第392話 されると思った?

 大学に入って以降も別に人間嫌いって訳じゃなかったし、孤高を気取ったつもりもなかった。ただ恥を掻く事や自分の情けない所を露呈するのが怖くて、極力他者と関わらないようにしていた。


 だけど高校までは普通に話し相手がいて、集団の輪の中にいる事を拒んだりもしなかった。


 いつからだろう。自分と他人との距離を大袈裟に捉え、必要以上の意味を持たせるようになったのは。


 きっとそれは処世術や人生哲学とは何の関係もなく、劇的なきっかけや引き金になる出来事もなかった。まして成長なんてものとはまるで違う。寧ろ退化の方がまだしっくり来る。


 だから俺は生前のピークを大学に合格した瞬間だと思っていたし、その自己評価は今も変わらない。

 

 ただ――――


「……」


 シキさんの顔が近い。かなり近い。これは俺が今考えていた事とは意味合いが違う。物理的な距離だ。


 でも、ここまで人に近付いて貰える人生じゃなかったのも確かで、それはそのまま他人との距離にも繋がる話だ。


 シキさんは俺が怒っているかどうかを確認しようとしていた。でもそれは顔を近付ければわかる事じゃない。この接近は言動とは全く関係がない。


 だったら、なんで?



「……」


「……」



 シキさんは無言のまま更に近付いて来る。俺よりも身長は低い筈なのに、いつの間にか顔の高さも同じくらいの位置にある。背伸びしてるのか?


 こんなに顔を接近させる目的って何? つーかこの体勢でする事なんて一つしかなくね? このまま顔が近付き続けたら、もうくっつくしかない訳で。


 何処が?



 そりゃ勿論――――



「あ痛っ!」


 ……頭と頭が。


 正確には額と額。人はそれを頭突きと呼ぶ。


 えぇぇ……なんで?


「怒ってないのに全然答えないから」


「いや答えわかってんじゃん……」   


 本気の頭突きとは程遠いから、大して痛くはない。でも不意打ちだった分ちょっと衝撃を強く感じてクラクラはする。


 っていうかさぁ……デコとデコをくっつけるってそんなカジュアルに出来る事かあ? 前々からそうだけど、この人スキンシップに抵抗なさ過ぎだよ……


「それと、尾行の罰。今の内に釘刺しておかないと、旅行先でストーカーになられたら寛げないし」


「しませんてそんな事」


「どうだか」


 特に頬を緩めもせずに、シキさんは相変わらず素っ気ない顔で冗談だか本気だかわからない事を言ってくる。単に俺をからかって楽しんでいるのか、それとも尾行の件を旅行前に清算してスッキリさせてくれたのか……


 わかんない。もう何が何だかわからない。


「そろそろ帰ろっかな。明日の準備しないと」


 乱高下するこっちの心情を嘲笑うかのように、シキさんは飄々とした顔で離れていく。おのれ小悪魔め。いつか逆に翻弄してやりたい。一生無理そうだけど。


 ま、何はともあれ旅行をキャンセルした訳じゃなかったのは一安心――――


「隊長」


 踵を返してホールから出て行こうとしたシキさんが、背を向けたまま立ち止まる。


「キスされると思った?」


「思ってない!」


「そ」


 そのままこっちに顔を向ける事なく、駆け足でギルドから出ていった。


 扉の閉まる音と同時に、全身が急激に熱を帯びた。



 ……なんだ今のは。



 えっキス!? キスって言った?! あのシキさんが!? 嘘だろ!!?!?


 いやいやいや……えぇぇ……マジで?


 待て、落ち着け。幻聴って可能性もある。突如俺の脳内に溢れ出した存在しない記憶かもしれない。妄想が暴走してシキさんにあり得ない事を言わせたのかも。


 でもなぁ……




 ――――キスされると思った?




