人にはわからない苦労を抱える人がいる。誰にも言えない挑戦に挑み続ける人がいる。だが、言葉一つでいい、微笑み一つでいい。分かってあげられないことは、それで十分のだ。


 それを”甘やかしだ”と気炎を上げるほうがどうかしている。もちろん誰も口に出して言わなかったが、あくまで平等に扱おうとする浅野の言動を、”醜い嫉妬”と見た男性は多かっただろう。ところが修二の感想とは裏腹に、同じ土俵で働く女性の多くは、素直に祝福できない空気を共有していた。「こっちは結婚や出産も後回しにして頑張っているのに、いい加減にしてほしいよね!」。その発言に半笑いしたくなるのも中にはいたが、やはり女性特有の事情が多分に含まれていた。

 「堀込さんのダンナって公認会計士でしょ?。彼女が無理して稼ぐ理由なんてないじゃない。たしかにゆくゆくは国を支える納税者をひとり増やすんだからご立派なことかもしれないけど、なんでそうやって休んでいる彼女の給料をあたしたちが稼がなきゃいけないの?完全にふざけてるよね!」。社内サークルの打ち上げでは、修二と仲良しだった秘書課の女子も珍しく荒れた。

 会社の規定で、産休中も給与の7割は保証される。「同期のわたしから見ても、配属決定になるタイミングで”できちゃいました”はどうかと思いましたよ」。営業チームにいる同期も彼女に味方しなかった。


 入社してすぐに産休に入ることは有罪か。もちろん組織が社員の幸せに口をはさむ権利はない。ただ、OJTトレーニングを経てようやく戦力として期待し始めたタイミングでのそれは、あまりにも寄りかかり過ぎではないかという議論が出て当然である。

 さらに今回有罪確定に至らしめたのは、産休から復帰して1年も経たず、また産休に入ったことだ。「普通なら辞めますよね。復帰した後も時短勤務だったわけでしょ?ダンナに帽子もかぶせず毎晩せっせと励んでいるからこうなるのよ!」。同期が3年目に入るというのに、彼女はその三分の一も働いていない。それにダンナの収入が彼らの想像通りならば、会社は産休中の彼女に対して一体何を保証したというのか。同期の彼女らの酷評について、誰も止める者はいなかった。


 こうした殺伐とした空気にあって、当の堀込恵子はあっけらかんと過ごしていた。「しばらくご迷惑おかけしますので」。様々な議論を生んだ2度目の産休に入る前日、彼女はぽっこりしたおなかをさすりながら、何故かパリ土産のヌガーを配って歩いた。「夫が先日出張に行ってまして…」。こういうところがズレている。人によっては嫌味にしか写らないことまで気が回らないのだ。その日の帰り、彼女が配った菓子がそのままゴミ箱に捨てられているのを修二は目撃した。

 ところが彼女に向けられた様々な視線や酷評などどこ吹く風か、彼女は風船のようにゆったりと宙に浮かび、相変わらず昼休みは自分の椅子を窓辺に運び、飽きずに窓の外を眺めていた。まるで窓の外に何かを待っているようだったが、そこには春を待つやわらかい冬の日差し以外なかった。

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 香保里と恵子。二人のKはそれから数年後、対照的な人生を歩んだ。浅野香保里がクモ膜下出血で倒れたと知らせてくれたのは、秘書課に残った女子である。見舞った人の話によれば、重い障害で歩行もままならないという。あれほどクールでエネルギッシュな上司の身にこんなことが起きるなど、修二にとっても到底受け入れがたいニュースだった。ひたすら仕事と会社に人生をささげてきた浅野香保里は、混濁した意識の中で今何を思い出そうとしているのだろうか…。

 堀込恵子の名前は、たびたびネット記事や雑誌の中で見つけることがある。二人目を無事出産し、修二が退職する少し前に復職したが、結局すぐに退職した。産休中に立ち上げたネットショップ兼子育てブログがヒットし、現在は自然食や知育玩具のプロデュースのかたわら、幼児知育に関する本を出すなど、タダでは会えなさそうな人になって活躍している。


 …彼女はずっとお昼休憩の窓の外に、明確なビジョンを見ていたのだ。彼女にとって社員証が持つ重みや他人からの評価などどうでもいいことだった。サラリーマンが必死でしがみつくそうした安心に価値観を委ねることなく、エネルギーを注ぐべきことのみに集中していたのだ。

 最終出社の日、堀込恵子は自らあいさつに来た。「…作家になる夢をかなえるために出版社に移るって聞きました。自分だけのゴールの旗を見失わずに頑張ってくださいね」。その時、はじめて彼女の笑顔を見た気がする。


 …修二にとって、これが3回目の引っ越しとなった。次の昇級試験を捨ててまで移った出版業界は甘い世界ではなかった。良いものが売れる世界でもない。組織に失望し、フリーの身から受賞作品を狙いに行ったものの、気づけば配送センターとアパートを往復するだけの日々になっていた。

 「こだわりを持って幸せをつかんでください、か」。顔を覆った色紙を持ち上げる。色紙に貼り付けられた人々のほとんどは伏し目がちだったが、紺色のブラウスを着た彼女だけは、口角をあげて修二に微笑みかけていた。

(終わり)

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二人のK マジシャン・アスカジョー @tsubaki555

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