episode 3

「ねえ、大丈夫?」

「だ、だいじょ、ぶ」


 木の椅子に寄り掛かったまま顔を上げられず、ウェネは呼吸を整えようと必死になっていた。フィカが背中をさすってくれても気持ち悪さがなかなか抜けない。


「あの列車、直角に落ちてなかったか……」

「そうね。そういう乗り物だったみたい」


 標的を追って乗り込んだ列車は、曲がったり落ちたり登ったりを信じられないほど不規則に繰り返す線路の上を、これまた信じられないくらい凄まじい勢いで走ったのだ。なんで乗客みんな、叫びながらもどこか楽しそうなんだ。疑問で仕方ない。そしてなんでフィカは平気なんだ。これも心底疑問で仕方ない。

 臓器が口から出てきそうで、ウェネは眼を閉じて息を止め、改めて深呼吸を試みようと瞼を開いた。


「あ」

「えっ!?」


 目の前を駆け去ったものに、ウェネとフィカが同時に声をあげた。

 するとそれに続いて二人の左右を、小さな無数の黒いが走り過ぎていく。

 フィカがヴァイオリンを爪弾くと、すぐそばの一つが転んで、その後ろのがそれに躓いた。だが走るはどんどん増えていく。フィカが舌打ちしてウェネをさすって屈んでいた姿勢から立ち上がり、素早くヴァイオリンを肩に当てた。


「死神の使役魔だわ……!」

「使役魔?!」

高格の死神爺婆様達は魂を迎えるのにわざわざ自分で来たりなんかしない、使役魔を使うのよ。でもなんでこんなにっ」

「まさか!」


 ——標的は!?


 視線を三百六十度、ざっと回して二人の姿を探す。それはすぐに捉えられた。しかし——


「まずいフィカ! 目標は標的だ!」


 無数の使役魔が一目散に向かうのは標的と男性が歩いていく方向だった。ウェネは杖を宙で一回しし、使役魔達の前に小さな電雷を起こす。だが次から次へと集まってくる使役魔の数が多すぎる。


「止めるぞ、フィカ! ここで標的の魂を持ってかれるわけにはいかないんだよ!」


 電雷を落とし続けながらウェネは叫んだ。


「何言ってるのよ! 死神はその人の『死期』を変えることはできないのよ? いくら試験だからって……」

「わかってる! でもいいのかよ!? あんなに楽しそうだったのに想いも伝えずに終わらして!!」


 ウェネの返事に遮られて、フィカは言葉に詰まった。今日一日見続けた標的の女性の様々な表情が脳裏に蘇る。恥ずかしげな瞳。ちょっと躊躇いがちに話しかける様子。男性の言葉に赤くなって溢れる笑顔。


 ——いいわけがない。


「罰は一緒に受けてもらうわ。ウェネ、私の耳、ちょっとの間だけ聞こえないようにして」

「え?」

「いいから!」


 細く空気を吸って弓をヴァイオリンに当てる。人間にフィカの奏でる音は聞こえない。人外だけに響く音色であらゆる音のレトリックを駆使する。

 最も低いG線を基軸に減音程、増音程の不協和音を繰り返す。そこから半音階パッスス・ドゥリウスクルスの不穏な響きで使役魔の動きを恐怖で固まらせ、音階上行に変えて奴らを宙に浮かせる。

 視界の端でウェネが方陣を描き、呪文を唱えているのが見えた。いくら魔法使いといえど、死神に魔法をかけるのは難しい。

 今度は弓を返して勢いよく下の音まで十三度の跳躍下行。すると、悪魔達は地面に叩きつけられた。まだフィカの耳に聴覚が残っている。時折不規則に休符静止を挟んでは相手の動きを止めながら、さらに二度進行を開始音をずらして二回。地上に降りた使役魔が恐れるの音形。


 ——今だわ。


 自分が弾いているはずの半音進行の連続が聞こえなくなり、耳が全ての感覚を失ったのを確かめ、フィカは弓を勢いよく滑らせた——短音階からの長三和音ピカルディー

 そしてさらに、音の波が最も美しい比率による純正な和音天使の響き


 攻撃を仕掛けるフィカとウェネにも向かってきていた使役魔達が、一瞬にして空間から吹っ飛んだ。


「フィカ!」


 使役魔達が消えたのを確かめ、ウェネは術を解いてフィカに駆け寄った。今の和音はフィカのヴァイオリンとフィカの技量でないとなかなか出せない。しかし「天使の響き」は死神であるフィカが聞けば、フィカ自身にも害を及ぼす可能性があるのだ。


「っ……平気……」


 よろめいたところをウェネに抱き留められ、フィカの肩が上下する。灰色の睫毛が小刻みに震えた。


「待ってろ、標的の方は僕が……」


 言いかけてウェネは踏み切って走り出そうとした。しかしその言葉の終わりが、轟音に遮られた。


 激しい突風が巻き起こり、二人のいる道を突き抜けたのだ。フィカの長い髪が風と同じ方向へ跳ね上がる。フィカは頭を押さえ、もう片方の手でヴァイオリンを胸に押し当てた。ウェネもローブが風に吹かれて引っ張られ、姿勢を保つのにやっとだ。まばらに立っている木々の葉は大仰に揺れ、太い枝や幹さえもがしなる。今この瞬間に折れてもおかしくない。


「標的は!?」


 なんとか顔を上げて標的が向かったはずの方向を見ると、二人の姿はない。あるのは大きな車輪の形の乗り物。文献で見た、確か——観覧車。


 いくつもの籠を円の周に下げた車輪。今はすさまじい風に回転こそ止まっているが、どの籠も左右に揺れている。籠と車輪を繋いでいる金具がガシャガシャと鳴るのが地上の自分たちの耳にまで聞こえた。

 ウェネは連なる色とりどりの籠を遠隔視しながら必死で標的を探す。見つけたのは早かったが——二人が乗っていたのは、地面からかなり高い位置まで昇ってしまった、黄色の籠。


「あっあそこ、あの中に!?」


 ウェネと同時に標的を見つけたフィカが叫ぶ。しかしその時、またも後方から観覧車の方向目掛けて死神の使役魔が二人の背後、遠くの方から駆け集まって来るのが見えた。


「くそっ、まだ諦めてなかったのか!」


 飛び出そうとウェネは左手に杖を構えた。攻撃しやすいようフィカも宙に浮かび上がり、標的の乗る籠との距離を測ろうと上を見上げる。そして——視線の先に、何かが風に舞い上がるのを見た。


 ——手紙!


「フィカ!?」


 自分の肩の高さに浮かんでいたフィカが突然向きを変えて急上昇していく。突風が灰色の長衣を煽り、真っ直ぐ飛ぼうとするフィカの身体を宙で弄んだ。白く細い腕が抵抗に抗って伸ばす先に、薄黄色の紙がはためいている。もがくように手のひらを開いたフィカの腕から、ヴァイオリンの弓が滑り落ちた。


「フィカ!!」


 迫ってくる使役魔に背を向け、ウェネは箒を呼び出しながら地面を蹴り、飛び上がった。

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