第7話 げだうのへび


 最初、羽生はソレを巨大な蛇だと思った。

 毒々しい斑紋のある青黒い鱗に覆われた胴体は丸太のように太いが、長さ自体は二メートル程しかない。身体の途中にある四つの小さな突起は、退化した手足だろうか。顔は前方に突き出てはおらず、丸い骨格は蛇というよりは類人猿に近い。頭頂部からしな垂れている黒い体毛の房は、まるで髪のようだった。

 廊下の角からゆっくりと現われたソレは、知性の窺える赤い瞳で、羽生を、肆鶴を、最後に未優の姿を見ると、耳まで裂けた口をニイッと歪めて――嗤った。

 その様を目撃した瞬間、羽生の口から奇妙な叫びがほどばしった。

 全身の毛という毛が逆立ち、肌という肌が粟立つのを羽生は感じた。あまりの悍ましさ、醜悪さに、胃の内容物が逆流して喉まで迫り上がってくる。両手を口に当ててなんとか耐えるものの、口の中には苦い酸味が広がった。

 羽生は直感的に理解したのだ。眼前の化け物としか形容しようのない生物が、蛇でないことを。本能的に否定したが、その肉体の特徴が、挙動だが、どうしようもなく「そうだ」と訴えてくる。

 この化け物は、人間だ。少なくとも、かつて人間だったものだ、と。

 怪物が口を開くと、赤い口腔と黄色い牙が露わになった。血のように赤い舌がチロチロと蠢き、漂い出す死体の腐ったような臭いに、床の蛇達までもが逃げ出した。

『未優……未優……』

 切れ切れで擦れた声は酷く聞き取り辛かったが、怪物は確かに人間の言葉を喋っていた。少女の名前を呼んでいた。

 怪物の出現に押し黙っていた肆鶴が、微かに呆然とした声で呟く。

「……お前、薫か?」

 これを聞き、羽生は弾かれたように肆鶴の顔を見て、次に怪物へと目をやった。恐怖に染められていた彼の表情が、たちまち驚愕の色に塗り替えられていく。

 縄月薫。縄月宗一の妻であり、未優の義理の母親である女。半年前に失踪した呪術師。肆鶴は、この醜悪窮まる怪物がその縄月薫なのだという。

 今まで様々な信じられないものを目の当たりにしてきた羽生だが、これはその上を行くものだった。蛇の大群はまだいい。だが、これはどうだ。人間が、こんな姿に変わることがあるのだろうか。人間が蛇に成るなどということがあり得るのか。

 愕然とした羽生は、足に力が入らず、その場にへたり込みそうになった。大瀧などは早々に気絶して床に転がっている。常識的な人間の許容量を遙かに超える衝撃に、脳味噌が自ら意識を断ったのだろう。

 それでも、羽生が膝を屈しなかったのは、肆鶴が彼にとある一言を告げたからである。

「羽生君、こいつが犯人だよ。縄月宗一を殺したのはこいつだ」

 肆鶴の口調は断定的なものだった。もはや疑うことはないだろう。彼女はその証拠を掴んでいる。

 刑事としての矜恃からか、その言葉の与えた活力によりギリギリで踏ん張った羽生は、声の出せない代わりに、強い視線でその理由を肆鶴に問うた。

 怪物――薫から目を離さず、肆鶴はゆるゆると息を吐きながら、

「あれは報いだよ。縄月家の崇める神の。縄月宗一を、神の氏子を殺した祟りだ」

 異形の蛇神〈いぐのおおかみ〉は、全ての蛇の祖とされる神だった。『でれみすさいもん』にもそのことは書かれており、中でも特筆すべきは自身の血族、眷属、ひいては信者、氏子を傷つける者に苛烈な報復をするという伝承である。〈いぐのおおかみ〉の祟りにより、人間は醜い蛇へと強制的に姿を変えられてしまうのだという。

