第277話 ベヒーモスの正体
ミッチャの背後に突如出現したその巨体は、牛のようであり、サイのようであり、馬のようでもあった。
禍々しく伸びた角は湾曲を描き、肉体の厚みは当然ウーズヴェルトやメデオの比じゃない。そして妖艶な赤い眼は、周囲が明るくても関係なく燦然と輝きを放っている。燃え盛る炎というよりは、血が染みた雪の様に。
「グロロロロロ……」
この場所はかなり天井が高い事もあって、ベヒーモスは屈む事なく空間内に収まっている。その所為もあって、以前よりも威圧感は更に増している気がする。
――――初めてこの異世界に転生して、こいつと遭遇した時よりも。
どれだけ日々が忙殺されても、あの日の事は忘れない。冒険者になってフィールドに出て、コレットと出会って……モンスターと戦っている最中にこの悪魔が現れたんだ。
あれから俺も色んな経験を積んで、様々な強敵と戦って来たけど、このベヒーモスの迫力は他のどの敵とも比較にならない。間違いなく別格だ。
でも……何故だ?
幾らミッチャが俺より遥かに優れた召喚士でも、この化物を喚び出せるとは到底思えない。そもそも召喚に応じるような奴なのか……?
「……」
振り向いた状態で固まっているミッチャの様子を見る限り、奴が意図的に召喚したとは思えない。でも天井や地面を突き破って現れた訳じゃないから、普通にやって来たとも思えない。
もしかして、召喚に失敗したら想定してない奴を呼んでしまう召喚事故みたいなのが起こったりするのか? 悪魔合体で失敗した時の合体事故みたいな……
「あ、あ、あ……」
そのミッチャ、さっきまで放っていた魔王然としたオーラは一瞬にして消え失せ、完全にベヒーモスに呑まれている。1日どころか3分天下だったな。これから奴の事は
とはいえ、奴の狂気が紛いものだった訳じゃないと思う。レベル47のミッチャがトランス状態でも思わず我に返るくらい、このベヒーモスが桁違いの威容を放っているんだ。
「だ、誰か助け……」
縋るように自分が召喚した軍勢を頼ろうとしたミッチャだけど、その声に応える者はいない。ケルピーはとっくに全員逃げ出していたし、モンスターの幽霊に至ってはこぞって自主成仏していた。
こんなの、俺達に手に負える相手じゃない。
「おい! お前が召喚したんじゃないんだよな!?」
「当たり前でしょ!? こいつベヒーモスって言う伝説の悪魔よ! 歴史の教科書に載ってるような化物なんだから!」
レジェンドかよ。そんな奴と初日に遭遇してたのか俺。しかもレベル18で。まあ今もそうなんだけど。
「なんで……? わたしのザックやメイメイへの憎悪が濃過ぎて、この悪魔を引き付けたの……?」
うーんどうだろ。絶対に違うとも言い切れないのが悩ましいところだ。実際、さっきのコイツはある意味闇堕ち状態だったからな。悪魔は悪魔と引かれ合う、みたいな性質があるのかもしれない。
「何にしても、このままじゃ俺達の命がヤバいぞ。どうにか穏便に帰って貰う方法はないのか? テイマーなんだから悪魔と会話くらい出来るんだろ?」
「契約してない悪魔相手に出来る訳ないじゃない! テイマーを何だと思ってんのよクソボケ!」
ンな事言われても……俺の中じゃテイマーってデカくて白くてモフモフなフェンリルと普通に会話してるイメージなんだもん。フェンリルがイケるならベヒーモスもイケるって思うだろ? これが解釈違いってやつか。
でも……待てよ。前にベヒーモスと遭遇した時、脳内に直接語りかけてこなかったっけ? なんか軽いノリで話しかけられた記憶があるような……
コイツがその時と同じ個体って保証はないけど、伝説の生き物が二体も三体もいるってのも妙な話。ここはいっちょ、ダメ元で話しかけてみるか……?
