第202話 身体を拭く瞬間を実況生中継している今が人生のピークか

 シキさんが目覚めると、俺の視界も一気に広がり、見慣れない天井を映し出していた。


 窓から差し込む僅かな光が、現在の時間帯を報せてくれる。どうやら、まだ夕方にもなっていないらしい。



 ――――この就床を経て、わかった事が幾つかある。



 始祖によってマギの塊……魂的な何かと化し、シキさんに寄生している今の俺は、宿主のシキさんが眠ったからといって意識が途絶える訳じゃないらしい。心を共有していない時点で予想はしていたけど。


 ただし、眠っている間ずっと視界は閉ざされたまま。俺自身には眠気もないし腹も減らないから辛くはないけど、暫く暇だった。


 とはいえ、憑依先がシキさんじゃなかったらもっと時間を持て余していたかもしれない。彼女の睡眠時間は怖ろしく短かった。正確な時間経過は不明だけど、感覚的には3時間……もしかしたら2時間くらいしか寝ていないかもしれない。


 シキさんの担当は夜だから、明日まで眠る訳にはいかない。でも、あと数時間は寝ていても問題はなかった。この世界は目覚まし時計なんて存在しないし、正確な時刻を告げる時計も王城の時計台にしかないから、時間には基本アバウト。何時までに集合、みたいなキッチリした活動を行う習慣自体がないから、夜集合っつったら辺りが暗くなってから向かう、くらいの感じだ。


 それだけに、この早起きは意外だった。緊張で眠れないようなタマでもないし……ショートスリーパーなんだろうか? もしそうなら、元暗殺者の肩書きに見合った性質ではある。


 彼女が寝泊まりしているこの宿もそうだ。


 アインシュレイル城下町は観光目的で来る人間は皆無で、腰を据えて魔王討伐に取り組むため自宅を購入する者も多いらしい。それでも冒険者を中心に宿暮らしの人は結構いて、この世界の建築様式にビル的な構造がなく一件あたりの収容人数が少ない事もあって、宿の数自体は多い。確か50は超えていたと思う。


 シキさんが泊まっているこの宿は、その中で最も日当たりの悪い宿だった。路地裏にひっそりと佇んでいて、一見すると宿屋には見えない……というか出入り口さえ見当たらない建物。それもその筈、この宿の出入り口は二階にしかない。しかも窓。隣の建物とは数十cmしか隙間がないから、壁伝いで上るのは難しくないみたいだけど……まるで忍者のからくり屋敷みたいだ。暗殺者向きの宿って感じがする。


 宿泊料は不明。フロントに人影はなく、シキさんは勝手にロッカーから鍵を取って、それで自室へと入っていった。恐らくシキさんが特別なんじゃなく、それがこの宿のルールなんだろう。究極のセルフサービスだ。


 そんな通好みの宿を選んだシキさんの真意はわからない。独り言なんて一切発しないから、彼女の心情を推し量る事は全く出来ない。


 部屋に入ったシキさんは特に何をするでもなく、すぐベッドに入ってすぐ眠りに就いた。夜間の任務があるから当然だけど、正直ちょっとホッとした自分もいる。ただでさえ私生活を覗き見している罪悪感でいっぱいなのに、シキさんがアレとかアレとかアレとかアレを始めようものなら、もう彼女の顔を正視できなくなるところだった。幸い今のところ彼女の尊厳に抵触するような出来事はないけど、取り敢えず報酬は倍にしなきゃなって気はしている。


 起床後のシキさんは、暫く天井をじっと眺めていた。その時間がまどろみの中なのか、それとも悪夢に魘されていてその残像を振り払おうとしているのかはわからない。ただ、起き上がるまでに要した時間は10分を超えていたと思う。


 そして―――


 水桶の水で手拭いを濡らし始めた。


 ……間違いない。


 身体を拭く気だ! 水浴びしない代わりに寝汗を拭うのか!


 これはヤバい……今の俺はこの場から立ち去る事も、目を閉じる事さえも出来ない。完全体のピーピング・トムだ。


 お、俺が悪いってのか……? 俺は……俺は悪くねえぞ。だって始祖がやったんだ……確かに俺は怪盗メアロの行動を監視したいって趣旨の事を始祖に話したけど、こんな方法を提案したのも、憑依する相手を選んだのも始祖。こんな事になるなんて知らなかった! 誰も教えてくれなかっただろっ! 俺は悪くねぇっ! 俺は悪くねぇっ!!

 

 うわっ、全身全霊をかけて馬鹿な言い訳している間に視界が真っ暗に! 顔を拭いているのか……?


 ようやく目の前が明るくなったかと思えば、間髪入れず上着が塞いできた。これは……服を脱ぎ始めましたね!?


 うわーこれちょっと何これ! なんかエッッッロ! 水浴びしてる所覗くより生活感あってエロいなオイ! 性転換を願うファッキウ達がこういうのを望んでる訳じゃないのは知ってるけど、なんか一瞬羨ましくなってしまった。


 ……って、落ち着け俺。冷静に考えて、多分胸は見えない。いやサイズがどうこうってんじゃなく、身体を拭く時に胸って見ないし。


 でも下半身はどうだい? 俺は男だから女性が下半身を拭く時どうしているのかは知らんけど、これは見えちゃうかもしれないのでは!?