 本当の答えは勿論わかっている。自分の事だからな。


 けど、もし違う答えを言っていたら……何か特別な事が起こったりしたんだろうか。それとも単にからかいのネタが一つ増えただけなのか。


 結論は出ない。考えれば考えるほど遠ざかっていく。でも考えずにはいられない。


 って事はつまり……





「ふぁ~あ」


「遅いですよトモ先輩! そんな体たらくじゃ温泉を満喫できませんよ?」


 ……当然のように寝不足な慰安旅行初日の朝を迎えるしかない訳で。棺桶から這い出て荷物纏めてホールに出ると、既にアヤメル他数名がギルドに来ていた。


 鍵は……ああ、シキさんがいるな。合鍵で開けたのか。


 ダメだ。目を合わせられない。まさか『キス』なんて言葉がシキさんから出てくるなんて夢にも思わなかった。ギャップがエグ過ぎて精神へのダメージが深い。まだクラクラしてる。


 別に生々しいとかじゃない。下ネタでもないし。でも二人きりで夜のギルドなんてシチュエーションでその言葉を聞くと、幾ら性欲薄めの俺でも意識せざるを得ない。


 つーかさ……


 あの人恋愛に興味ないって言ってたよな!? ホントかぁ!? つーか好きでもない奴にデコくっつけたりする!?


 ラブコメで体温を測る為に額をくっつけるシーンが偶にあるけどさ、好意ゼロでアレやる奴いるか? いないよな? いたら逆にヤバい奴だと俺は思うね!


 けどなあ……やっぱり違和感も相当あるんだよ。冷静に考えれば考えるほどシキさんはあんな事言わないって結論に近付いてしまう。


 誰かの入れ知恵とか?


 ヤメはこんな言わせないだろうから除外するとして……オネットさん辺りに『隊長の事ムカついたから復讐したいんだけど、どんな言い回しが効くと思う?』みたいな事を聞いたんじゃないだろうか。実際ヤバいくらい効いちゃってるし。


 ……ダメだ。こんな事考えて続けてたら折角の慰安旅行が一瞬で過ぎ去ってしまう。いい加減切り替えよう。


 眠い目を擦ってホールを眺めると、明らかに普段とは雰囲気が違う。修学旅行や家族旅行の時もこんな感じだったっけ? もう全然覚えてない。


「みんな張り切ってんな。温泉ってそんな楽しみになるもんかね」


「は? 何言ってるんですか? 当たり前じゃないですか」


 何気なく呟いた独り言にアヤメルが凄い剣幕で食いついてきた。狂犬かよ。


「温泉ですよ温泉。温泉に浸かったら心身共にクゥァ~って! こうクゥァ~ってなるでしょクゥァ~って!」


 途中で語彙死んでるじゃねーか。でもそれくらい温泉には魔力があるって事なのか。俺にはイマイチわかんねーな。大衆浴場とそんな差があるもんなんか。


 世界全体の傾向は知らないけど、少なくともこの城下町は衛生的。流石に各家屋に風呂がある日本ほどじゃないけど、大衆浴場だって別に不潔でも何でもない。料金だって格安だ。


 少なくとも今のところ、俺にとって温泉はそれほど魅力的じゃない。寧ろヒーラー温泉の所為で若干怖さすらある。浸かるだけで洗脳される……なんて事はないと思うけど、あれを実際に見ちゃったからなあ。


「フッ。こいつぁたまげたぜ。温泉の魅力もわからん若造がギルドマスターなんてやってるとはな」


 その声はダゴンダンドさん(69)! 間違いなく今回の温泉を一番楽しみにしているギルド員だ。


「そうは言いますけど、温泉って結構危険なんですよ? 急激な温度変化は身体に大きな負担を掛けますし、最悪命を落とす事だってあるって言いますし」


「ほう。意外や意外、中々精通しているではないか。若い割にやりおる」


 いや、ヒートショックは温泉に限定した知識じゃないんだけど……


「だが心配は無用。拙者はな、今回の旅行で昇天しても良いとさえ思っておる。それだけの覚悟が貴様にあるか?」


「ある訳ないでしょ……っていうか昇天はホントに勘弁して下さいね。シャレにならないんで」


「旅行中に死人が出て空気が悪くなると危惧しているようだが、それこそ心配無用。朽ち果てる時は笑顔と決めておる。決して辛気臭い空気にはせぬさ。このダゴンダンドを侮るなど五十年早い」