「ねえ! アンタ、ちょっとは戦えるんでしょ? 時間稼いでよ! その隙にわたしが逃げるから!」
「なんでその要望が通ると思うんだ……?」
ここまで自分に素直だと逆に好感すら持てるわ――――と一切ならない所が凄い。アイザックに甘やかされて来た所為で、すっかり世間知らずのワガママお嬢様みたいになっちゃったんだな。あの自爆野郎、いなくなっても迷惑かけやがって。
「逃げたいなら勝手に逃げろ。奴が大人しく見逃すかどうかは知らないけどな」
「はぁ……それもそうね。アンタ如きが足止め出来る相手じゃないし」
如何にも性格破綻者らしく、ミッチャはムカつく悪態をつく事で自分の精神状態を立て直したらしい。覚悟を決めた顔になった。まあ、これほどの化物を前にすぐ自分を取り戻せるあたり、終盤の街の住民らしい風格だけは感じる。足は震えてるけど。
「何でも良いから奴の気を引いて。その隙に、より大きな隙を作れそうな精霊を召喚してみるから。運が良ければどっちかは生き残れるかも」
「その役回りだと、どう考えても先に死ぬのは俺だな」
「そうなる事を切に願ってるのよ、こっちは」
きっと本音なんだろう。でも、ベヒーモスがどういう理屈で、またどんな目的でここに現れたのかが不明だから、その願いが成就するとは限らない。寧ろミッチャが狙われる確率の方が高いんじゃないだろうか。俺は一度見逃された経緯があるし。
……仕方ないか。こんな奴でも、目の前で死なれたら目覚めが悪い。
「おいベヒーモス!」
遥か上を見上げ、奴の顔へ向けて右手の拳を突き上げる。
そして――――
「うぇーい」
普段決して使わない、モーショボーのようなノリの挨拶を言い放ってみた。
「……何それ? 挑発にしたって……アンタそんなに早死したいの? 死ぬのは良いけど秒殺されたら困るのはわたしなんだけど?」
ミッチャの心底軽蔑するような声に若干イラっとはしたけど、概ね納得はしている。実際、もし俺が逆の立場だったら『こいつ恐怖のあまり頭イカれやがった』としか思わん。
ただ――――
『うぇーい』
俺の知っているベヒーモスはウェイ系。案の定ノリノリで脳内にそう返してくれた。どうやらあの時のベヒーモスで間違いなさそうだ。
『ビックリした? 突然我が現れてビックリした? ビビってチビった?』
「驚きはしたけどチビらねーよ」
「……は? 何言ってんだこいつ」
ミッチャが毒電波食らった奴を見る目で見ているけど、この際無視だ。今はそれどころじゃない。
「こんな鉱山に何の用だ? 何が欲しい物でもあるのか?」
『まーね。そこにいる小娘が持ってるらしいから、ちょっと確認しにね』
うわちゃー。やっぱ狙われてるのはミッチャだったか。って事は俺、完全に無関係だよな。マジで巻き込まれ体質だなこの身体。14年も虚無をキープした俺とは真逆だ。それで得する事もあるけど、今はただ憎々しい。
『ラルラリラの鏡を持ってるか、聞いてくんない?』
「……!」
そうじゃないかとは思ってたけど、やっぱりモンスターの邪気を消したっていうアイテムはラルラリラの鏡だったのか。
くそ……このままベヒーモスに奪われたら、取り戻すのは不可能になる。シキさんとの約束が……
なんとかミッチャに『持ってない』って返答させる事は出来ないか?
……ダメだ。本人が目の前で話を聞いてるのに、そんな細工できる訳ない。
「おい。ラルラリラの鏡ってアイテム、お前持ってるか?」
「は? 急に何? 今それ関係ある?」
「大ありなんだよ。で、持ってるのか? 持っていないのか?」
ここで『持ってない』と答えたら、俺達は用済み。一瞬で殺されるかもしれない。だから目配せで『持ってないと答えろ』と訴える訳にもいかない。万事休すだ。
「持ってるけど……あんなマイナーなアイテム、何で知ってんのよ。キモ」
「マイナー? レアアイテムじゃなくて?」
「レアはレアだけど、邪気を払うアイテムなんて需要ないでしょ? 有名になりようがないじゃない。わたしは偶々ニーズと一致したけど」
そうなのか。始祖とシキさんと怪盗メアロがこぞって口にしてたから、寧ろメジャーな部類だと思ってた。
ま、有名なアイテムだったらとっくに怪盗メアロが手に入れてるわな。奴の怪盗歴も大分長いみたいだし……
……怪盗メアロ?
