6.刺激に満ちた日々

 ある日の夜。

 食器を片づけながら、そろそろ時間だ、とルーツィンデは思った。

 アレクシスがもうすぐやって来るはず。そう思うとどうしてか落ち着かない気分になってきて。


(なんでかしら……?)


 静かに首を傾げるけれど、理由はさっぱり見当もつかなかった。

 とりあえず食器類を片づけ終えてもアレクシスが来なかったため、小屋の隅にあるソファーへと向かう。そばにテーブルに置かれていた読みかけの本を手にして開いたものの。


「あー……集中できない」


 結局内容が頭に入ってこず、ぼーっと天井を見上げた。

 以前まではこんなことなかったのに。アレクシスがやって来るようになってから、どうしてか感情がよく波打つようになった。

 これは……いいことなのだろうか?


 そう思ったときだった。


 小屋の扉が控えめにノックされる。彼が来たのだ。

 はやる気持ちを抑え、ゆっくりと玄関へと向かう。そこで一回深呼吸をしてから扉を開いた。

 予想通り、そこにはアレクシスが静かにたたずんでいて。


「こんばんは、魔女様」

「……こんばんは」


 毎晩交わしている挨拶を終えると、ルーツィンデは小屋の中に入るよう彼を促す。

 アレクシスは静かに一礼をすると小屋の中に入ってきた。「こちら手土産です」と、いつものように籠を渡される。


 それを受け取り、ルーツィンデはすぐさま紅茶とチェス盤の用意を始めた。彼がチェスの道具を持ってきて以来ずっと、まずはチェスをやるというのがいつの間にか恒例になっていたのだ。

 魔法で一気に駒を並べながら椅子に座る。そのあとすぐにアレクシスが対面に腰掛けた。


 少しして紅茶と、今日の手土産であるパウンドケーキがふわふわと飛んでくる。まずは一口紅茶をすすると、「じゃあ行くわね」と口にしてポーンの駒をひとつ、前に進めた。


 しばらくはテンポよく進んでいく。もうお互いが最初どう駒を動かすのかなんて知り尽くしていた。

 そして。

 昨夜と同じように進んでいた盤面だったが、ルーツィンデはあえて昨夜使わなかった手を打つ。

 途端、ナイトの駒を動かそうとしていたアレクシスの手が止まった。そのままじっと考え込む。


 その間にルーツィンデはパウンドケーキを口にした。口の中にふわりと広がるほどよい甘さ。食感もなめらかで、胸が幸福感で満たされる。


(ほんっとう美味しいわよね……。王子が作っているなんて信じられないわ)


 そんなことを思いながら思考にふけるアレクシスを見やる。彼は真剣な眼差しで白と黒の盤面を見つめていた。

 少しして彼が動き出す。ナイトではなくルークを前に移動させた。

 そうやってチェスの試合を進めていき。


 かなり時間も経ったころ、「チェックメイト」という言葉がアレクシスの口から発せられた。あと一手で白のキングが取られるけれど、回避する術はなくて。


「あー、もうっ! また負けたわ!」


 ルーツィンデが叫べばくすりとアレクシスが笑う。


「魔女様はそれこそ久しぶりなのでしょう? 仕方のないことです」

「そうだけど……」


 ムッと頬を膨らませる。

 確かにそうだが、彼がチェスを持ってきてから一週間は経っている。七回以上チェスの試合をしているのだ。そろそろ感覚が戻ってきているはず、である。

 それなのに負けてしまうのが悔しくて。


「っ、明日は絶対に勝つわよ!」

「はい、楽しみにしています」


 アレクシスは余裕たっぷりに微笑む。絶対に勝てると確信しているのかもしれない。そのことに若干イラッとする。


 明日こそは絶対に勝ってやる、と決意を新たにしつつ、ルーツィンデは魔法を使ってチェス盤を片づけていく。その間に紅茶を口に含み、残っていたパウンドケーキもすべて口に放り込んだ。ほんのりとした甘さに頬を緩ませながら、何気ない世間話を切り出そうとして――

