7.懐かしい夢と
「あらルツィー様。お目覚めですか?」
ぼんやりと視界に映る四十近い女性の顔。もうずっと昔に会ったきりだからうろ覚えだけれど、その顔は確か――
「……夢、ね」
「ルツィー様?」
「いえ、なんでもないわ。……おはよう、マヌエラ」
「おはようございます、ルツィー様」
ルーツィンデが起き上がろうとすれば、マヌエラはすぐに体を起こすのを手伝ってくれた。さりげなく周囲を見渡す。
懐かしい部屋だった。三百年以上前、ルーツィンデが十六歳の誕生日を迎えるまでずっと暮らしていた場所。
今は亡き祖国――シュナート王国の王城である。
十六歳になるまでずっと、ルーツィンデはここで王女として生きていた。
ぐっと唇を噛み締める。懐かしさや悲しみがどっと込み上げてきて、胸がきゅうっと苦しくなった。目の奥がカッと熱くなり、視界がじんわりと滲む。
「ルツィー様? 気分でも悪いのですか?」
動こうとしなかったからだろうか、マヌエラがおずおずと尋ねてきた。
彼女はルーツィンデの乳母だ。ときには厳しく、ときには優しく育ててくれた、母親代わりとも言える存在。大切な人。
……その彼女も、もういない。
あの日、ルーツィンデを残して天へと旅立った。
「……大丈夫よ。ちょっとまだ寝ぼけていただけ。ね、マヌエラ、今日はなんの予定があったかしら?」
「本日はダンスの練習のあと、社交界デビューの際の挨拶の練習ですよ。ルツィー様も、もう間もなく成人を迎えられますからね」
「……そうね」
十六歳の成人を迎える少し前。
と、いうことは――
そっと目を伏せると、ルーツィンデは豪奢なベッドからおりた。マヌエラやほかの侍女の手によって身だしなみが整えられていく。
(もうずっと一人でやってるから……なんだか新鮮ね)
ふっと笑う。昔はこれが当然だったのに、今ではなんとなくしっくりこない。
そのことに、過ぎ去った月日の長さを実感した。
王女らしいドレスに身を包み、当時はまだ染めていなかった珊瑚色の髪も丁寧に結われ、化粧も軽く
「さ、終わりましたよ」
「ありがと」
「これがわたくしたちの仕事ですから」
にこりと満足げに微笑む侍女たち。
幸せな光景だった。このあとに起こる出来事など一切感じさせない、穏やかで満ち足りた日々。
こんな日常が続くと、当時のルーツィンデはずっと思っていた。一切疑うことなく信じ続けていた。
それなのに。
どうしてあんなことに――
ルーツィンデは軽く首を横に振って思考を切り替える。これ以上考えてはダメだ。抑え込んでいた感情が溢れてきてしまう。
顔を出しかけた感情をぐっと胸の奥底に押しやると、ルーツィンデはふわりと笑った。
「行きましょうか」
どこへ、とは口にしなかった。それだけで通じていた。
マヌエラが一つ頷いたのを確認すると、王女らしい動きを意識して歩き、部屋を出た。懐かしい、三百年以上前に歩いたきりの廊下が視界に飛び込んでくる。
扉の両端には待機していた専属の騎士が二人いた。一人は五十くらいの男性で、もう一人は――
「ルツィー様、おはようございます」
彼はにこりと笑うとその場に跪いて挨拶をしてきた。
「……ええ、おはよう」
彼の名前はアルド。マヌエラの息子、つまりルーツィンデの乳兄弟で、このときは確か十九歳だった気がする。
こちらを見上げてくるアルドの姿に、ふとアレクシスの姿が重なる。
(ああ、そうだわ……彼に似ていたんだわ)
もう三百年以上前で、アルドたちの見た目はぼんやりとしか思い出せなくなっている。夢の中だからだろう、今だって滲んでいるようにしか見えない。
けれどそれでも感じるくらい、アルドとアレクシスは雰囲気が似通っていた。
金色の髪に碧の瞳という見た目も、同じ。
そう思った途端、アルドの姿が明瞭になる。
アレクシスと瓜二つの姿。
でも、それでも、彼のことはアルドだと思った。それくらいまったく違和感がない。
「ルツィー様、どうかなさったのですか?」
ぼんやりとしていたからか、アルドは立ち上がり、両手でそっとルーツィンデの頬を挟んできた。
視線が絡まり合う。
碧の瞳に囚われ、抜け出せなくなる。
「アルド……」
そう呟いた途端、彼の姿が急速に薄くなっていった。
いや彼だけではない、マヌエラも、着ていたはずのドレスも、踏みしめていたはずの廊下も。すべてが消え去っていく。
夢の終わりだ。
それでも、ルーツィンデはそっと手を伸ばした。アルドがいたはずの場所をトン、と押す。
まるで彼を拒絶するかのように。
「ねえ、アルド、あなたは――」
カクリと首が下がり、ルーツィンデはハッと目を覚ます。
そこはいつもの小屋だった。ソファーに座ったまま眠っていたらしく、体のあちこちが悲鳴を上げている。
