最終話 斯くて彼女は落陽に消える
雪が降っていた。
重なった灰色の雲から、はらはらと、はらはらと。
積もる程ではないものの、そのせいで一段と気温が下がったらしく、道を行き交う人々の顔は赤く、吐く息は白い。
繁華街のアーケードから猫の通り道のような裏道を進んだ先に、そのバーはあった。懐古趣味なネオンが形作る店の名前は『カルコサ』という。
十人も入れば満席になるような小さな店には、初老のバーテンの他に二人の客がいた。
一人は黒い女だった。髪にはじまり、コート、マフラー、ズボン、ブーツ、目にかけているゴーグル式のサングラスまでもが黒い。足下に置かれたキャリーケースもまた黒い光沢を放っていた。
もう一人は男だった。やや皺のついたグレーのスーツを着ており、生真面目そうな顔で、彼女に勧められる酒を断っていた。
「それじゃあ、事件は迷宮入り、ということかな」
琥珀色の液体の入ったグラスを傾けながら、肆鶴は隣に座る羽生に目をやった。羽生は苦笑して小さく頷く。
「そういうことになりますね。お恥ずかしい限りですが」
警察署で事務処理をしていた羽生に、肆鶴から電話がかかってきたのは今より三時間前の話である。縄月宗一の事件からは半年が経っていた。当時はネットでも盛んに騒がれていた事件だが、大衆は移り気なもので、その後に起きた芸能人のスキャンダルやら政治家の汚職やらのニュースに話題を掠われ、いまや語る者も殆どいない。
肆鶴曰く、これから長い旅行に出るので、その前に事件の顛末を聞いておきたい、とのことだった。
本来なら刑事がペラペラと一般人に捜査状況を話すのは不味いのだが、相手が彼女なら話は別である。むしろ、羽生の方から彼女には報告をしておきたかったのだ。彼女にしか話せないことがあまりに多過ぎる。
「凶器は見つからず、動機は不明、犯人も不在。一応、縄月薫が容疑者となっていますが、彼女は病死してしまいましたからね」
羽生が憮然として語る内容が、警察が事実として捉えていることの全てだった。しかし、それが真実でないことは、あの現場にいた人間ならば誰もが知っている。
凶器は『でれみすさいもん』によって召喚された〈げだうのへび〉であり、犯人は妻の縄月薫であり、動機は夫の持つ秘伝書の強奪である。
だが、これらを現実として取り扱うことなど警察には出来なかったし、羽生もまた報告しなかった。出来ないこともなかったが、正気を疑われるのがオチである。事実、事件に巻き込まれた大瀧は錯乱した証言を強弁したため、休職扱いになり病院で毎日カウンセリングを受けているという。
それでも、廊下に残った異形の生物の死体が、縄月薫のものであることだけは証明された。DNA鑑定というこれ以上ない科学的な方法によって。
ただ、どのような理由でそうなったかまでは判明せず、急病によって病死したとするのが精一杯だった。死体は速やかに火葬されたため、間近にアレを見たものは羽生達を除けば僅かしかいない。
また、警察署が蛇に包囲された動画がネットに出回るという事件もあったが、これは公式に警察が否定したことや、動画がCGによる合成でありその作者を自称する犯人が名乗り出たことにより、すぐに沈静化した。その犯人が何者なのかは、永久に誰にも解らないだろう。根回しをした人間達以外には、決して。
「それでいいだろうさ。神秘が表に出て良いことなんてありはしないからね」
肆鶴は鼻を鳴らして、グラスを揺らした。甘い香りのする黄金の液体の中で、丸い氷がクルクルと踊り、心地よい澄んだ音色が奏でられる。
「でも、意外でした。上がこんなにマトモに対応するとは思っていなくて……」
迅速すぎる警察の対応は、羽生の予想を裏切るものだった。職員に箝口令を敷いたり、情報を揉み消したり、あるいは嘘をでっち上げたり、その手際の鮮やかさは手慣れているとすら思えてくる。
「呪術など存在しない方が都合が良いのだよ。君だって、現実的な事件で手一杯だろう?」
意地悪そうに笑う肆鶴に、羽生は反論出来なかった。確かに、世の中の全ては現実に存在するとされるものを処理することによって成り立っている。ここにあり得ざる別の存在が現われたら、様々なところで障害が起きてしまうに違いない。情報の隠蔽と捏造はそれを防ぐ為の予防措置とも言えた。
「未優ちゃんはどうなりました? 肆鶴さんが後見人になったんでしょう?」
羽生は前々から気になっていたことを、肆鶴に尋ねた。
事件後、両親を亡くした未優は施設に預けられることになった。彼女自身がそれを望んだこともあり、両親の知人である肆鶴が後見人となることで決着したのである。もっとも、肆鶴が裏で色々と働きかけていたようだが。
「元気にやっているらしい。あの子が祖先の生まれ変わりというのは、私の見込み違いだったかもしれないな」
熱い息を吐いて、肆鶴は微苦笑を浮かべた。ただ、濃いゴーグルの下で、その瞳がどんな色を浮かべているのかまでは解らない。
