「星火燎原」 - 環

 ふと、死にたいと思った。なんとやらは吉日ということで、大学に向かうためにリュックから出しかけた交通系カードを引っ込めて、改札前からホームへ逆戻りしていく。

 通勤ラッシュで乗客の多い時間帯だったから、だるそうな顔をされたサラリーマンに迷惑そうな顔をされたけれど気にしない。だってもう、何時間後にはわたしは死体になっているのだから、あのおじさんが恨みをぶつける相手もこの世からいなくなるのだ。ふふ、とちょっとだけ口の中から笑いが零れて、けれどすぐに真顔に戻った。


 ぶつかったサラリーマンが父親と同じような髪形だったから。

 もしこのまま自殺を遂行してしまったなら、家族はわたしの生きづらさを思って泣いてくれるのだろうか。


 真っ白なTシャツにシミを落としたように、ちょっとだけ後悔の念が胸に広がる。

 けれどもう、どこにも戻りたくないなと思ったあの時のじぶんを捨てられないのだ。そんなへんなプライドと自己愛ばかりがわたしを電車に引き寄せた。


 *


 地元以外の土地のことなどなんにも知らないから、適当に電車を乗り換えて適当に海へ行った。

 大嘘、きちんと携帯電話でちゃっかり「無人駅 海」なんて検索して、手持ちの定期と所持金で行けそうな駅を選んで来た。つまりは死ぬ気などなかったのである。こういうところが嫌なんだよなあ、と電車を降りてすぐの自動販売機で買ったココアで手を温めながら、誰もいないホームなのをいいことに自嘲する。なににチャレンジするにしたって(こんな自殺のような趣味が悪いものでも!)中途半端で知らないものを怖がってしまうあたりが、じぶんが所詮箱入り娘として育てられてきたことを自覚させる。

 わたしの人生、これからもずっとこんなものばかりなのかもしれない。

 今度はこらえようもなく視界がにじんだ。


「おねーさん、ひとりなの?」

 びくりと肩を震わせる。着ていたシャツの袖口を伸ばして目尻を拭い、顔を取り繕いながら声のほうを見ると、そこにはランドセルを背負った少年がいた。黒くてそこそこ使い込まれた、なんの変哲もない鞄は、とっくに小学校を卒業した弟を思い出させる。

 あの子の鞄は、確か青だった。

「おねーさん」

 聞こえないと思ったのか、もう一度少年が呼び掛けてくる。慌てて笑みを張り付ける。

「聞こえてるよ、ごめんね」

「うん。ひとりなの?」

「ひとりだよ」

「どうしてこんなところにいるの?」

 ははは──と目をそらす。まさかこんな純朴そうな子に自殺しようと思ってこの駅に来ました、とは言えない。まして、本当はさらさら自殺する気なんてなかった、なんてことは。

「うーん、乗り過ごしちゃって」

「え~噓だ」

 子供の直感はなかなかに鋭い。ますます泳いでいく目に、ぐるぐる回る頭に、ため息をつく。さすがに本当のことは言えないけれど、このままこの子に嘘をつき続けるのも難しいだろう。

「……なんとなく来たの」

「なんとなく? へんなの~」

「……そうだね、変だね。でもなんか、学校行きたくなくなっちゃって」

「ああ~あるよねそういう日、俺もある」

 変声期前のちょっと甲高い少年の声でされる肯定は、妙にわたしを苛つかせた。今にして思えばそれはストレスからくる視野狭窄で、彼とわたしの境遇にはなにひとつ関係もなければ弊害もなかったと俯瞰して受け取れるはずのものだったけれど、そのときのわたしの火と化した心には油を注ぐような共感の言葉だったのである。

「へ~? 一丁前だね。どうせクラスの子と喧嘩したとかでしょ」

「そうはいうけどおねーさん、結構タイヘンだよ? こんな田舎だからクラスなんて二個しかないしさあ、ひとりと喧嘩したら俺にもあっちにも味方がついて、最初の喧嘩よりもっと大きくなるんだ。そうしたら先生にバレてみんなが仲良くしなさいって怒られる羽目になるし、みんなに俺らが責められるし、意味わかんないよな。学校でうまくやっていくのも一苦労だよ」