 それが事実ならば、薫の身に何が起こったのかは明白だった。彼女は、〈いぐのおおかみ〉の信者を殺し、その結果として祟られたのである。

「何故、現場に本が残っていたのか疑問だった。でも、これで得心がいったよ。反撃に呪いをかけられて、堪らず退散したというところか。本も取らずに」

 肆鶴は鼻を鳴らし、眉を顰めて蛇体と化した薫を見据える。

『……手落、ちだっ、たわ。ここま、で早く呪毒が回、るな、んてね』

 薫は蛇の口で、蛇の声で嗤った。咽喉の奥から、ゲッゲッゲッと引き攣ったような笑い声が聞こえて来る。耳を塞ぎたくなるような不気味な音だった。

『アレのた、めに、ア、イツと、一緒、になった、のに』

 薫は自身の目的を明け透けに告白する。目の前に義理とはいえ娘がいるというのに。結婚は、『でれみすさいもん』を手に入れる為のものに過ぎなかったと言い放った。

 だが、未優は何らの反応も見せなかった。そんなことは、とうに見抜いていたのだろう。なにせ彼女は一番近くで薫を観察していたのだ。家族として、娘として。

「それに確信を持ったから、宗一は逃げ出したのか」

 妻の真意に気付いた縄月宗一は家を出て、転々と居を移す逃亡生活を始めた。彼女の目的である『でれみすさいもん』を奪われない為に。そして、それは同時に娘である未優を守ることにも繋がる。もし一緒に住んでいたら、未優まで巻き込みかねないからだ。それを避けるため、彼は家を出たのである。

 薫が失踪したというのは、事実は順序が逆だったのだ。彼女は、消えた夫を探して家を出たが、それが結果として失踪と捉えられたのである。要は、『でれみすさいもん』を巡る夫婦の追いかけっこだ。

 しかし、その呪術師同士の追いかけっこは、最悪の結末を迎えてしまった。

『未優……未優……そ、れを渡、しなさ、い』

 ずるり、ずるりと、薫は器用に前進してくる。彼女の狙いは未優の持つ『でれみすさいもん』だった。この期に及んでも、呪術師として秘伝書が欲しいのだろうか。いや、恐らくそれはもはや第一義ではない。

『そ、こに書、か、れ、ている、はず。解呪、の方、法が』

 祟りによって変わり果てた姿になってしまった薫。だが、それが〈いぐのおおかみ〉の呪いによるものならば、その呪術の全てが詳述された『でれみすさいもん』には、その呪いを解く方法が書かれている可能性が高い。魔術、呪術はそれが己に降りかかった時のことを想定し、その対抗策が必ず存在する。

 薫にとって何より優先すべきは、人間に戻ることだった。彼女が何より恐れるのは、死という救いの時が来るまで、この化け物の姿で生きなければならないことなのである。

「いやよ。絶対に、いや。あんたには渡さない」

 胸に秘伝書を抱え、未優は断固として拒否をした。小さな身体に満ち満ちた怒りは、強烈な敵意となって母親に叩き付けられていた。元からかもしれないが、もうそこには親子の情等というものは寸毫も存在しない。彼女にとって、薫は父を殺した仇に他ならなかった。

 未優が何事かを呟くと、床に散らばっていた蛇達が整然と鎌首をもたげた。彼等のギラつく両目は、主の仇敵である薫に向けられている。蛇達は臆することなく、一斉に彼女に向かって飛びかかっていった。

 だが、祟られたとはいえ薫も呪術師である。彼女もまた蛇の口で呪術を紡いだ。すると、彼女の身体からゾロゾロと真っ赤な何かが這い出し始めた。何本もの足を盛んに動かすそれは、巨大な百足だった。これが、彼女の家に伝わる呪術の形なのである。

 赤い装甲で身を固めた無数の百足が蛇を迎え撃ち、二種の長物は互いの身を貪り合いながら、球のようになってそこら中に転がった。

 地獄のように凄惨な光景がそこに広がった。

 ただの人間である羽生には、壁に背を貼り付けて眼前の悪夢を眺めることしか出来ない。

 薫の歩みを止めようと、肆鶴はその前に躍り出て守護石をかざした。しかし、未優の蛇を退けた守護石も、薫と百足には少しの効果もないらしい。薫は動きを止めず、勢いそのままに尾の一撃で肆鶴を吹き飛ばした。

