第7話 父よ、おやすみ


「ご、ごめんなさい! 起こすつもりはなかったんです!」


 エレナは生きた心地がしなかった。いくら自分を救ってくれた恩人でも、魔王は魔王。その眠りを妨げてしまったとなれば怒り任せに喰われてしまうかもしれない。せめてルーだけは助けなければと周りを見回すが、いつの間にか重い扉は閉まっており逃げ場はない。魔王の目の光がこちらに向けられる。


「──、エレナか」

「ご、ごめ、なさい……せっかく眠っていらっしゃったのに……」


 魔王は震えるエレナを静かに見つめていた。そうして己の手を一瞥し、そっと俯く。


「よい。丁度悪夢を見ていた。むしろ起こしてくれたことに感謝しよう」

「!」

「──ところでお前はどうしてここに?」


 最悪の予感が外れ、エレナはほっとする。しかしここに自分がいる理由を尋ねられると少し困った。マモンに連れてこられたことを言うべきであろうか迷ったのだ。数秒エレナが黙っていると、魔王は「いや、答えなくていい」と言葉を続ける。


「エレナ、自分の部屋に帰るといい。ここはお前には肌寒いだろう。……ただでさえ、身体の震えが止まらないだろうに。……すまないな」

「っ!」


 エレナは魔王のそんな切なげな声に、唇を噛みしめる。ここで魔王が指を振ると、部屋のドアが勝手に開いた。後はエレナがこの部屋を出るだけだ。だがエレナの足は動かない。魔王が不思議そうに首を傾げる。


「どうした? 自室への道が分からないのか?」

「……っ、……あの……っ、わ、我儘を、言っても、いいでしょうか」

「! あぁ。かまわない」


 エレナはまず頭を下げ、先ほどの非礼を謝った。そうして魔王の横たわるベッドに近づく。魔王はエレナの行動に対し明らかに戸惑っていた。そんな魔王と真っ直ぐ向き合う。逃げたくないと思った。


「ま、魔王様! その、よかったら、私ともう少しだけお話してくださいませんか? 昼はお話できる機会がなかったので」

「!? ……。……、……いいのか? 無理はしなくていい」

「無理なんかしていません! 私は貴方とお話したいんです。私の父親になりたいと言ってくれた貴方をもっと知りたい。……私は今まで父や母もおらず、婚約者にもあまり心を開けず、ろくに友達もいなかった。常に孤独を背負っているような重みと共に生きてきました。だけど、貴方は……そんな私の家族になりたいと歩み寄ってくれた。勿論、突然のことで驚きましたよ。でも、嬉しかったんです。……本当に……嬉しかったんです……」


 エレナの鼻の奥が、つんと痛む。ルーが心配そうにエレナを見上げていた。しかしそんなエレナの頭に何かが乗る。人間のそれではない固い感触にエレナは目を見開いた。


 魔王がエレナの頭を撫でているのだ。


「……、……っ、どうして……」

「突然触れてしまってすまない。以前お前の魂に願いを聞いた時、頭を撫でて欲しかったと返されたことを思い出したのだ。人間はこうされることで寂しさを紛らわせることが出来るのだろう?」


 優しく、優しく、エレナの頭部が揺れる。エレナは瞳に限界まで涙を貯めていた。瞬きをすると涙が零れる。魔王の手がすぐにエレナから離れた。


「すまない。嫌だったか」

「……っ、嫌じゃ、ありません……!」


 魔王がエレナの返答にまたもや困惑している。エレナは自分の目元をごしごし擦った。沈黙が非常に気まずくなって、話題を変える。


「魔王様は、さっきみたいにいつも悪夢に魘されているのですか?」

「あぁ」

「どんな夢か、聞いても?」


 魔王は窓の外の月に赤い光を向けた。薄い毛布をその太い指でぎゅっと握りしめる。


「……周囲から、殺意と悪意を向けられ続ける夢だ。我を見た人間達は皆、血相変えて我を殺そうとしてくるからな。逃げても逃げても次々と誰かが我を睨み、罵倒し、殺害しようと刃物を向けてくる」