 やれやれと顔をしかめて首を振る小学生を見て、そうだった、と過去を振り返る。

 そういえばそんな騒ぎ、わたしのころにもあった。クラスの女子がリーダー格の子ふたりを先頭に二分されてしまい、昼休みにどちらにも属さない同級生を巻き込んで遊ぶ場所争いをしたのである。 結局その喧嘩も、彼が言うように先生の介入が入って話も聞かずに謝罪させられ、最初からなかったような、表向き仲の良いクラスのような雰囲気にさせられたのだった。

 ほんとうに馬鹿らしくて子供っぽい闘争だけれど、あの頃はそんな小さな世界がわたしのすべてだった。

 テレビ番組の芸能人や周りの大人はすぐ今を耐えればもっと広いところへ行けるだなんて謳うけれど、こんなふうに大人になってさえくじけてしまうくらい、わたしはずっと狭い世界で生きているのかもしれない。成長するにつれて行動範囲も交友関係も広くしてきたつもりではいたけれど、塵も積もればなんとやら、ひとはどんどん積もっていく過去や言葉に縛られて、簡単には今いる場所から変わらないし出られないのかもしれない。

 ぎゅうと瞳をつむる。目の前にいる彼と同じくらいのころのわたしが、部屋の隅で泣いているのが見える。

「でもさあ、」

 真っ黒で、暖かくて、でも物悲しい暗闇で聞く見知らぬ少年の声は不思議と温かく聞こえた。

「しょうがないんだよな。クラスの連中嫌いじゃないしさ。教室ン中は狭いけど、隣の女子は鉛筆回すなってうるせーけど、俺は学校楽しいよ。喧嘩も楽しい」


 そんなことあるもんか。わたしはつむった瞼に力を込める。どうせわたしの気持ちなど誰も知らない。喧嘩が楽しいことなんて、あるわけがない。

「時々ふざけすぎて先生めっちゃ怒らせちゃってみんなで謝りに行くんだけど。面倒だな~って言いながらみんな内心ひやひやしてるのわかってるから、緊張はしない」

 最低じゃないか。でもそういうこと、わたしのときにもあったかもしれない。

 狭い世界には狭いなりに共有できるルールや辛さ、楽しさがある気は、する。

「みんなで運動会の練習とかするときも、練習とかで足引っ張るやつとか絶対出てくるけど、競技の時はそんなの忘れて応援しちゃうんだ。腹が立つけど、勝ったらうれしいし」

 それまで部屋の隅で泣いていたわたしが顔を上げる。

 なにかが出来ないことを、責めて仲間はずれにしないのか。だけれどそういえば、そうあれは確かマラソン大会で────。

「おねーさんはどう? 学校、楽しい?」

 唐突に呼び掛けられて渋々瞼を上げる。そこには変わらずわたしに視線を向ける少年がいた。思ったよりも空は明るい。

 どこか遠くで、知っているような知らないような、そんな曖昧なメロディーの電子音が聞こえる。

「……え、あ……?」

「チャイム鳴ったしそろそろ帰るな! おねーさんもちゃんと帰ったほうがいいぞ!」

「え……うん、気を付けてね、お疲れ様……?」

 ついアルバイトの最後で生徒にかける挨拶を背中にかけながら、力を入れすぎて疲れ始めた瞳でぼんやり見送る。

 遠くなっていく黒は、どんどん夕闇に消えていった。

「……帰ろ」

 朝には自殺を考えていたのに、さっきまで記憶の中で小学生になっていたのに、駅のアナウンスを聞いた途端お腹が減った気がして、口からはそう言葉が零れていた。

 悲しみが長続きしないあたりもどうしようもなくわたしで、けれどこんなかたちになってしまった以上、積もった「わたし」を続けていくしかないのだろう。ひとは簡単には変われない。変われない「わたし」が積もって戻れなくなって、いずれ身体や思考全体に広がっていく。

 ここへはきっともう来ないだろう。

 少なくとも小さな生きづらさがどんどん心を覆って、またふと死にたいと思う日までは。



 少年は無事に帰れただろうか。大丈夫、わたしもこれからちゃんと、家に帰るよ。

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