第30話 「穏やかな顔で」

「一樹くんは、どうする?」


「……死んで欲しくない」


「まだ言うの? そうじゃなくて、わたしを見殺しにするか、一緒にするか、その二択。もうそれしか選択肢はないよ」


「古賀さんは死んじゃ駄目だよ」


「……だからさあ」


 同じ言葉を繰り返すだけの僕に、いい加減彼女は苛立ちを隠さなくなった。


「そればっかじゃん、一樹くん! 死んで欲しくない、死んで欲しくないってさあ、それ、一樹くんが一番説得力がないよ! もう無駄だって言ってるじゃん! 死ぬしかないって言ってるじゃん! こんなことして平然と生きていられる訳ないじゃん! 苛々するなあ……もうそれ辞めてよ!」


「駄目だ。死んじゃだめだ」それでも僕は同じ言葉を繰り返した。


「……だからさあ」古賀さんはバリバリと、皮膚を破る勢いで頭を掻きむしる。


「……なにも僕は自殺が駄目って言ってる訳じゃないんだ」


「……はあ? どういうこと?」


 僕の言葉に、幾分か虚をつかれたようだ。半狂乱の状態から、幾分か彼女の素が窺えた。僕はすかさず、言葉を続ける。


「どんな人も、事故死とか殺されるくらいなら、自分で死んだ方がずっとマシだと思ってる。自分で覚悟して、整理して死ねる分、自殺の方がずっとマシだと思ってる。だから、自殺は駄目じゃない」


「じゃあなんでわたしはダメなの!?」


「……その顔じゃあ、駄目だ。そんな……辛そうで、悲しそうな顔じゃ、駄目だ」


 僕は古賀さんの顔に手を伸ばした。当然、彼女はそれを弾き返す。それでも構わず、もう一度手を伸ばす。彼女は脅すようにカッターを向ける。その手は震えている。


「死ぬってのは怖い事だ。ずっと死にたくても、なかなか踏み出せないくらい怖いものだ。でも古賀さんは、それが分かってない」


「分かってる! ずっと……わたしも踏み出せなかったから……!」


「うん、でも今は分かってない。何も考えず、絶望の勢いのまま死のうとしてる。駄目だ。死は逃げ道じゃないんだ」


「逃げ道じゃない? 嘘だね、じゃあ一樹くんはなんで死にたいのさ!」


「そりゃ現実から逃げたいからだよ」


「ほら!」


「そうだよ。だから、僕は死んでないじゃないか」


「……それは」


「おかしいだろ、そもそも。僕も、古賀さんも、悪い事なんてしてないんだ。なのに追いつめられて、絶望して、死にたいんだ。おかしいだろ。逃げるなんておかしいんだよ。逃げなきゃいけない道理なんて無いんだから」


「…………じゃあ、どういう時なら死んでいいんですか」


「笑いながら死ぬべきなんだ。死んだらマシになるなんて消極的な自殺じゃなくて、もっと、何かのために、マイナスをゼロに近づける為じゃなくてプラスにするために死ぬべきなんだ」


「……そんなの」


「最期が絶望じゃ駄目なんだ。希望を持って死ぬべきなんだ。昨日を消す為じゃなくて明日を願って死ぬべきなんだ。重みを背負って死ぬべきなんだ」


「そんなの、どういう時か分からないよ!」


「うん、今の古賀さんには分からないよ」


 そして僕は、ひっこめかけていた手を伸ばした。彼女のカッターに向けて手を伸ばした。「あっ……!」完全に油断していた古賀さんは、大した抵抗も出来ずにカッターを奪われてしまった。


「か、返して!」


「嫌だよ」


「返してよ!」


「返す訳ないでしょ」


「……なら――!」


 古賀さんはグラスを手に取った――僕はすかさずその手を弾いた。グラスはソファに落ち、もふっと音を立てた。


「グラスの破片で――とか、危ない事考えるなあ」


「……!!」


 唇を噛み、僕を睨む。僕は小さく笑ってそれを受け流した。


「古賀さん、見ててみな」


 そして僕はモニターの前に立つと――カッターの刃を絞って、小指の先ほどの短さにして。

 歯を食いしばって、それを手の甲に突き立てた。

 思ったより痛くはなかった。たぶんアドレナリンとかいうやつのおかげだろう。


「な――何してるの一樹くん!」


「なにって、今さっき古賀さんがしようとしてたことの、ずっとスケールを小さくしたのでしょ」


 刃を引き抜く。皮膚の内側をなぞられる違和感。あれ、血が出ないと思って傷を見ていると、ぷくっと風船が膨らむようにして血が盛り上がってきた。そしてそれは、すぐに僕の手を流れ、滴り、スニーカーに染みを作った。


「一樹くん……何をしてるの……」


 同じ言葉を反復するのは、今度は古賀さんの番だった。僕の血を呆然と見つめる古賀さんは、みるみる顔色を白くして、やがて震えだした。


「こういうことだよ、死ぬっていうのは。これよりもっとひどいんだよ。ほらね、古賀さんは何も考えてなかった」


「……何をしてるの…………」


「じゃあ――今度は、そっくりそのまま、見せてあげるよ」


 僕はカチ、カチ、カチ、カチ、歯を伸ばして四回音が鳴ったところでロックをかけた。あんまり長くしたら折れてしまうだろう。多分これくらい短い方が、上手くいく。ただの勘、だけれど。

 そしてそれを、首筋にあてがった。


「何をしてるの?」


「ねえ、古賀さん」


「何をしてるの!」


「俺、今どんな表情してる?」


 僕は笑った。笑って見せた。怖かった。でもそれはちゃんと生の重さを分かっているから。その上で僕は笑った。逃げる為じゃない。僕が死ぬためじゃない。死は目的じゃない。古賀さんを救う。古賀さんに死ぬことを教えてやる。君の命はこんなむごたらしくなるべきじゃないと見せつけてやる。死ぬ。死ぬ。死ぬ――。


 僕は、カッターを握る手に力を込め、そして――。

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