 ダメだ。もう30過ぎなのに、この特殊なシチュエーションに昂揚してしまっている自分を否定できない! つーかもうね、興奮するっていうより生々し過ぎて犯罪臭が半端ねーわ! 別の意味の動悸だろこれ!


 いわゆる女性用下着は多分この世界にはないらしく、シキさんはコルセットも付けていない様子。チラッと映ったインナーは普通のシャツっぽかった。


 多分、下も脱いだ……と思う。視界には映らないけど。


 つまり、今シキさんは裸。ヤバい、心臓もないのにやたらドキドキしてきた!


 五感を共有しているから、拭いている箇所も手に取るようにわかる。肩、脇、腕、そして――――胸。シキさんらしいというか、念入りって感じじゃなく淡々と拭いている感じだ。


 今のところ、視界が動く気配はない。でも俺だって上半身を洗う時にいちいち身体は見ない。ここまでは想定内だ。


 全てはここからだ。


 ヤベーな……何だこの緊張感。もしかして異世界に来て今が一番緊張してるんじゃないか?


 いや、人生で一番では?


 他人の五感を勝手に借りて、身体を拭く瞬間を実況生中継している今が人生のピークか……俺の人生って一体……


 ええい、深く考えるな! 客観的に見て変態とか犯罪とか、そんな事は今考えるな。後で凄まじい自責の念に駆られるとか、そんな事は今はどうだっていい。見えるか、見えないのか。大事なのはそれだけだろうが!


 角度的にハッキリとは見えないかもしれない。なんか期待してたのとは違うかもしれない。つーか思春期かよって自分にツッコミ入れたくもなる。


 それでも俺は……俺は……!



「ふーっ……」



 ん? あれ?


 今……脚拭いてる? あれ? 髪? 頭……?



 終わったの!? もう終わり!?



 えぇぇ……視界が一切動かなかったんですけど……


 シキさん、全然見ないで下半身拭くタイプ? マジで? 女性ってそれが普通なの?


 ああ……なんか服着始めた……


 しゅーりょーです。祭りは終わった。短い第二次思春期でしたね。そして身体がないから別に性的興奮もしてないという……何だったのこの時間?


 娼館での事件といい、エロそうな案件に遭遇する割には全然艶っぽくない人生だよな、俺。やっぱ30代補正とかあるんかね、運命とかラッキースケベにも。


 はぁ……


「はぁ……」


 奇跡的に、シキさんの溜息とリンクしてしまった。勿論、俺の方は実際に息を吐いた訳じゃないけど。


 その溜息の直後、シキさんは自分の頬を軽く叩き、颯爽と部屋を出た。二階から特に何の抵抗もなく飛び降り、大した衝撃もなく着地。人間離れした身のこなしだ。


 行き先はベリアルザ武器商会……じゃない。方向が違う。


 まだ時間には余裕があるし、買い物でもするんだろうか?


 街中を淡々と歩くシキさんの足下から、地面を叩く音は聞こえて来ない。ごく自然に忍び足。こういうところも含めて、随時くの一っぽいんだよな、この人。


 何処へ向かう気なのか……


 ん? この辺には確か……そうだ、商業ギルドが近くにあった筈だ。この街を生活の拠点にして早5ヶ月。大分地理に明るくなった。


 お、やっぱり商業ギルドが目的地っぽいな。一直線に正面玄関に進んで行ってる。


 なんとなくシキさんって裏口から誰にも気付かれず侵入しそうなイメージだけど、流石にそんな無意味なスタイリッシュ入店はしないか。


「ギルドマスターいる? 取り次いで欲しいんだけど」


 カウンター越しに受付嬢へ不躾な要求。当たり前だけど、俺が見ていない所でもシキさんは変わらんな。敬語使ってるところも見てみたい気がするけど。ギャップ萌えしそうだし。


「あの、事前にアポイントメントは……」


「【シーク】が来たって言えばわかる。時間がないから早くして」


「は、はあ」


 言葉は威圧的だけど、受付嬢の表情に恐怖や狼狽は見られず、淡々と奧の職員に事情を説明していた。こういう客は慣れているのか、意外とシキさんの表情が穏やかなのか。


 何にせよ……シークって何だ? シキが偽名なのは何となく予想してたけど、シークってのが本名とも思えない。偽名に近過ぎる。普通の感覚なら、偽名って本名には寄せないよな。シークがコードネームで、それを少し変えてシキって名乗ったのか?


