第126話 色欲の悪魔

 色欲の悪魔には、二つの側面がある。そもそも色欲の大罪というのは「過剰な性欲を持て余し、いたずらに子を為した罪」である。つまりは育てる気のない子供を産み、捨て、殺した罪。しかし色欲の罪は一人では犯せない。父親と母親が必要である。故に、二側面。


 カイニスは悪魔の種を産み付ける能力を持っていることから、父親の側面。

 対してアスモデウスは大量の魔力と体力を消耗し、その身で自分の分身を生み出す能力を持つことから、母親の側面。

 


 ──今、そんな二人の色欲の悪魔アスモデウスが対面しているのである。



「アスモデウス! てめぇ……どうしてお前が悪魔になっている? セロ様がお前に血を与えたはずがねぇ!」

「アタシだって、そんな血、願い下げよ! アタシのこの力は、この世で最も尊い方から頂いたものなの!」


 ──そう、アタシはあの日、悪魔になった。

 ──魔王陛下と初めて出会ったあの日から。


 アスモデウスは目を閉じる。瞼の裏に思い浮かぶのは、いつだって一面の雪景色だった……。




***




 数十年前。まだ子供だったアムドゥキアスとアスモデウスは半身を雪に覆われ、凍死寸前の状態だった。周囲に大人の魔族はいない。いるのは死にかけている双子を見下し、嘲笑う人間達だ。双子の全身にはほぼ隙間なく彼らに暴行を受けた跡があった。


「おい、大丈夫か……弟よ……」

「……っ」


 片割れの兄の声にもアスモデウスは反応できない。アムドゥキアスよりも、彼の方が死に近いからだ。おそらく自分は数分も経ったら死ぬ。悔しくて悔しくて、雪を握り締めた。


「オイオイオイオイ、しぶといなこいつら! もう砂時計が落ち終わっちまうぞ! これじゃあ賭けに敗けちまうじゃねぇか!」


 ──と、周囲で双子を見ていた男の一人が苛立ちを隠せないとばかりに近づいてくる。


「もう新しい竜人の奴隷も入荷したし、チビのお前らは用済みなんだよぉ! さっさとくたばっちまえっ!」


 そう男の声が落ちてきたと思えば、アスモデウスの目の前に、男の靴が迫ってきた。顔面を蹴られる。そう確信した。アムドゥキアスが泣きながら「やめろぉ!」と叫ぶ。


 ──これで意識を失ったら、もう目覚めることはない、よな……。

 ──せめて、兄さんだけでも、生き延びてほしかったけど……。

 ──嗚呼、酷い、竜生、だったな……。




 その時、だった。




「おい」


 アスモデウスは朦朧とする意識の中で、聞き覚えの無い地を這うような声を聞いた。顔面に衝撃は来ない。目を開けて確認する気力もなかった。人間の男はどうやらその地を這うような声の主と言い争いをしている。が、すぐに男の声は悲鳴に変わり、慌てて逃げていく男達の足音が聞こえた。


「大丈夫か」


 おそらく自分を救ってくれたのであろう声がアスモデウスにかけられる。しかし当然、その声には応えられないでいた。


「……声は出ないか。そちらの竜人の子供も酷く消耗している。マモン、何かいい案はないか?」

「ふーむ。これじゃあ兄弟間の魔力供給もできませんねぇ。兄の方は食事を与えればなんとか助かりますが、弟の方はそうもいかないようだ。それでは魔王様、貴方の血を彼に分けてあげてはいかがでしょうか」

「我の血をか? しかし、魔力供給は博打だと言っていたのはお前だろう」

「だからですよ。エルフぼくの血は他の種族と破滅的に相性が悪いんです。だから魔王様の方が、まだ可能性が高いのです」

「承知した。……だが、その前に、お前の意思を聞こう」


 体が持ち上げられる。おそらく自分に語り掛けられているのだろうとアスモデウスは分かった。


「すまないが、救えるかは確証はない。しかし、救えるとしたら、方法はもう我の血を与えてやることしかない。……どうする? 竜人の少年よ」

「……っ、……!!」


 生きたい。アスモデウスは必死に首を縦に振った。精一杯の意思表現だ。

 そうすると、次の瞬間、口に流れ込んできたのは──膨大な魔力の塊。全身が肥大化し、内側から熱が放出されるような奇妙な感覚にアスモデウスは襲われた。


「はぁっ、はっ、う、うえ……」


 あまりの魔力量にアスモデウスは堪らず嘔吐してしまう。だが、気づけば自分の足で立てるくらいには回復していることに気づいた。


「おい、マモン。嘔吐しているぞ。失敗か?」

「一人で吐く元気があるならもう大丈夫ですよ。失敗どころか大成功ですね」


 アスモデウスはようやく吐き気が収まり、ゆっくり振り返る。そこには……


 ──骸骨スケルトンと、エルフ?


