第125話 顕現

「マモン……」


 ポツリと呟かれたエレナの声は、もう相手には届かない。それはテネブリス城の地下室に虚しく響き、溶けていく。触れている冷たい手は孤独だったエレナに握手を求めてきた優しい手のはずだった。手から目へ、じんわりと何かが伝わり、涙が零れそうになる。しかし今は泣いている暇などない。エレナは両頬を叩き、己を鼓舞する。


「マモン。私、行くね。貴方の愛したテネブリスを守るために」


 そう言い残して、エレナは友が眠る地下室を出た。


「大丈夫なのかよ」


 地下から一階へ繋がる階段を上り終えると、声を掛けられる。このぶっきらぼうな声の主は、顔を見なくても分かる。


「サラマンダー! ノーム! 待っててくれたの? 休んでよかったのに」

「心配でな。だろ? サラマンダー」

「……別に」


 エレナ、ノーム、サラマンダーがこうして三人同時に顔を合わせるのは随分と久しぶりだ。と、いうのもノームとエレナがルシファーの世界に身を投じている間も、サラマンダーはずっとカイニスの悪魔達から城を守るために奮闘していたのである。

 しかし、今日になって突然どういうわけか悪魔達の襲撃がピタリと止んだ。気味悪く思いながらも、テネブリスの面々は今の内に休息を取っているというわけだ。エレナもその隙にマモンに会うことが出来た。



 ──だが、今、そのひとときの安息は終わりを告げる。



「──っ!?」


 ズンッッとエレナの体が突然宙に浮く。地面が、上下に揺れているのだと理解したのは数秒後だ。小さなエレナの体は巨大な自然災害の前には立てることもできず、ただただ恐怖を覚え、固まるしかできない。地が、激しく怒りを表しているようだった。


「エレナ! こっちへ来い!」


 三人は身を寄せ合って、互いを支える。視界が定まらず、ドラゴンに乗り慣れていない時の「ドラゴン酔い」に似た気持ち悪さを感じた。このまま城ごと崩れてしまうのではないかという恐怖で心はいっぱいだ。

 その内、その恐怖心をさらに煽る謎の“咆哮”まで聞こえてくる。それを耳にした者全てが魂まで震えてしまう叫び。誰が聞いても、この咆哮の主がこの世の者ではないと確信できるだろう。それくらいにこの咆哮は異質で恐ろしかった。咆哮に合わせて周囲の空気の揺れを感じる。鼓膜を刺激するだけではなく、己の内側にまで咆哮の主が怒り狂っていることを知らしめてくるような、そんな振動。一瞬で鳥肌が立ち、本能で危険信号を発する。


「外だ! 外に何かいるぞ!!」


 揺れが収まると、エレナはそのまま数秒動けなかった。だがノームの声によってすぐに我に返る。慌てて近くのバルコニーの手すりに身を乗り出せば、シュトラールとスぺランサがある方角に、不自然に渦を巻く巨大雲とこの遠距離からでも視認できる巨人が空から地上へゆっくりと降りていた。


「な、なんなの……? あれは、なに!?」


 城中からもゴブリン達の悲鳴と困惑の声が聞こえる。エレナは先程の地震の揺れによる酔いがさめず、ついフラッと立ち眩みを起こした。それを支えたのはシルバー。彼は謎の巨人に厳しい表情を向けたまま、エレナの疑問に答える。


「エレナ様。よく御覧ください。雲から覗く陽の光に照らされた巨人の白髪を。……は、エレナ様ならば、よくご存じでしょう」

「!? じゃ、じゃあ……あれは、絶対神デウス……!? そ、そんなわけがない! 神がこの世に顕現するなんて……!!」


 しかしその時、エレナはレイナ・リュミエミルの言葉を思い出し、口を閉じた。


 ──『ならどうしたらデウスは現れるようになるのか。簡単よ。デウスを弱くする。その上で、ヤツ自身が地上に降りざるを得ない状況を作る』

 ──『神は人間を守らなければいけない。何故なら──人間の信仰心こそが、神の力に直結するから!』


「……そっか。これこそレイナが言っていたことだったんだ。セロは色欲の悪魔カイニスの力で沢山の人間を悪魔に変えた。よって、神の力の源である人間が極端に減り、デウスの力も弱まった。そして、この地に顕現せざるを得なくなった……!」

「その通りでございます。セロの忠告からして、セロは絶対神が直に顕現することも予測していたのでしょう」


 エレナは城の屋上へ駆けだした。屋上では魔王や竜人兄弟を初めとする城の魔族達が休息を取っているからだ。扉を思いきり開けて、エレナは屋上に飛び込んだ。


「──パパ!」


 魔王はエレナに振り向く。その場にいた者達はやはり謎の巨人の方を向いて、戸惑っている様子だった。すぐにエレナは魔王に駆け寄る。 


「パパ、あれは絶対神デウスよ! カイニスで人間が悪魔に変えられたから、それで……」

「あぁ、分かっている。少し落ち着きなさい」


 魔王の言葉にようやくエレナは深呼吸を繰り返し、冷静を取り戻した。そうして、改めてゼウスを見る。


「テネブリスはどうするの? このままセロとデウスの戦いを傍観するの?」

「……、」

「──僕!!」


 魔王がエレナの質問に答える前に、意外にもリリィが前に出た。強い瞳をこちらに向けている。ここまでリリィが自分の意思を見せるのは珍しいことだった。エレナの服と魔王の服を握り、彼は交互に二人を見上げる。


