第31話 「ヒキが強いほどオチってしょーもなく見えるんです」
時間がゆっくりになる。三つの声が聞こえた。一樹くん。何やってんだよ。駄目。それぞれ違う言葉だったけれど、同じ意味だということは何となく分かった。古賀さん。雪子。それから黒川さん。何で二人がここに? それも一緒に、この個室に?
疑問に思うが、でも、それだけ。力の込めた手は、脳が下した信号は、消えない、変わらない、止まらない。
一樹くん。一樹くん。一樹くんと、古賀さんが僕の名前を呼んだ。でもおかしい。ゆっくりに感じているだけで、実際に流れているのは僕が頸動脈を切り裂くまでの一瞬だ。そんな時間あるはずがない。だから、僕の頭の中で響いてるだけなのかもしれない。僕が彼女の声をリピートしているだけかもしれない。名前を呼ばれたい。彼女のあの美しい声で、僕の名前を呼んでほしい。
同じものを目にしても、違う表情をするんだなあと、視界に映った三人を見て思う。古賀さんは泣き叫んで、雪子は怒っていて、黒川さんは驚いたように目と口を大きく開いていた。古賀さんはまあそうだろうとして、そうか、雪子は怒るのか。黒川さんは――驚くのか。
……うん?
なんだか、引っかかった――止まった時間で、続く意識で、違和感を覚えた。黒川さんは驚いているのは間違いないが、焦りとか、恐怖とか、様々な感情が入り混じっているように思えた。随分と表情が歪なのだ。特に口。驚いてぽかんと開いてしまった訳でも、叫ぼうとして広げてる訳でもない、明確な意思を感じない形――とでもいうのだろうか。
……どうして最後に、最後の最期に、古賀さんでも雪子でもなく、黒川さんのことがこんなに気になっているのだろう? もしかして僕が本当に気が有ったのは、古賀さんでも雪子でもなく黒川さんだったのかも――なんて。
なんて、万が一口にしたら空気が凍りつくような冗談を考えてしまったところで。
黒川さんの口が、より一層強く歪められた。ぐにゃあと曲がり――彼女の顔の位置が、がくんと下がる。右手を前に付きだし、遅れて左手も付きだし――その意味を考える前に、聞こえた。声。ヘンな、声。
「あやあぁ!」
時間が戻った。
「一樹くん、ダメ!」
古賀さんは泣きながら僕の名前を呼び。
「なんで勝手に死のうとしてるんだよ!」
雪子は怒声を上げながら僕に飛び掛かり。
「あああぁ危ないー!」
黒川さんは間の抜けた声を上げながら、その頭を僕のみぞおちに叩きつけた。
「――――!?」
それをもろに喰らった僕は、悲鳴すら上げることが出来なかった。
痛い。自殺にとらわれた無味乾燥とした人生の苦痛、そんなよく分からない実体のないものとは違う、シンプルで明確な苦痛。つまり痛い。痛い。痛い!
そして苦しい! 肺は広がっているのに、そこに酸素が入っていかない。口を広げ、舌を下げ、しかし喉の辺りでシャッターが降りてしまったかのように空気が詰まってしまう。「ひゅ――きゅ――かひゅ――」。聞いたことのない音が喉から聞こえる。
泣くのも怒るのも忘れて、二人の自殺志願者が呆然と僕を見下ろしていた。何が起こったのか理解できていない、訳ではないのだろう。しかし黒川さんが盛大に転んで僕に突っ込んでこの状況をぶっ壊したということに、気持ちが追いつかないのだ。
この状況で泣き続けられても怒り続けられてもどうしようもないので、それは有難かったが、しかし「苦痛にもがいている人を見たら介抱をする」という一般的な感覚は覚えておいて欲しかった。
「あっ、い、一樹くん、大丈夫!?」
押し倒すような体制で覆いかぶさっていた黒川さんが、やっと僕の胸から顔を上げた。「だ、だ、だ、大丈夫じゃないわよね! え、えっと、えっと! 背中、背中さする!?」
「ひゅ――ひゅ――く……黒、川さん……」
辛うじて、僕は言葉を絞り出す。
「う、うん! ご、ごめんね、今、起こすから……!」
「は……」
「は……なに? は、なに!?」
黒川さんの顔を指さす。手が、ぶるぶると震えている。
「鼻血……出てます……」
「え? 鼻血?」
僕が何を言っているか分からないとばかりに、ぼんやりと自分の顔に手を当てる。「……え?」。黒川さんの鼻血は、ちょっと垂れちゃったとかそれくらいじゃなく、鼻を中心に頬や目の下までが真っ赤に染まっていた。首を起こして僕の身体を見ると、ブレザーの胸の辺りに黒い染みが生まれている。
「えっ、血? 血だ……痛い! あ、凄い痛いわ! 痛い痛い痛い――!」
そして黒川さんは、テーブルに置いてあったナフキンを乱暴につかむと鼻に押し当て、ソファに倒れ込んでバタバタともがきだした。
もう、なんか、別の意味で取り返しがつかなくなっていた。
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