第4話 ハンモックの老兵
サースエストは今日も晴れていた。
昨夜の小雨はほどよく土を湿したようで、窓の外の木々はいっそう青々としていた。
抜けるような青空とあいまって、まるでこの世に陰鬱も憂愁もないかのようだ、と、ハンモックの上でダン・グリオリーは思う。
はるか北の国境線の記憶は、年を経るほどに色を失っていた。あそこは低く雲がたれこめて、一年のほとんどが寒かった。着るものも負うものも重くて、一日一日がやけに長く感じられたものだ。
そんなことを振り返ろうとしても、目の前の風景があまりにも明るく澄んでいるので、己の記憶はまるで夢のそれのように現実味がなかった。
外から人の足音が聞こえて、ダンは胸の上で腕を組み直す。ハンモックを吊った金具とロープが擦れて低い音を立てた。
戸を叩く音がした。
「開いとるよ」
答えると、ややあって戸が開いた。そしてようやくダンは客の方を見た。
立っていたのは、まだ顔立ちにあどけなさの残る少年で、利発そうな黒い瞳と成長期らしい細い手足が不釣り合いだった。
「こんにちは、その、読み終わった本を返しに来ました」
他に用もあるまいに、律儀な物言いをする少年にダンは心の内で笑ったが、それは顔には出ていないに違いなかった。
「早いな。また何冊か持っていくか」
カイン、と呼ぶと、少年は頷いた。
振る舞いを見る限り、カインは無口な子どもだった。彼が年相応にはしゃいだり、冗談を言ったり、格好をつけてみせるようなところを、ダンは一度も見たことがなかった。この年頃の子どもがそういうふうに見えるときは、単に内気なだけで、こちらに気を許していないからだと思っていたが、カインのそれは少し違うのではないか、とダンは思い始めていた。
カインは内気というよりも、慎重であるように思えたし、必要とあれば饒舌にもなりえるような気がした。
「あの、ここの本は、棚に並べておいてもいいですか」
ダンは振り返って、床に積まれた本とカインの顔を一瞥した。
「すまんな。適当に片してくれ」
「この山は、もう全部読んだんですか」
「読んだよ」
左右の壁面に本棚と、窓際に小さな机と、ベッドがあるきりの殺風景な部屋だった。せっかく棚を設えたのに、棚に収まっている本よりも床に積まれた本の方が多いのだから、我ながら暮らしへの関心が薄いと思う。
「この辺のは、新しい本ですか?」
「ああ、先週古本市に行って買ってきた」
「……すごいですね」
ダンは含み笑った。カインの声は、本当はもっと別のことを言いたいように聞こえた。
「──俺が国境警備隊にいた話はしたか?」
「はい」
「集団生活が長くてな、私物なんぞほとんど持てなかった。だから……無事に内地に戻れたら、好きなだけ本が読みたかった」
「……」
「一人の部屋で、静かに本を読みたかったんだ」
くっくっ、とダンは笑った。
「こんな歳になって、目もずいぶん悪くなったってのに、他にやることもねえから、未だに本を読むしか能が無ぇ」
脚を組み替えると、またハンモックがギイと鳴った。
カインは何も言わなかった。ただ本の表紙が擦れ合ったり、棚に据えられる音だけがしていた。
「……あの嬢ちゃんは元気かい」
ふと思いついたことを訊くと、え、と訊き返された。
「あの元気な嬢ちゃんだよ。確か赤毛の、小さな……」
「ああ……」
カインは了解したようだったが、興味の薄そうな様子で言った。
「アリナなら元気ですよ。それだけが取り柄だと本人が言ってますから」
「それが一番じゃねぇか」
子どもが元気なら何も言うことはねえ、と呟くと、カインは本を整頓するのをやめて少し黙った。
何か言いたいことがあるのかと思って待ってみたが、口を開く気配がないので、ダンは勝手にしゃべることにした。どうせ何を言ったところで、年寄りの面倒な繰り事だ。
「あの嬢ちゃんは……アリナだったか、本土の新聞を届けてくれたことがあってな。字が読めないのをずいぶん気にしてたよ。なんでも、歴史書が読みたいんだとか言ってな」
「歴史書?」
「この街の昔話が気になるんだそうだ。あのくらいの子にとっちゃおとぎ話と変わらんのかもしらんが……高台の方に城跡があるだろう。その窓からもちょっと見える。崩れかけの城壁の端っこがな」
指をさすと、カインは素直に窓に寄って、外に首を突き出した。
「あそこには王様が住んでたって話だ。ここは今じゃワグステンの一都市だが、昔は小国だったんだな。それを征服したのがリーデネスだ。二百年くらい前だったか」
「リーデネスはわかります。ワグステンに併合された国……」
「そう。だからここの歴史は、リーデネスに上書きされた上に、ワグステンに上書きされてるんだ。歴史を作るのはいつだって勝った国の仕事だからな。俺は学者じゃねぇから、ワグステンの本か、ワグステンの誰かが訳した本しか読んだことがないし、昔のことには大して興味もないが……」
カインは窓際からダンを見ていた。逆光になって、表情はよくわからなかった。
「……この街は植民地なんでしょうか」
「わからん」
ダンは首を振った。
「この街のことはわからん。最初の頃こそ、わかろうとも思ったが、今はそんな気もなくなった」
「……」
「俺は死ぬまでここで本を読んで過ごすんだろう。余生ってやつだ」
返事はなかったが、その代わりにカインの髪を揺らして風が入ってきた。
涼やかで、優しく、良い風だった。
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