 そういう問題じゃないんだよなあ……やっぱりこういう所で文化の違いと言うか、価値観の断層みたいなのを感じざるを得ない。死生観が根本から異なる気がする。


「今まで最年長としてこのギルドを一歩引いた所から見守って来た拙者だが、今回の慰安旅行は誰よりも楽しむつもりだ。拙者が主役! 若造共に負けてなるものか! イィィィヤッホーーーォ!!」


 えぇぇ……70手前のジジイがこんな浮かれる? やっぱりこの世界の温泉って何か特殊な中毒性があったりするんじゃないか……?


「おはよう! ございます!」


 あ、オネットさんが来た。彼女も普段以上に生き生きしている。これも温泉効果なのか。


「ヒッ……」


 なんだ今の喉を締め付けられたニワトリみたいな悲鳴は。アクシーか? あの変態をあそこまで怯えさせるとは……完全に格付け完了してるな。どんだけ圧倒したんだよ。


「おはようオネットさん」


「不肖私、温泉なんて何年振りでしょう。ワクワクが止まりません」


「前に行ったのは新婚旅行とかですか?」


「よくわかりましたね。とても楽しい旅行でした。今でも目を瞑れば、当時のキラキラ光景を思い出せます」


 両手を組んで物思いに耽るオネットさんの表情からは、穏やかさよりも達観を感じずにはいられない。輝かしい過去を知れば知るほど今の夫婦生活を不穏に感じてしまう。


 今更だけど、旦那さんも旅行に招待すれば良かったかな。慰安旅行って家族同伴は一般的じゃないと思うけど、一度オネットさんの旦那さんには会ってみたいんだよな。危ない好奇心で。


「でも今は……今朝だって満面の笑顔で見送られてきましたし……きっと私が旅行中なのをチャンスだと思っているんでしょうね……帰ったらすぐに証拠集めしないと」


 あー、成程。温泉旅行が決まった時点でまた一つ強くなったんだな。旦那への憎しみと偏愛で。


 オネットさんには申し訳ないけど、彼女が強くなる分にはギルドとしてはありがたい。他人様の家庭に首を突っ込むのは野暮ってもんだし、暫くクズ旦那のままでいて貰おう。


「おはよう、トモ。晴れて良かったな」


 ん、今度はディノーか。今日は流石に女装じゃなかった。いや潜入捜査とか関係なしにやりかねないからな、今のディノーは。


「アヤメル先生もおはようございます」


「うむうむ。おはようディノー君」


 えぇぇ……


 もういいや。女装指南で色々あったんだろうけど何も聞きたくない。俺の知らない所で生まれる主従関係にまでいちいち気にしていられるか。


「あーぁ人生って下らねぇーよなぁ。もうどうでもいーよぉ」

「いい加減気持ち切り替えろってポラギよぉ。マイザーなんて誘ったって来る訳ねぇだろ。うへへぇ」

「そうそう。現実を受け入れて楽しまないとなあ。温泉最高。むひょひょ」


 マイザーにフラれたらしきポラギは口を常時半開きにさせたままフテ腐れ、ベンザブとパブロはアヤメルの方を見てデレデレしている。この気持ち悪いオヤジ共は早めに対策しておいた方が良さそうだ。


「アヤメル、もしセクハラ受けたら斬首まではOK。生首はシデッスが喜んで回収してくれるから」


「了解です! その為に切れ味重視の包丁に変えてきました。その名も【首狩り包丁】です!」


「酷い名前だな」


 まあでも抑止力にはなりそうだ。旅行中に身内から性犯罪者が出たらシャレにならないからな……


「ところで、ヤメからサブマスターの事ってちゃんと教わってる?」


「はい! それはもう、みっちりと! ヤメ先輩って常に根拠のない自信に満ち溢れてますし、私がなりたいサブマスターって感じで尊敬してます!」


 それは果たして褒め言葉なのか……?