「グロロロロロロロロロロロロ!!」
「ひいっ!」
突然のベヒーモスの咆哮に、ミッチャが思わず頭を抱えて身を竦める。もし意思の疎通が出来ていなかったら、俺も同じリアクションをしていただろう。
でも、俺にはわかる。今のは歓喜の叫びだ。
『クックック……やはりか! やはりこいつが所持していたか!』
ほぼ同時にこんな声が脳内に響いてきたから。しかも脳内優先らしく、どんな大きな雄叫びでも声はクリアに聞こえて来た。この同時通訳はありがたい。
『フフン。我の見立てに間違いはなかったな。もうここに用はない。あーばよ』
「え……?」
本当に確認だけ? 鏡を欲している筈なのに、奪うつもりはないのか……?
意表を突いたその帰宅宣言に戸惑っていると、ベヒーモスは禍々しい漆黒の翼を広げ始めた。そういやコイツ、飛べたんだっけ。
……ちょっと待て。ここは鉱山の中だぞ? まさか天井をブッ壊して外に出る気か?
ふと、職人ギルドで開催された五大ギルド会議の事を思い出す。あの時も、あのバカが天井をブチ抜いて去って行った所為で瓦礫の下敷きになりかけたんだ。
危険度はその時の比じゃない。あんな高い位置から岩の破片が落ちてきたら――――即死だ。
俺には死を意識したら自動出力される虚無結界がある。でもこれは絶対じゃない。そう都合良く命が助かる保証なんて、何処にもないんだ。
「待て! 帰るな!」
「え?」
幾ら俺を全力で見下しているミッチャでも、そろそろ俺がベヒーモスと会話している事に気付いただろう。それは別に良い。問題は、このまま帰られてしまうと俺達が絶体絶命の危機に瀕するって事実だ。
『ん~? そんなに我が帰るのが嫌か? もっと遊んで欲しいのか? そーなのか?』
「お前……わかってて言ってるだろ」
『えー? 何の事? 我バカだからわっかんなーい』
最早、隠す気もないらしい。だろうな。最初からこいつはずっとこんな感じだった。
「ちょ、ちょっと! 何よ今の! まさかあんた、この化物と……」
「良いから黙ってろ」
「はぁ!? あんた如きがわたしにそんな口――――ひっ」
いつもの調子で悪態をつこうとしたミッチャが、ベヒーモスに一睨みされた途端に顔を引きつらせた。
ミッチャも性悪ではあるけどバカじゃない。さっきからずっと、対抗する為の精霊を召喚する機会を窺ってはいる。でも、それすらベヒーモスは許さない。
下手に動いたら死ぬ――――
そんな圧力を、ずっとかけ続けている。
でも今の睨みは、なんとなくそれとは違う気がした。
『そう言えば、お前を初めて見つけた時も女連れだったな。ホント、女とばっかいるなお前』
「いや、それは偶然で……さっきはディノーと二人だったし」
『ああ。我が化けたあいつか。実力の割にヘボいな、あれ。役に立ってなくね?』
「それ本人気にしてるから絶対言うなよ」
……最早、ベヒーモスと会話している感覚はないに等しい。目の前にこんなバカでかい化物がいるってのに。
既に恐怖心もなくなっている。危機感の欠如と罵られても否定できない。
でも、仕方ないだろ? 今更このイタズラ好きで奔放で神出鬼没なメスガキに対して危機意識を持つのは無理だ。
俺達は、近くなり過ぎていた。だから今まで気付かなかったのかもしれない。
初めて会った時から、見た目に反して妙にノリが軽かった。違う姿で会った時は敵同士だった。捕り逃がした時の悔しさは今でも忘れていない。
でも、奴はそれから何度も俺の前に現れ、その度に軽い口調で変な掛け合いをして、貴重な助言を貰った。協力も共闘もした。
敵か味方かと問われれば、もう味方として接している割合の方がずっと多い。最近見かけなかったから、少しだけ寂しさを覚えていたのは誰にも言えない秘密だ。
だから――――こんな状況なのに、少しだけ気分が良い。そんな自分を認めざるを得ない。
『ラルラリラの鏡は我が頂く。ただし、ちゃんと予告状を出してだ。この姿で脅して奪うなんてセコい真似はしない。我は――――怪盗だからな』
怪盗メアロ。
それが、目の前で愉快そうに喉を鳴らしている伝説の悪魔、ベヒーモスの正体だった。
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