 一人は頭部が骸骨の大男。一見、スケルトンという骸骨の種族かと思ったが、身体に肉がついているので違うようだ。こちらがおそらく地を這うような声の主だろう。

 もう一人は丸眼鏡をかけたエルフ。どうにも胡散臭い笑みを浮かべて、こちらに手を振っている。


「声が出るならば、我の質問に答えてくれ。お前の名前は? 親はどこにいる?」

「……。名前はない。名をつけてもらう前に、親が殺されたから……」

「そうか。悪いことを聞いたな。すまない」


 アスモデウスは首を横に振った。命の恩人に、怒るわけがない。

 アムドゥキアスが泣きながらアスモデウスに抱き着いてきた。そんな兄を見ていると、自分もなんだか涙が瞳に滲んでくる。助かったんだと、ようやく実感が湧いた。


「お前達がいいなら、我と来るか?」


 その言葉と共に頭に降りてきた大きな手の暖かさは今でも鮮明に覚えている。

 双子仲良く、首が取れそうになるくらい縦に振った。


 その後、骸骨頭──魔王からアムドゥキアスとアスモデウスという名前をもらい、双子は魔王に忠誠を誓った──のだが。


 その数日後、アスモデウスは自分の中から聞こえてくる無数の声に悩むことになる。

 

 食事の時も寝る時も、いついかなる時でも子供の悲鳴や泣いている声がするのだ。どうして自分は愛されなかったのか、捨てられてしまっただとか、どうして自分は産まれなかったのかだとか……。

 一応アムドゥキアスに聞いてみたが、彼はそんなことはないらしい。つまりこれは魔王の血によるものだろうとアスモデウスは確信した。このことを相談したら、魔王が責任を感じてしまう。そう思ったアスモデウスはこの“声”のことは誰にも打ち明けることはしなかった。一人で背負うことを決意したのだ。


 最初は我慢するしかなかったが、アスモデウスは次第にこの声らを一人一人母親のように宥めるようになった。そうすれば、彼らは少しずつ安心したように静かになってくれることに気づいたからだ。……尤も、それを繰り返し続けて、女性のような口調になってしまったのは誤算だったが。




***




 アスモデウスは目を開ける。懐かしい記憶にほんの少し口角が上がった。カイニスがそれを気味悪がっている。


「アンタを初めて見た時、マモンのことは抜きにしても、とてつもない怒りと憎しみが湧き上がってきたわ。アタシの中で潜んでいた本来の色欲の悪魔アスモデウスが出てきたのね。話を聞くと彼女達の中にはアンタらに犯されて腹の子供を薬で殺したり、育てきれなくて捨てた者もいるそうよ」

「──っ、ちっ! 気持ちわりぃ! おいお前ら、あのクソチビ諸共殺せ!」

「気持ち悪い? クソチビ? 酷い言い様ね。。見捨てたはずの我が子に蹂躙される気持ちは一体どんなものでしょうね?」

「……っっ!!」


 次の瞬間、カイニスの子供達がアスモデウス達に襲い掛かる。だがアスモデウスの子供がそれらの体を素早く捕らえ、その翼を食いちぎり始めたのだ。翼をちぎられた悪魔達は元の人間に戻り、そのまま別のアスモデウスの子供達に空中でキャッチされる。


「アンタの能力の代償はほぼない。故に、簡単に崩せることは分かってるわ。アンタみたいな薄っぺらい能力よ」

「なっ! ふ、ふざけるなぁ!!」

「ふざけるな? はっ! それは──こっちの台詞だな。の親友を殺し、この国に牙を剥く……だと? ふざけるのも大概にしろよ。お前は俺が殺す。それを俺の子供達も望んでいるようだぞ! カイニスさんよぉ!!」

「ひっ……!」


 カイニスはアスモデウスの鋭い目に後ずさる。それだけではなく、今にもアスモデウスの子供達が自分に牙を剥こうと目をギラギラさせているので、思わず体の震えが止まらなくなってしまった。本能で理解する。

 ──喰い殺される、と。


「エレナ!」

「!」


 アスモデウスは振り向かず、エレナに声を掛けた。


「ここはアタシとアタシの子供達に任せなさい。アンタは行くべきところに行くのよ! 早く!」

「……うん! ありがとう、アス!」


 魔王を見上げると、彼は既に転移魔法を発動させていた。空中に不気味な闇の穴が渦を巻いている。


「アスモデウス、アムドゥキアス、そして城の魔族たちよ! テネブリスを頼んだぞ! 我はエレナ、リリィ、勇者たちと共に行く!」

「はっ! 魔王陛下! テネブリスはお任せ下さい!」


エレナはリリィと手を繋ぎ、魔王の闇の中に飛び込んだ。


 転移する直前、情けないカイニスの悲鳴が聞こえてきた気がした……。

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