一章 ハロー・ラブリー

第1話 「やりたいの?」

 だから僕は恋をする。人並みの青春を夢に見る。彼女への恋慕で胸躍らせる。


 人を好きになれば何かが変わると思った。人を好きになれば死にたいという気持ちが晴れると考えた。


 そしてそんなことはありえないとも知っていた。恋をしてみよう、なんてのはただの気まぐれである。じゃあどうしてそんなことをしてみようと考えたのかというと、それはただ最期にちょっと変わったことをしてみようと思い至ったからである。


 最期、というのはもちろん僕の人生の最後である。僕は命を絶つ予定なのだ。小学校の道徳の授業の甲斐あって“自殺は悪いこと”“してはいけないこと”という価値観で漠然と生き続けてきたが、それももう流石に終わりにしようと考えている。

 だから最後に、人生の最期に、もうちょっとだけダメ元で努力をしてみようと、そういう訳だった。


 しかし最大の問題点として、僕には好きな人などいないのだった。そもそも僕は恋を知らない。物心つく前を除けば恋心を抱いたことがなかった。だから僕は彼女に決めた。古賀実こがみのり。席が隣だから、それ以上の理由はなかった。付き合うことができるのならば恋心は後からついてくるだろうと、完全に恋愛を舐めた態度だった。


 実際、それで僕が恋心を抱けるのか、なんてことはどうでもいいのである。故気迫が成功するのかというのもどうでもいい。だめでもともと、ただの気まぐれ、死ぬ前にちょっと変わったことをしてやろうと、そういうことなのだった。


 ただ、これは後から気が付いたのだけれど、彼女は僕のその“計画”において都合が良かった。


 古賀実は女子の中でも浮いている人物で友人がおらず、余計な邪魔が入らない。そしてなにより、彼女にはある噂があったのだ。だから僕からのどう考えても怪しい呼び出しにも、驚いたような素振りを見せつつも応じてくれたのだと思う。


一樹いつきくん、どうしたの?」


 古賀さんは黒髪のボブに手くしを通しながら、落下防止フェンスの隙間から野球部のランニングをぼんやりと眺めていた。苔むした床の、比較的マシな部分に大きなリュックサックを置いていた。スポーツマンのような洒落っ気の無いボックス型のバッグは、女の子が持つものとしては少々不釣り合いに思える。


 錆びついた扉の耳障りな音で僕がやって来たことに気が付くと、古賀さんは回れ右、フェンスに背中を預けた。頑丈なフェンスはその程度ではたわまず、わずかに軋む音を聞かせるだけだった。


 僕が彼女を呼び出したのは学校の屋上だ。この学校では今時珍しいことに屋上が解放されており、昼休みと放課後の六時まで自由に使用することができる。


 漫画や小説での青春スポットの代名詞である屋上、人で溢れ返ってもよさそうなものだが他に人影はない――外の景観なんてほとんど見えない程背の高い刑務所の檻のような堅牢なフェンス、貯水タンクによって生まれる影のせいで生まれた至る所にびっしりと張り付いた苔など、その実態は青春の一ページとしてはあまりにも不適切な環境なのである。


 そもそも屋上に立ち入れることを知らない人も多く、この屋上は学校屈指の人気ひとけがない場所だった。だから僕は、彼女を呼び出すのにここを選んだのだ。


「まあ、ちょっとね」


 古賀さんに声を掛けられて僕は今更になって恥ずかしさを感じ始めた。恋愛感情が分からないからといってラブリーに何も感じない訳じゃないのだ。

 表情に出てしまうそれを俯いて隠しながら、彼女の傍に寄る。


「古賀さんに、ちょっと、話があって」


「話?」


 古賀さんは僕の言葉を反復しながら、垂れ目がちな目をきょとんと大きく見開いた。


 僕が何をしに来たのかなんて――そりゃあ、一つしかないだろう。

 異性に人のいない所に呼び出されたのなら、それがいったいどんな用なのか気が付いてもよさそうなものだが……。とぼけているのか、はたまた本当に心当たりがないのか。

 まあ恋を知らない僕はあれこれ言える立場ではないのだけれど。


「それって、人がいるところだと言い辛いやつかな?」


「うん」


「……」


 古賀さんは目線を斜め上にやって、数秒。「もしかして」。風が吹いて、彼女の束ねた長い髪が揺れた。僕は前髪を手櫛で横に流した。


「一樹くんって、もしかして」


「……うん」


「わたしとやりたいの?」


「――――やりたい?」


 彼女の言葉が聞き取れなかった訳ではないが、思わず僕はそう聞き返してしまった。


 風が吹いていても、野球部の声や吹奏楽部の演奏が耳に届いても、彼女の声はハッキリと聞き取れる。通りの良い真のある声にはきはきとした滑舌、人に聞かせるための声をしているのだった。


 彼女の言う、やる、の意味が僕には分からなかった。一体全体、どんな漢字に変換するのかが分からなかったのだ。しかしそれも一瞬、もう理解できた。ヤる。感じではなくカタカナだ。


 もしかしたら最初から理解できていたのかもしれない。彼女から本当にその言葉が出たことに驚いて思考が固まってしまっただけかもしれなかった。


「とぼけなくてもいいよ、一樹くん」


 古賀さんはそう言うと口の端を吊り上げる。つまらなそうに頬杖を突きながら板書をしている普段の古賀さんからは想像もできないような蠱惑的な表情で、僕はどきりと思わず唾を飲んだ。


「噂になってるのは知ってるよ。わたしは、頼めばやらせてくれる女だって」


「……」


 そんなことないよ、とは言わなかった。言えなかった。だって、そんなこと、あるのだから。


 それは僕ですら耳にした事のある噂だった。友達のいない僕ですら耳にしたことがある噂である。それはつまり、公然の秘密と同義である。クラスメイトは当然皆知っていることなのだろう。


「……古賀さん、僕は」


「でも残念」そうじゃないと続けようとする僕の言葉を遮った。「その噂ね、あくまで噂なんだよ。誰とでもやるっていうのは流石に嘘」


「……」僕はやや間をおいてから、「その言い方だと人によってはやってもいい、みたいな風に聞こえるけど」と尋ねた。すると彼女はやはり蠱惑的に微笑んで、「どうだと思う?」と訊ね返す。


「どうだと思う、って……?」


「半分合ってて半分違うの」


「……半分って?」


「やってもいい人がいたの。それでやったの。わたし、処女じゃないんだよね」


 それがすっごい尾ひれがついてそうなっちゃったの。古賀さんは狼狽える僕に悪戯っぽくはにかんでから、身体をフェンスの方に向けて、僕がこの屋上にやって来た時のように校庭を見下ろした。


 つられて、そして彼女をから視線を逃がすようにして、僕も野球部の練習を見下ろす。ランニングはいつの間にか終わってキャッチボール。僕は一五メートルもボールを投げることができない。

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