とりあえず立ち上がろうとして、太ももになにかが乗っていることに気がついた。そっと視線を下げれば、アレクシスが気持ちよさそうに眠っていて。
(あ、確か――)
彼が疲れた様子だったから膝枕をしてあげたのだ。おそらくそのままルーツィンデも眠ってしまったのだろう。
そっとアレクシスの頭を撫でた。柔らかな髪が気持ちいい。ずっと撫でていたくなる。
ふと先ほど見た夢を思い出した。マヌエラやアルドが出てきた夢。かつて、幸せだった日々の。
きゅっと唇を噛み締めた。
「アルド――」
彼のことは忘れようとしていた。事実忘れかけていた。
でも、どうしても忘れられなくて。
ズキズキと胸が痛んで、苦しい。呼吸が上手くできなくなる。
『落ち着きなさい、ルーツィンデ。ほら、ゆっくりと息を吸って』
師匠の声がした。三百年以上前に亡くなった師匠の、低くかすれた声が。
昔はよくこんな状態になって、そのたびに師匠に優しく背中を擦られていたから、おそらくそのときのものだろう。
師匠の言葉に従い、ゆっくりと深く息を吸って、吐く。しばらくそれを繰り返せば少しして気持ちが落ち着いてきた。
ふう、と息をつき、――そういえば周囲がやけに明るいことに気がついた。
魔道具によって明るく照らされた室内。閉じられたカーテンの隙間からは柔らかな日差しが降り注いでいる。
いつの間にか夜が明けていたようだ。
(……って、これ大変なことになってない?)
今まさに穏やかに眠りこけているアレクシスは、いつも数時間滞在したあと、日づけの変わる前には帰っていた。
それなのに、今日はここで一晩を過ごしてしまっていて。
もし彼がここに来ていることを誰にも伝えていなければ、今ごろ第一王子が行方不明ということで、王城は大変なことになっているのではないだろうか?
(ちょっ、これ私、下手したら誘拐犯にならない!?)
それだけは嫌だ!
慌てて太ももの上で眠りこけている彼を揺さぶる。
「起きなさいよ!」
しかし頭がガクガクと揺れるだけで、彼はなかなか目を覚まさない。
「ねえ、ちょっと! ……ああ、もう、アレクシスっ!」
もうひたすら揺すりながら叫んでいると、「ん……?」とかすかな声がした。
思わず手を止めれば、ゆっくりとアレクシスの瞼が開かれ、碧の瞳が顔を覗かせる。しかしまだ覚醒しきっていないらしく、その視線はどこかぼんやりとしていた。
けれど起きたは起きたのだ。ルーツィンデはほっと息をつく。
「やっと起きたのね。ほら、さっさとどきなさいよ。もう朝なのよ」
そう思い、彼の額を軽く叩こうと手を伸ばしたときだった。
アレクシスが手首を掴んだかと思うと、やけに俊敏な動きで体を起こす。
そしてそのままぎゅっと抱きしめられた。
――なにが起こったのかわからなかった。いや抱きしめられたのだとわかる。わかるけど、それを認識したくなくて。
服越しに感じられる体温。かすかな吐息が首をくすぐり、心臓がどきどきと早鐘のように鳴り響く。全身をぐるぐると血が勢いよく巡る。
「やっと、私は――」
かすれた声が耳朶を打った。男にしては少し高めのそれは、寝起きだからか妙な色気をまとっていて。
ゾクリとなにかが背筋を伝う。それは恐怖ではなく、むしろ甘やかな――
ダメだ、と思った。これ以上は絶対にダメだ。戻れなくなる。
「っ、離しなさいよ」
拘束から抜け出そうとなんとかもがく。しかし離れないどころか、アレクシスは余計力を強めてきて。
「あー、もうっ!」
魔法を使って、近くにあった本で彼の頭を勢いよく殴る。
ゴン! と鈍い音が響いた。
(あ……やりすぎたかしら?)
しかしその甲斐あってか、アレクシスが腕を離したかと思うと頭を押さえてうずくまった。
この隙にルーツィンデはそそくさと離れ、ほっと息をつく。よかった、なんとかなった。
やがて痛みが落ち着いたのか、アレクシスが涙目のままこちらを見上げてきた。
「魔女様? いきなりなにを……」
「朝よ」
そう言って窓を示せば、彼はサッと青ざめた。先ほどまでと様子を一変させ、ガバッと勢いよく立ち上がる。
「魔女様、失礼いたします。起こしてくださってありがとうございました」
そうして一礼したかと思うと早歩きで玄関まで向かい、そのまま出ていった。
部屋に静けさが戻ってくる。ルーツィンデはふっと力を抜くとソファーに腰掛けた。
……おそらく彼の様子からして、抱きしめてきたことは覚えていないのだろう。もし覚えていたのなら絶対に謝罪をしてくるはずだ。
だけど、それでも。
ルーツィンデはあのときのことを忘れられなくて。
「ああ、もう……」
手で顔を覆う。
頬がやけに熱っぽかった。
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