「天井」 - 蓮
私は、天井を見るのが好きだ。
空をよく見る人はよく聞く。 確かに空はいい。一瞬として同じときはないし、時間も季節によって全然違う。
それでも私は天井を見ることが好きだ。 天井は基本的に作られたときから変わらない。 老朽化はするけど、床よりはゆっくりした時間で進んでいく。 時計と同じように、一定のリズムで建物の時間を示すものだと思ってる。
天井をまじまじ見ることは皆意外とない。 らしい。 あんなに天井は面白いのに。 雨風をしのいで、電灯をつけるだけの場所じゃない。 素材も、柱も、段差も、建物を支えるためにいろいろな工夫がされている。 人が通ったりしないから、いつも平らなわけじゃない。 誰も見てないだろうと思って、電気の配線もむき出しの天井。 一分の隙もないような、完璧に整えられた天井。 どんな天井も大好きだ。 個性がある。 いっつも見てるわけじゃないけれど、ふとした時にああ、ここはこういう天井なのかって思う瞬間が意外と癖になってしまう。
出かけようと家の扉を開くと、そこには塗り替えたばかりの真っ白い天井が広がっていた。 それだけで嬉しくなる。 一日が始まるのだ。
「あれ……?」
久々に来た隣町の駅の天井に、何か引きずったような跡がある。 所々灰色になった薄汚れた平らな天井に、墨で塗ったような黒々とした線が蛇行している。 偶然にもそれは私の行き先へと続いていた。こんなもの、前からあっただろうか。 少し首を捻るが思い出せない。 眼で追いながら駅の構内を歩いていく。
休日だからか、それなりに人はいる。 が、誰も天井に気が付く様子はない。 気がつかないのだろうか。 天井になんて興味がないのだろうか。 追いかけながら、人波を避けて進む。
「あ……」
いつの間にここまで出ていたのだろう。 階段を昇り外に出た。 さっきまでの暗い風景が嘘のように、青い空が目の前に広がっている。
今日は不思議なものを見られた。 運のいい日だ。それを表すかのようにバス停に丁度バスが来る。 帰路に着こうと慌てて走り出した。
「また……?」
おかしい。 何かがおかしい。 また引きずった跡がある。 家までの近道、ここの高架下の天井はいつも見ていたはずだったけど、こんなものは、なかった。
切れかけの電灯がジジジと嫌な音を立てる。 白い天井は剥がれ落ちかけ、より不穏な空気を際立たせていた。 誰も消すことのないどこぞの不良の落書きが、あちらこちらに書かれている。
いや、きっとこの跡も落書きの一つだろう。 スプレー缶を持って走れば、こんな一直線になるだろう。 さっきも同じようなものをみたのは偶然だ。私の行く先々に現れているわけではない。
それにさっきとは少し色が違う。 光の加減かもしれないが、どちらかというと赤っぽい黒色をしている。
早く帰ろう。 暗くなる前に。 ヒールの音を鳴らしながら薄暗い中を家路へと急いだ。
もう偶然では済まされない。 私のアパートにまであるなんて。
アパートは最近建て替えたばかりだ。 天井も綺麗になって、今日の朝だってピカピカだと思って出発して。
そして気がついてしまった。 線がさっきよりも赤くなっている。 というより、塗りたてのペンキのように鮮やかで、今にもしたたりそうだ。
この線はなんだ。 そして、この線はどうやってつけたんだ? なんで私の目の前にばかり現れる?
階段の方まで続く。 どこへ向かっているのだろう。 いや、その答えはわかっているような気がしていた。
階段を昇る自分の足音だけが響いている。 こんなに自分の家は遠かっただろうか。
おかしいことにどんどん気がついていく。
この線の正体。 時間が経つと黒くなっていく赤い液体。 絵具でも何でもない。 それはよく知っていて、自分のナカにあるもの。
それに。 天井でモノを引きずるってなんだ? 重力のせいで、ずっと天井に押し付けるなんて出来ないはずだ。 そのものを下から押し付け続けるか、天井を歩く以外は。
どっちが現実的だ? いや、どっちもおかしい。
天井ばかり見ていたら、コツン、と何かが靴にあたった。 案の定、というか隣を見るとそこの表札に書かれた名前は自分のものだった。
嫌だ。 見たくない。 見ちゃだめだ。 おかしい。 今すぐ離れて。 逃げなきゃ。 誰か。 まだ間にあう。 耳の奥がキーンとして、指先が冷え切っている。 頭の中でアラームが鳴り続けているみたいだ。
だけど、そんな意思とは裏腹に首はうつむこうとする。 首が軋んだ音を立てている気がした。
そこにあったのは――。
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