第16話 「じゃぶじゃぶ」
古賀さんは、階段を下りてすぐ傍のところにある水道で、ブレザーとスカートの線維に染みついてしまった緑色の色素と格闘していた。
生地が伸びたり痛まないように丁寧に指で擦っていて、なるほど、と僕は心の中で感心していた。僕だったら絶対に雑巾を洗うようにゴシゴシしている。彼女が特別気遣いができるのか、僕がガサツなだけなのか。おそらく後者だ。
「ちょっと待ってください、今、大分落ちてきたので!」
古賀さんはブレザーを脱いで、ブラウスの裾をめくっている。脱いだブレザーは丁寧に折りたたまれて、床に置かれたリュックサックの上に置いてある。こういうところも、やはり僕と違うところだ。
「でも……ここからがなかなか落ちなくて」
水道のシンクから顔を上げると、顔に飛んだしずくを拭う。
「軽くで大丈夫よ? どうせクリーニング出さなきゃいけないし、せっかくだから明日から夏服に変えちゃおうと思ってたから」
「はい」
頷いたものの、古賀さんは再度シンクの中に広げられたブレザーとスカートに向き直った。僕と黒川さんは自然と目を合わせ、肩をすくめた。
「僕、購買に行ってくるよ」
「うん、分かった。……どうして?」
「濡れた服、袋がなきゃ持って帰れないでしょ? 購買で買い物して、袋貰ってくるよ」
すると古賀さんは一秒ほど手を止めて、なるほど、と頷いた。
「お願いしてもいい?」
「もちろん。ついでに何か必要なものはある?」
「うーん……じゃあピクニック」
「……何味?」
「お任せで」
それが一番困るんだけれど。そう思いつつも、了解と僕は返事を返す。
「黒川さんは? 何かあります?」
「私は大丈夫……っていうか、私が行くよ、それくらい」
「や、大丈夫ですよ。先輩をパシるなんて、とても……」
「いやでも……」と黒川さんは食い下がろうとしたが、その場合の僕の心境を察してくれたのか、「じゃあお願いしようかしら」と遠慮がちに言った。もちろん、と僕は頷いた。
「買って来るものはありませんか?」
「特には……あっ、じゃあ、何かお菓子とか……」
「お菓子? ですか?」
「うん。お金は後で払うから、二人へのお礼で。チョイスは一樹くんに任せてもいい?」
「そんな、悪いですよ!」
古賀さんが申し訳なさそうに言葉を挟む。だけれど、僕も黒川さんの心境を察している。「分かりました」。僕の考えが伝わったのか、黒川さんは口元を緩める。じゃあ、と言い残して、僕は足早に購買部に向かった。
*
購買部。思えば、僕はここをほとんど利用したことがない。だって人が多いから。普段、というか昼休みは人でごった返している。
これに関して、僕はずっと疑問に感じていることがある。
一体全体、どうしてみんな、わざわざ人でごった返す購買を利用するのだろうか、ということだ。
昼食なんて、登校途中にコンビニで買えばいいだろう。電車通学の人も、駅にあるだろう。バスだって、学校の近くにあるコンビニに行けばいい話だろう。
コンビニに寄る時間がない人、朝買ったものを昼に食べるのに抵抗のある人が購買で昼食を買えばいいのだ。そしてそれは、購買の前に大行列を作る程の人数になるとは到底思えない。
……なんてことを考えながら、お釣りとレジ袋を受け取った。がさっ、袋の中から音が鳴る。スナック菓子の袋の音だ。
僕はこの音が嫌いだ。嫌に耳に障る、大げさな音。購買のおばちゃんに頭を下げて、なるべく音を鳴らさないように身体から離して廊下を歩いた。
古賀さんたちの元に戻ると、とりあえずひと段落ついたようで、ブレザーを広げて汚れの具合を確認している所だった。
「とりあえずこれくらいにはなりましたが……」
「うん、うん、ありがとう!」
ブレザーもスカートも、汚れはすっかり落ちていて、少なくとも僕からすれば緑はどこにもないように見える。それでも古賀さんはどこか納得いっていないようだったが。
「買ってきましたよ」
「あっ、一樹くん」僕に気が付いた黒川さんは、「一樹くんも、本当にありがとうね」とうやうやしく頭を下げた。
「いや、僕なんてほとんど何もしてないですよ」
「そんなことないわ。二人とも、ありがとうね」
頭を下げると、「それで」と黒川さんは言葉を続けた。ちら、と僕の手に下げられたレジ袋を見た。
「お金を払いたいんだけど……鞄、部室に置いてあって。ちょっと付いて来てもらっていいかしら?」
「もちろん、構いませんよ」
そして僕たちは、水を吸ったブレザーをレジ袋に入れて、黒川さんと並んで人気の少ない廊下を歩いた。文芸部は、間違って辿りつく事なんてまずないような場所にあった。部室棟の三階、つまり最上階の一番奥。そういえば辺境って言ってたっけ。そして他の部室と比べて明らかに小さい。不必要になった用具室のような部屋を部室にしている、ということは容易に想像がついた。
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