 エレナは何も言えなかった。数多の殺意と悪意を向けられた経験なら彼女にもあるのでその恐怖を理解できたからだ。唇を強く噛みしめる。


(──そうだ、そうだった)

(どんなに膨大な魔力を持っていたとしても、どんなに厳つい見た目であったとしても、のだ)

(私は今まで、魔王というだけでこの人を白髪の聖女として殺そうとしていた。今思えば彼が人間を大量虐殺しただとかはたまた国を一つ滅ぼしただとか、彼がどのように人間を害してきたのか聞いたこともない。ただただ魔族の王だからとしか思っていなかったし、違和感すら持たなかった)

(嗚呼、私はなんて酷い人間だったのだろう。なにが、白髪の聖女。そんなの、聖女でもなんでもないはずなのに。私は、一体どうしたら彼に償えるのだろうか……)


 するとそこで、エレナの膝の上にいたルーが魔王のベッドに飛び移った。そうして魔王の指をペロペロ舐める。これはルーの親愛の証だ。ルーは何かを言いたげにチラリとエレナを見た。エレナはハッとする。


 ──そうして、エレナも魔王の手を優しく握った。


「エレナ?」

「……悪夢で魘されるというのならば、私とルーが寄り添いましょう。そうすれば恐怖も薄れるはずです」

「! し、しかし……それでは二人に申し訳ない」

「申し訳ない? どうしてでしょうか。だって私は貴方の娘で、貴方は私の父親です。父の為に私が何かをしてあげたいのです。私には本物の家族がどういうものか分からないけれど、きっとそういうものなんですよ。相手の為に無性に何かをしてあげたくなるものです」

「……!!」


 エレナがそっと魔王の上半身をベッドに沈める。するとどうだろう。魔王の目から、目玉などあるはずもないというのに雫が零れた。静かに彼の頬を伝うソレにエレナは目を丸くする。魔王は己の感情を言葉に出来ないでいるらしく、コツコツと口を動かしつつ深呼吸を繰り返した。そして潤った声で、懇願する。


「……我も……。我も、我儘を言っていいだろうか」

「はい、魔王様。なんなりと」

「エレナ。気が向いたらでいい。どうか我をパパと呼んでくれないか。口調も、もっと親し気なものがよい。……我は、お前と本当の親子のように振る舞いたいのだ。正直に言うと我は孤独が何よりも怖い。だからお前の“愛されたい”という願いに誰よりも共感した。一方でお前も我を理解してくれるかもしれないと勝手に期待してしまった。身勝手だということは承知している。だが、我は……我は……っ、」


 言葉が追いついていないのか、魔王はそれ以上何も言えないでいた。エレナはそっと微笑み、魔王の手を自分の頬に宛がう。


「うん、分かったよパパ。貴方がそれで少しは救われるというのならば、私はそれを叶えます」

「──、──」


 ──魔王は、それからしばらくすると呼吸のみを繰り返すようになった。眠ったのだ。

 しばらくそれを見守っていたが、次第にルーまでも魔王の胸の上で蹲って眠り始めた。エレナはクスッと微笑む。


(私がこの魔王様に出来ることはきっと、一つだけ。マモンさんが私をこの部屋に連れてきたのもそういう理由だろう。魔王様は彼が言った通り、きっと孤独がどうしようもなく怖いのだ。ならば、私は──)

(──彼に寄り添おう。この先何があっても。それが償いになるのかは分からないけれど、私を闇から救ってくれたこの心優しいパパの傍にいたいというのは、きっと私自身も望んでいることなのだから)


 そんなことを思い耽っていながら、エレナもいつしか魔王の傍で眠ってしまっていた。


 ──それ以降、魔王が夜に魘されることはなくなった。

 夜のテネブリス城に、穏やかな静寂がやってきたのだ。

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