「エレナ、パパ。僕、あそこに行く!」

「えぇ!? り、リリィ? ど、どうして? あそこにはあのセロもいるのよ!?」

「危険なのは僕でも分かる。でも、僕、どうしてもあそこにいかなきゃいけないんだって……! 今、僕の中でいっぱい声が響いてて──皆が口々にそう言ってるんだ! 僕の生まれた理由が、あそこにあるんだって!」


 そういえば、とエレナは思い出す。以前サラがリリィの事を聖遺物だと言っていたことを。ドリアードもリリィは神に関係する何かだと推測していた。故に彼が絶対神の登場に関わろうとするのは至って当然のことなのかもしれない。……とはいえ、可愛い弟をはいそうですかと危険に晒したくはない。

 悩むエレナの頬を舐めるのはルーだ。いつの間にかエレナの肩によじ登ってきたらしい。ルーもリリィ同様に強い光を宿した目で見ていた。その額の宝石からは真っ直ぐ伸びる一筋の光。それは絶対神デウスの方を指している。


「ルーもあそこに行きたいってこと?」

「きゅーう!」


 頷きながら、ルーは鳴く。

 すると今度はノームがエレナの肩に手を置いた。


「エレナ。余もあそこに行こうと思う」

「ノームまで……」

「大天使は絶対神デウス様に作られた使者だ。デウス様がセロに殺されれば、勿論その力を失う。よって余らも勇者の力を失うだろう。セロに勝つためにも、エレナを守るためにも、余は与えられたこの力を失いたくない」


 確かにノームやサラマンダー、ウィンに宿った勇者の力が失われるのは困る。と、いうことは必然的にあの謎の巨人の下へ行かなければならないのだろう。では誰があそこへ行くか、という話に移ろうとしたその時──大きなため息が上空から聞こえた。


「だぁかぁらぁさぁ、どうして俺の忠告を無視する前提なんだ?」

「カイニス!」


 いつの間にか、上空にはカイニスがこちらを見下ろしていた。空間魔法で転移してきたのか、大量の悪魔達を連れて。何百という悪魔達に一斉に見下ろされ、エレナは息を呑んだ。


「忠告を無視するんってなら、俺も腰を上げねぇといけねぇ。なぁ、頼むよ。このまま大人しくしておいてくれねぇか? 俺だってセロ様に怒られたくねぇんだ。去勢されちまうよ!」

「ちっ! 色欲の悪魔だかなんだか知らんが、勝手に去勢されていろ!! 我が同志をあんな無惨な姿にしておいて、よくも我々の前に顔を出せたな!! エレナ様、魔王様。ここはこのアムドゥキアスにお任せください! マモンの仇は私が! 絶対にっ!!」

「──待ちなさい、アム」


 するとここで、アスモデウスが頭に血が上り、顔を真っ赤にしているアムドゥキアスを止めた。彼も彼で目が殺気に満ちており、周囲の魔族達は一歩後ずさる。


「あのクズ野郎は、アタシがやる。マモンの事もそうだけど、あいつはアタシが、アタシが殺さなければいけない。だけどアム。アンタにも一緒に戦ってもらうわ。アンタの血を頂戴。アタシの力じゃ、どうにも魔力が足りないらしいのよ」

「血、だと? つまり魔力供給をするのか!? アス、お前……何をするつもりだ?」


 アスモデウスは答えない。アムドゥキアスはその目を見て、黙って己の左腕を十センチほど切った。アスモデウスが「ありがと」とだけ言って、躊躇いなくそれに口づけ、その血を吸い始める。アムドゥキアスとアスモデウス。双子の兄弟ならば、その魔力の相性は言うまでもなくかみ合わないはずがない。紫の光が双子を一瞬だけ包み、魔力が完璧にアスモデウスの中に適合したのを示した。アムドゥキアスは魔力を分け与えたことで力尽きた様に、そのままその場にしゃがみこんだ。


「ん。魔力、確かにもらったわよ。これでアタシも、あの子達をようやくことができる……!」

「産、む……? おい、アス。それはどういう……」

「陛下。今まで、陛下にまでアタシの真の力を隠していたこと、お許しください」


 アスモデウスは魔王にそう頭を下げる。そうしてそのまま、しゃがみこんだかと思えば──アスモデウスの背中が不自然に盛り上がっていくではないか。竜の翼が生えるのかと思いきや、違う。その背中から現れたのは十、二十、いや、それ以上……大量の肉の塊。それらは次第に形を成し、体液で濡れた小竜へと変貌する。小竜達はブルブルと体を震わせ、濡れた体を乾かし、自分の誕生を示すかのように鳴き声を上げた。その場にいた全員が目を疑う。


「はぁ、はぁ……」

「おい、大丈夫かよアス!」


 アスモデウスは目に見えて疲労していた。必死に呼吸を繰り返し、足に力が入らないのかフラフラしている。近くにいたサラが咄嗟に彼を支えた。アスモデウスは掠れた声で「助かるわ」とだけ言う。サラは彼が酷く汗を掻いていることに気づいた。まるで──出産直後の母親のようだ。


「おいおい、嘘だろ……? てめぇ、色欲の悪魔アスモデウスという名は偶然じゃなかったのか!?」

「そうよ。アタシは──アンタと同じ、色欲の悪魔アスモデウス。色欲は、……?」


 そう妖艶に笑うアスモデウスの瞳は血のように真っ赤。紛れもない、ベルフェゴールやベルゼブブ、サタンに並ぶ悪魔の証であった……。

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