カウンセラーによって解離性同一性障害の疑いをかけたれていた未優だが、現在はその症状も治まり、ごく普通の少女として生活している。文字通り、憑き物が落ちたかのように。
「真実は闇の中だが……確かに因果は応報された。その事実だけで充分だ」
独り言のように言って、肆鶴はグラスを淡い照明に翳してみせる。星のように煌めく氷塊を見つめる彼女の横顔には、不思議な満足感のようなものが浮かんでいた。
「まあ、悪い仕事じゃなかったよ。コレクションも充実したことだし」
口の端をニッと持ち上げて、肆鶴はキョトンした顔の羽生に目配せした。
事件の証拠品である『でれみすさいもん』は、現在は肆鶴の一時的な所有物になっていた。彼女に分析を依頼しているという体なのだが、本来ならこれ以上捜査の進展の見込みが無いと判断されたら、回収する必要がある。けれども、そういった指示は出ておらず、これも彼女が何処かに根回しをした結果なのかもしれなかった。
縄月家の秘伝書である『でれみすさいもん』の本来の所有権は未優にあるのだが、彼女は殊更にそれを主張しなかった。あれほどまでに執着していたことを考えると信じられないが、目的を達した以上は不要なものと判断したのかもしれない。一応は、肆鶴の預かりということになっているが、彼女に返却する気があるのかどうかは不明である。
「あの子も呪術師になるんでしょうかね……」
未優が最後に見せた微笑を思い出しながら、羽生は感慨深げに言った。肆鶴は軽く肩を竦め、
「さてね。なるもならないも、あの子の自由さ」
それはあくまで未優の選択である。肆鶴に強制する気は微塵もなく、彼女の意思を尊重するつもりだった。もっとも、歴史ある呪術師の家系が途絶えるのは惜しい、と思ってはいるようだったが。
「今日は礼を言うよ。これで心置きなく旅立てる」
黄金に輝く酒を飲み干すと、一つ息を吐いてから、肆鶴は言った。思ってもみない皮肉無しの感謝に、羽生は少しだけ反応が遅れてしまい、時間差で手をブンブンと振った。
「い、いえいえ、こちらこそ、ありがとうございました」
取って付けたような言い方になってしまったが、それは羽生の本心だった。もし肆鶴に出会わなければ、真実が明かされることもなく事件は永久に迷宮入りしていただろう。超常の世界に足を踏み入れることにはなったが、羽生は真実に触れることが出来た。事件に携わった刑事として、それは素直に喜ぶべきことだろう。
「気が向いたら、また私の店に来るといい。お茶くらいだそう」
フッと軽い笑みを浮かべると、肆鶴は椅子から腰を上げた。黒いコートを翻し、キャリーケースの把手を握る。店を去ろうとする肆鶴に、羽生は思わず声をかけていた。
「旅行は、何処に行かれるんですか?」
ドアに向かいかけていた肆鶴は足を止め、羽生の方を振り返ると、一言。
「セラエノ」
羽生には聞き慣れない地名だった。恐らく日本ではないのだろうが、彼女が行くのだからさぞかし曰く付きの土地に違いない。
「師匠と一緒にね。期間は長いが、短い旅さ」
不思議な言葉を呟くと、肆鶴はドアを開けて、店の外へと出て行った。
羽生は閉じられたドアを見つめていた。開閉を知らせるベルの余韻が消えてしまうまでの間中、ずっと。
肆鶴の座っていた席に眼をやると、カウンターの上に飲んだ酒の代金としてお札が置かれていた。明らかに多すぎる額だが、別に自分の懐に入る訳ではないので気にする必要もない。それをバーテンダーに払おうとして、お札の下に何か別の物が置かれていることに気付いた。
訝しげにお札をどけてみると、出てきたのは例の丸い石だった。未優の蛇を退けた、肆鶴がお守りと呼んだ石である。忘れたのではなく、意図的に置いていったものらしかった。彼女流の置き土産だろうか。
羽生は石を掌に握ると、意を決して椅子から立ち上がった。一言、肆鶴にちゃんと礼が言いたくなったのである。彼女が出てからまだ一分と経っていない。充分に追いつける。
勢いよくドアを開けて外に飛び出した羽生は、肆鶴の姿を探した。
しかし、細い路地には誰の姿もなかった。看板の陰に蹲った三毛猫が、暇そうに欠伸をしているだけだ。道幅は細いが縦には長い一本道なので、彼女の姿が見えないはずはない。
その時、ふいに何かが羽ばたく音がした。大きな羽で、空気を撃つ音が。
ハッとして羽生は空を見上げた。
幾重にも重なった灰色の雲の隙間から、鮮烈な一条の夕陽が差していた。
眩しさに眼を瞑った羽生の耳に、再び羽ばたきが聞こえる。それは徐々に遠ざかっていくようだった。
ようやく羽生が眼を開けた時には、雲は重く閉じ、光も消えていた。
何者の影も無い空からは、静かに雪が降り落ちて来るだけである。
はらはらと、はらはらと。
白く、冷たい、粉雪が。
了
でれみすさいもん 志菩龍彦 @shivo7
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