 つーか、しれっと渾名呼び止めてんのな。ヤーりんなんて呼び方本当は嫌だったんだろうな。気持ちはわかる。強制的な空気で始まる渾名呼びって基本定着しないよな。


「おーし、みんな集合! これから馬車に乗って出発すっかんなー!」


 引率はヤメが担当するらしい。手配は全部あいつとフレンデリアがやってるから、適任っちゃ適任だ。


 通常、こんな朝早くから20人もの人数を運ぶだけの乗合馬車をチャーターする事は出来ない。でも今回、俺達にはシレクス家が付いている。フレンデリアの働きかけによっていとも容易く実現したらしい。貴族マジ貴族。


「ギューギュー詰めはヤメちゃん嫌だから二台頼んで貰ってっから。もうすぐフレっち達を乗せてギルドの前にやって来る予定――――」


「おはよう! さあ出発しましょう!」


 奇跡的なタイミングでフレンデリアがバーンと扉を開けて入ってきた。こんな朝っぱらからテンション高。


「うーし、そんじゃテキトーに乗り込めー! あ、シキちゃんはこっちな。ギマはあっち」


「足の裏で押すな!」


 人を害虫扱いしやがって……ヤメの奴、どうやら本気で旅行中にシキさんを口説くつもりらしいな。


 でも今の状況だと寧ろありがたい。シキさんが同じ空間にいるだけで少し落ち着かないからな。このままじゃ心臓に良くないから移動中に気持ちを整理しておこう。


 シレクス家が手配しただけあって、乗合馬車の中でもかなり高級なタイプだ。車両には一人掛けの座席が2列に並んで設置されている。安い奴だと立ち乗りだからな。旅行の移動中にしんどい思いはしたくないし、かなり助かる。


 みんな我先にと乗り込んでいったから、俺が最後だ。まあ車酔いとかは特にしないし、どの座席でも問題はない。


 さて、誰の隣になるのか――――



「運命から加齢臭がします。私はそれを訓示と受け取りました。この臭いを洗い流すには清らかなお湯に全身を浸してイリスを待ち焦がれる以外にないと天は私に囁きかけた星の瞬き。気付けば冬も本格的に到来して空気を凛々に渇かしています。イリスはきっと温泉に浸かるのでしょう。私はそれを少し離れた場所から祈るように見守るのです。お湯には契約があって盟約を制約して締約していて、私にこう伝えて来ます。『呼吸するのは暫定的な生の縮図。身体の中にイリスの吐息の微かな残滓を入れて運命共同体の契りを交わしなさい』と。私はそれを嘘だと罵りました。私の強がりです。けれど私は濁流の波に呑まれ、このあどけない宿命を受け入れる事にしました。円環は未来と現在の迷宮曲線にして葬礼。イリスが私を導く時、私もまたイリスに導かれているのです。私の言葉です。底辺を這いずり回る毛虫には無数の毛があって、その一本一本に重大な意味があって、長い長い進化の果てにその本数へと辿り着きました。そんな毛虫をそっと踏み潰して私は今を生きています。命儚し滅せよ乙女。英霊となった毛虫はきっと私にそう語りかけてくるでしょう。明くる日の朝日は私の頬と真っ白な大地を赤く染めます。今日の日よさようなら。私はこれからイリスの愛を全身で……」



 ……こうして慰安旅行は地獄のようなスタートを切った。




 


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