第5話 制服のミラ

 ミラ・マチューイは保安官としてサースエストに派遣されて、もうすぐ一年になる。

 肩書こそ堅苦しいが、本土にいた頃の仕事に比べれば、ミラにとってサースエストの暮らしはバカンスのようだものだった。

 この街は平和だ。

 地続きの現実とは思えない、と、ここに来たばかりの頃は常々思っていたし、今もそのように感じている。

 事件などないし、悪党と呼べる人間もいない。

 保安官としての仕事は、毎朝制服に袖を通し、街を──ときには街の外まで──巡回し、住人の話を聞き、事故やちょっとした揉め事に対処する。そしてそれを報告書にまとめて、本土に送るのだ。

 実際のところ、保安官としての字義通りの役目などこの街では必要とされていなかった。自分がここにいるのは本土側の都合だと、ミラはすぐに理解した。

 保安などという大層な任務の実態はないに等しいが、本土からすれば人を派遣しなければその事実もわからない。現地からの報告書を見て初めて、サースエストに異状なしということになるのだろう。

 では、何故自分が選ばれたのか、という点については、ミラはあまり考えないようにしていた。

 ここにいる間は、考えるだけ無駄だと思ったからだ。

 サースエストでの任期はおおよそ3~5年。二人体制で業務を分担、あるいは交代できるようになっているが、24時間張り付くような仕事があるはずもない。

 今ももう一人の保安官──ミラの父親ほどの年齢の男だ──は、街の北東の丘陵地を見てくると言って出かけているが、それも散歩のようなものだろう。

 閑職だ、左遷だと言い切れるほどの経歴をミラは持っていなかったし、仕事の何たるかを語るには己が若すぎることを知っていた。


 サースエストに来たばかりの頃、ミラは住人達の了解の早さに肩透かしを食った思いだった。

 彼らはよそ者や新入りを警戒するという感性を持ち合わせていなかったし、本土では当たり前のものだった若輩に礼儀を要求するという態度すらなかった。

 保安官の制服を着ている見慣れない若い女を見て、

「ああ、新しい保安官の人ね」

と納得すれば、それで気が済むらしかった。自己紹介をされることは多かったが、逆にそれを求められる機会は少なく、戸惑ったものだ。

 今ではミラも新顔ではなくなって、誰に会っても挨拶さえしておけばそれでよかった。

 街の南西にある詰所の近くには、噴水を備えた石畳の広場があった。詰所から近いというだけのことだが、ミラにとってはサースエストで最も馴染みのある風景がそこだった。

 その広場を歩いていて、ふと気付くと足元が濡れていた。今日は朝から雲が目立っていたが、雨は降っていなかった。誰かが水を撒いたのか、と思ったが、よく見ると噴水の縁の石材の隙間から水が漏れ出していた。

 石工を呼ばねばならない、と考えて、それだけのことで仕事がひとつ見つかったような気になって、つくづくここは平和だと思った。

「ミラ!」

 呼びかけられて目を向けると、小さな少女がこちらに向けて手を振っているのが見えた。

「──アリナ」

 どうした、と問う前にアリナは駆け出した。こんな目の粗い石畳の上で走ったら危ない、と言おうと思ったが、それよりも先にアリナは見事につんのめって転んだ。

「アリナ!」

 ミラは駆け寄ると、小さな肩を抱え起こした。

「いたぁ~……ごめんなさい」

「どこか擦り剥いたんじゃないか?」

 アリナは両手の平を見つめ、それから自分の剥き出しの膝を見て、あっと声を出した。

 砂で汚れた右膝から、じわじわと血がにじみ出していた。

「仕方ないな。立てるか?」

 問いかけると、アリナは悲しそうな顔をして頷いた。

 ミラは少女の手を引いて、詰所の裏で傷を洗い、椅子に座らせて救急箱を開けた。

「まさか目の前で自損事故とはね」

 冗談のつもりだったが、アリナはしゅんと肩を落として、ごめんなさい、と言った。

「いいよ。消毒しておくけど、後から腫れたり膿が出たりしたら医者にかかるんだぞ?」

「うん……ありがとう……」

 アリナがしおれた花のようになっているので、ミラは苦笑した。彼女は普段、活発でよくしゃべる子どもだった。

「……私に何か用だった?」

「え?」

「呼んでただろ? 私のこと」

 うん、と言って、アリナは首を傾けた。

「用事があったわけじゃないの。ミラを見つけて嬉しくなっちゃったから、それで」

「嬉しかったの?」

「うん。……仕事の邪魔じゃなかった?」

 これが仕事だよ、と笑って、ミラは消毒液を箱に戻した。

 アリナは怪我をしていない方のつま先をもじもじと動かして、言った。

「保安官の制服がかっこいいから、ミラに憧れるの」

 アリナの言葉に、ミラは思わず破顔した。

「そうかな。あまり似合ってないかと思ってた」

「そんなことないよ」

「私は本土の警官の制服の方が好きだったかな」

 アリナは大きな瞳でミラをじっと見つめて、言った。

「ミラは本土では警官だったんだよね?」

「そう、保安官はここだけ」

 正式には保安警察官ね、と言うと、アリナは天井を見上げながらしばらく考える顔をした。

「……警官の制服ってどんなだったっけ……」

「見たことはある?」

「うん……、でも」

 思い出せない、と言って、アリナは残念そうにうなだれた。

 少女を元気づけたい思いはあったが、ふさわしい言葉が思いつかないまま、ミラは擦り傷の手当てを終えた。

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