 ……わからん。取り敢えず、商業ギルド側の反応を待とう。


「お待たせしました。こちらへどうぞ」


 シキさんの要求は無事通ったようで、受付嬢じゃない女性スタッフが迎えに来た。


 っていうか……商業ギルドに女性っていたんだな。ヤクザの溜まり場って印象しかなかったから、野郎だけかと思ってた。


 意外な事に、案内されたのは通常の応接室じゃなく、五大ギルド会議で使われていた地下の会議室だった。この事からも、シキさんが只者じゃない事がわかる。やっぱり元暗殺者って肩書きはフェイクっぽいな。


「よう。待たせたな」


 程なくして、会議室にバングッフさんが部下を連れて入って来た。


 かなりガッチリした身体だし、恐らくボディーガードだろう。頭は角刈り……あ、怪盗メアロが化けてたのってコイツかあ。そう言えば前に一回見たな。何時だったかはハッキリ覚えてないけど。


 生前の世界なら、こんなプロレスラーみたいなマッチョ一目見たら忘れないと思うんだけど、この世界、この街にはもっとヤバい奴が幾らでもいるからな。


「今のギルドは居心地良いかい?」


「雑談しに来たんじゃない。さっさと座ったら?」


「へいへい。相変わらず殺伐としてやがるっつーか……ま、嫌いじゃねぇんだよなぁ」


 心なしか、バングッフさんがやたら馴れ馴れしい。この様子だと前々から知り合いだったっぽいな。まあ今の反応見る限り、親しくはなさそうだが。


「珍しいんじゃないか? 今のお前さんが一人で来るなんてよ。昔はそりゃ、一人が当たり前っつーか、一人以外はあり得なかったんだろうが」


「昔の話はしないよ。私は今協力して貰いたくて来たんだから」


 一人以外はあり得ない……何処にも所属せず、パーティも組まずソロで動いてた感じか? 少し前のコレットみたく。


 まあ、シキさんって群れるタイプじゃないから妥当と言えば妥当だけど。


 にしても、商業ギルドに協力を要請って……


 あ、まさか! 俺を探して欲しいって頼みに来たんじゃ――――


「あの趣味の悪い品揃えの武器屋と古い付き合いなんでしょ? あそこに眠ってるお宝について、教えて貰おうと思ってね」


 はい自意識過剰でしたすいません。だってディノーがあんな事言うんだもんよ。なんか親身になって探してくれてるって思うじゃん……


 それよりも、問題は『お宝』だ。


 まず間違いなくフラガラッハの事だろうけど……そうか。武器屋の御主人とバングッフさんは城に勤めていた頃からの知り合い。ベリアルザ武器商会にフラガラッハがあるって事を知っていても不思議じゃないし、もしかしたらその保管場所を把握しているかもしれない。その情報を探りに来たのか。


 俺はシキさんに二人が旧知の仲だって話してはいない。別ルートで仕入れた情報なんだろう。


「チッ、とうとう嗅ぎつけちまったか」


「知ったのは偶然。そもそも今の私には関係のない物だから」


 ……?


 今の物言いだと、昔はフラガラッハと関係があったって事だよな。それがウチのギルドに入った理由って訳じゃなさそうだけど……


「で、その無関係の代物について今更何が知りたいんだい?」


「武器屋の何処に保管されているか。知ってるなら教えて」


「おいおい。もう関係ないんだろ? まさか盗み出す気じゃないだろな?」


「……盗むのは私じゃない。怪盗メアロから予告状が来た」


 ありゃりゃ……喋っちゃったよシキさん。職務上知り得た秘密の漏洩はちょっと困るな……守秘義務の項目は契約書にしっかり盛り込んでた筈なのに。


 今回、依頼人の御主人は明らかに予告状や怪盗メアロに狙われた事を広めて欲しくない、誰にも話して欲しくないってスタンスだった。契約を交わした訳ではないと思うけど、だからといって他者に提供していい情報じゃない。


 勿論、それがわからないほどシキさんはおマヌケじゃない。バングッフさんに協力を仰ぐ上で話す必要があるのはわかるけど――――


「このままだと確実に盗まれる。怪盗メアロが盗むと言って、盗めなかった物はないからね。今回も、過去の事例を覆す材料は何もない」


 ……そうか。やっぱりシキさんは誰よりも怪盗メアロを警戒しているんだな。だからディノー達に対策の確認をして、少しでも光明を見出そうとしていたんだ。


 でもダメだった。だから、規律違反を覚悟で新たな協力者を見繕ったのか。


 理屈はわかった。だけど、解せない事が一つある。


 何故そこまでして、シキさんは今回の任務を遂行しようとしているのか――――


「あの武器屋の主人は、フラガラッハが盗まれるのを極端に恐れているように見えた。価値のある伝説の武器だから……って訳でもなさそうでね。気になったんだ」


「何がだ?」


「惚けないで欲しいね。もう私が聞きたい事は大体予想できてるんだろ?」


「……まあな」


 眼前のバングッフさんは眉間に皺を寄せて、露骨に険しい顔を作った。


 俺も、あの御主人の様子は気になっていた。シキさんの言うように、フラガラッハの希少性や価値を気にして盗まれるのを恐れているようには見えなかった。


 御主人があれだけ不安を前面に出す場合、その理由となり得るのは、俺が知る限り一つ……いや、一人しかいない。


「あの剣を失えば――――」


 ルウェリアさんに関してだけだ。



「ルウェリアは死んじまうかもしれねぇ」



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