 ふと、気づく。


「……ちょっとあなた、くまができているわよ」


 アレクシスの目の下にはうっすらと隈ができていた。おそらく睡眠不足なのだろう。

 指摘された本人はまるでなんてことないように、にこりといつもの笑みを浮かべた。


「別に大丈夫ですよ」


 そう言うけれど、全然そんなふうには見えない。意識してじっくりと観察すれば顔色は若干悪いし、どこかはかなげな雰囲気を漂わせている気がする。

 ルーツィンデは立ち上がると彼のそばにまで行き、ぐいっとその手を引っ張って立ち上がらせた。

 目を見開いてこちらを見下ろしてくるアレクシス。


「こっちに来なさい」


 そのまま強引に彼を連れてソファーへと向かった。目をぱちくりさせている彼をそこに座らせると、自分もその隣に腰掛ける。

 そしてぽんぽんと自らの太ももを叩いた。


「ほら、頭乗っけなさいよ」

「……いやいや待ってください。自分がなにをしようとしているのかわかってます?」

「え、膝枕でしょ? なにか問題でも?」


 膝枕は昔、魔女になる前によくしてもらっていた。だから別に問題ないと思うのだけれど。


(それともこの三百年の間に意味が変わったのかしら?)


 そう思っていれば、アレクシスは盛大なため息をついた。思わずムッと顔を顰める。


「なによ? そんなに嫌ならさせないわよ?」

「…………わかりました」


 ふう、とアレクシスは息をつくと、「では失礼いたします」と言ってルーツィンデの太ももの上に頭を乗せてきた。


 ギシ、とソファーがきしむ。

 太ももにかかる重みに、触れる熱。

 そのことに、どうしてだかはわからないけれどそわそわと落ち着かなくて。


 自分ですると言っておいてなんだが、やっぱりどいてもらいたくなった。


「ねえ、ちょっと……って」


 ルーツィンデが下を向けば、アレクシスはすでに眠ってしまっていた。それだけ疲れていたのだろう。穏やかな寝顔を浮かべていて、起こしてしまうのが申し訳なくなる。


(まあ……今日は寝かせておいてあげましょ)


 そう思うとルーツィンデはそっと彼の頭を撫でる。

 アレクシスの金髪はさらさらで、手触りがよく、するりと指の隙間からこぼれ落ちた。さすが王族。手入れがきちんとされている。もしかしたらルーツィンデの髪よりも綺麗かもしれない。


(そういえば、彼のこと、どこかで見たことがあるような気がするのよね……)


 どこでかはわからない。だけど彼がルーツィンデの小屋を訪れるより前に、彼のことを見た気がする。

 思い出そうとすると、ズキリと頭が痛んだ。

 まるで思い出すなとでも言うかのように。


(……やめましょ)


 ふう、と息をつくと、ルーツィンデはソファーにもたれかかった。動けないため、その場でぼんやりと虚空を見つめる。


 脳裡にちかちかと瞬くのは、アレクシスが来てからの日々。

 それまでの静かで孤独な日々とは一転し、彼と過ごす時間は刺激に満ちていた。楽しかった。

 こんな日々がずっと続けばいいのにと願ってしまうほど。


 ――それをもたらしてくれたアレクシスは、クレメンティア王国の第一王子なのに。


(でも、その点を除けばいい人なのよね……)


 一応礼儀正しいし、いつも手土産を持ってきてくれる。たまに予想外の情報を与えられて驚くけれど、それも今までの生活では決してなかったことだから、新鮮で、楽しくて。


 弟子にするつもりは相変わらずない。

 けどずっと隣にいたいと望むほどには心を許していた。


「……まあ、少しだけだけど」


 小さく呟いた声は、静かな小屋の中でやけに大きく響いた。

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