第8話 治癒魔法について


「──パパ!」


 エレナがテネブリス城にやってきてから約三十日後。その頃になると、“魔王の娘”になることを決意したエレナの明るい声がテネブリス城に響くようになった。今まで幼い自分を押し殺して生きてきた反動なのか、彼女は年齢よりも甘えたがりかつじゃじゃ馬な面が目立ってきたのだ。

 一方、魔王は絶対的な孤独の支配者というイメージが強かったものの、今では彼に寄り添うエレナの影響でその印象がすっかり覆されつつある。


「エレナか。どうした」


 魔王ははたと足を止め、エレナを見下ろす。エレナは魔王が立ち止まってくれたことが嬉しかったのか、頬を緩めた。


「あのね、昨日受けたマモンの魔法薬学の筆記テストが満点だったの! 私、凄く勉強したんだよ!」

「そうか。それは凄いな。流石我が娘だ」

「! ……へへっ」


 魔王に頭を撫でられ、エレナは照れくさそうにしながらもはにかむ。しかしそこでわざとらしい咳が二人の会話を遮った。咳をしたのは魔王の傍にいた側近──アムドゥキアスである。アムドゥキアスはエレナに軽く頭を下げた。


「エレナ様。大変申し訳ありませんが陛下はこれから辺境の視察に行かねばなりません。陛下、急ぎましょう」

「……あぁ。すまないエレナ。すぐに戻るからな」


 魔王はエレナの頭をもう一撫ですると、アムドゥキアスと共に去っていった。アムドゥキアスは魔王に気づかれないようにエレナを一睨みする。その視線から体裁ではエレナに敬意を払っているように見せかけて、魔王から遠ざけようとしている彼の意図が垣間見えた。周りをチラリと見れば、さっと逸らされる魔族達からの視線。足元のルーだけがエレナを心配してくれていた。


(この城に来てから結構日が経つのに、相変わらず私の味方は魔王パパとマモンだけ。そりゃ人間は魔族を迫害してきた存在だから、当たり前か。特に私は元聖女。彼らにとっては天敵の象徴みたいなものだろう)

(……でもこれじゃ、私が本当の“魔王の娘”にはなれていないってことだ。魔族の人達がパパに不信感を抱くきっかけにもなってしまう。どうすれば、私は彼らに認めてもらえるのだろうか)


 エレナはぎゅっと拳を握りしめると、足早に移動を始めた。その爪先が向けられたのはテネブリス城の図書室である。図書室はマモンの部下であるエルフ達が管理しており、エレナが毎日足を運んでいる場所だった。


「こんにちは。失礼致します」

「……、……」


 無視。エルフ達はエレナを見るなり、明らかに嫌そうな顔をした。エレナは深々と彼らにお辞儀をすると図書室の奥に身体を滑りこませる。エルフ族が執筆したであろう本の山のおかげで奥へ進むほど窮屈になっていくのもこの場所の特徴だ。エレナはその本の山からいくつかの書物を取り出すと、小さな椅子に座った。


「今日はマモンがどこかに行っているから、この辺りの魔法書を読み漁ろう。ルーはどこかお散歩でも行きなさい」

「きゅう!」

 

 エレナの言葉にルーは首を横に振った。そうしてエレナの膝に乗り、そのまま丸まって眠りにつく。エレナはそんなルーに少しだけ救われながら、一冊目の魔法書を手にした。


【──この世には、魔法というものがある。魔法とは魔力という様々な物質に変化したり、又はありとあらゆる物質へ干渉できるエネルギーを自在に操る術である。魔族はそんな魔力を自動的に生み出せる心臓と魔力を巡回させる通り道──魔力回路を体内に備えている為、その身一つで魔法を使用できる。しかし人間は違う。人間の心臓は魔力を生み出すことが出来ない上にそもそも魔力回路が体内に存在しない。故に人間には魔法は使えない。

 ならば人間はどうすれば魔法が使えるようになるのか。それは神や大天使に愛されること。神や大天使に気にいられた人間はその髪の色がそれらに準ずる色へと変色し(これは人間に魔力回路が通った兆しである)、彼らの恩恵を受けて魔法が使えるようになるのだ】


 エレナはふと己の手を見つめる。そうして少し前まではよく口にしていた呪文を唱えた。


「絶対神デウスよ、どうか私に力を授けたまえ。……輝けエストレージャ!」


 ──当然のことながら、変化はなかった。

 エレナは元々絶対神デウスの恩恵により、光魔法の使い手であった。しかしそのデウスの恩恵が受けられなくなっている以上、今のエレナが魔法を使えるはずがないのだ。ため息がこぼれる。


「やっぱり、魔法は使えない、か。魔法が使えて、パパの役に立てるようになったら魔族の皆にも認めてもらえると思ったのにな……」

「きゅ! きゅきゅきゅ!」


 するとエレナの膝からルーが飛び出した。ルーは魔法書のページを勝手にめくり、ぺしぺしとその小さな前足を本に押し付ける。エレナはルーが指し示すページを覗きこんだ。そこには“治癒魔法”についての詳細が記されていた。


「治癒魔法? 私にそれを試してみろって?」

「きゅ! きゅきゅう!」


 ルーが大きく頷く。エレナは本を掴んでそのページを黙読する。そこにはこう書かれていた。


【治癒魔法とは、発動者が対象者に特別な魔力を分け与える術のことである。魔力を与えられた対象者は生命活動の基盤である身体の“自然治癒能力”を促され、通常の何十倍、何百倍も速く怪我や病気が回復する。また他にも欠陥した体の一部分を再生する、魔力回路の回復などの事例も確認されている。通常の魔力供給と比べて圧倒的に対象者にリスクが少ないことも特徴である。


 ただしこの治癒魔法はただただ発動者から対象者に大量の魔力を分け与え続けることで成り立つ魔法である為、①発動者が半永久的な魔力リソースであること、②対象者が与えられた魔力による身体の活性化に耐えうる体力があること(瀕死状態、または既に死亡している者を治癒することはできない)、という発動条件がある。治癒魔法の使用は他の魔法よりもかなり発動の難易度が高く、発動者側に大きな負担がかかる上にそもそも特定の魔力回路を宿していなければ使用することはできないのではないかと唱えられているため、実質不可能である。


 ……しかしもしもこの術を操る者がいるとしたら、その者はあらゆる生命にとって奇跡を操る神と同等の意味を持つかもしれない】


 ……と、長々と説明があるがこれは簡単に言うと「治癒魔法は他の魔法より大量の魔力が必要であるため使用するのが困難な魔法である」ということだ。こんな魔法を魔族でもないエレナが使用できるはずがない。そもそも魔力を操れないのだから。エレナは苦笑し、ルーの頭を撫でた。


「ルー、ごめんね。力になろうとしてくれているのは分かるよ。でも治癒魔法なんて私には無理なの」

「きゅう! きゅきゅきゅーう!」


 ルーは不服そうだった。何度も何度も治癒魔法のページをぺしぺし叩く。エレナはそんなルーに困り果てた。もう一度治癒魔法の項目を読み直してみる。


(魔族でも使用することは不可能って書いてあるのに人間の私に出来るはずがないよなぁ。奇跡の術って言われているほどだし。……でも確かにこんな術が使えたら、魔族の皆にも認めてもらえるかもしれない)


 ──エレナがそう考えを巡らせた時だ。どこか胡散臭い声と共にくねくね動く尻尾がエレナの視界に入ってきた。


「はぁい。お嬢さん。魔法が使えなくて困っているようだねぇ」

「! 貴方は……」


 エレナの目の前に優雅にジャンプしてきたのはくせっ毛の黒猫だ。首元には赤いリボン。足には長靴を履き、二足歩行。おまけに素敵な低音ボイス。明らかに普通の猫ではない存在にエレナは後ずさる。ルーも突然の黒猫の登場に威嚇した。

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