 宙を飛ぶ肆鶴の身体を、反射的に飛びついた羽生が抱き止めた。だが勢いは止まらず、二人とも激しく床に叩き付けられる。衝撃で肺の中の空気が絞り出され、二人は声もなくその場に倒れ伏した。

 邪魔する者のいなくなった薫は、娘の前にゆるゆると辿り着いた。

 頼みとする蛇は百足の相手で手一杯であり、助けには来られない。未優の味方はもう一人もいなかった。

『……未優。はやく、ソレを、わた、しに』

 かつて母親だったモノが、優しく未優に語りかける。悍ましい視線が、未優の黄金の髪に、白い貌に、細い手足に、そして『でれみすさいもん』に絡みついていた。あとは赤子の手を捻るようなものである。元々の呪術師としての腕は、子供の未優の及ぶところではない。

 未優は唇を震わせると、顔を伏せてその場にペタンとへたり込んだ。より強く『でれみすさいもん』を掻き抱き、薫に渡すまいとしている。

 見下ろす薫の蛇の眼がすうっと細くなった。そこには静かな殺意が宿っている。ここにきて躊躇する理由は何一つない。百足達に貪らせて、力尽くで奪えばいいだけの話だ。

 むしろ、彼女はざわつような歓喜を覚えていた。未優のことは、前から気にくわなかったのである。一向に懐かない義理の娘は鬱陶しく、邪魔とすら思っていた。ならば、これは積年の鬱憤を晴らす良い機会といえよう。

『さよ、うな、ら未、優』

 薫は新たな呪術を紡ごうと口を開きかけ、急に止めた。何か、か細い声が彼女の耳朶を打ったからである。冷たい刃が胸に滑り込んだような、厭な感触。

 声は下から聞こえていた。視線を下げれば、そこにあるのは未優の小さな頭だ。


〈てび まぐなむ いんのみなんど すぐな すてらむ〉


 膝の上に秘伝書を広げ、彼女はそれに眼を走らせていた。そこに書かれている古びた文字の列から、言葉を拾い上げ、音として吐き出している。その一語一語が、呪となり、術となり、この世にあらざる奇跡を起動していった。


〈にぐらむ えと ぶはにほるみす〉


 幼い声で囁くように唱えられるそれは、しかし絶大な効果を持って、星の彼方にいる者を呼び寄せていた。

 その呪文が意味するものを理解して、薫は愕然とした。今から百足を呼ぶのでは遅すぎると悟り、その蛇じみた顔に初めて焦燥が浮かぶ。


〈さどけあ しぎらん……〉


 最後までは言わせまいと、薫はガパリと大口を開けた。未優を頭から飲み込むつもりである。突飛と思える行動に移れるのは、彼女が外見だけで無く中身まで蛇と成り果てているからなのだろうか。

 だがその時、壊れた窓から、一陣の猛烈な風が吹き込んで来た。冷え冷えとした風は、蛇や百足を吹き飛ばしながら、意思を持つかのように薫に纏わり付き、その周囲を旋回する。

 突然、薫が耳をつんざくような絶叫をあげた。必死になって身体を振り、壁にぶつかり、床を転げ回り出す。しかし、他の者には、何故薫がそんなことをしているのか理解出来なかった。少なくとも、彼等の目には何も異変は起こっていないように見えるからだ。

 薫は一人で苦しんでいた。彼女は見えない何かに向かって毒づき、罵声を浴びせ、呪いの言葉を投げつけた。

 床をのたうち回っていた薫の身体が、ふいに宙に浮き上がる。浮いたというよりも持ち上げられたという方が正しいだろうか。空中の青黒い蛇体は、外部からの力によって無理矢理にねじ曲げられていく。

 打ち身の痛みに耐えながら、羽生はその異常な光景を魅入られたように見つめていた。そうしていると、彼の耳に誰かの笑い声が聞こえてきた。気がつけば、神経質で病的な笑い声は廊下中に響いている。ただし、この場に笑っている者などいはしないのだ。羽生も肆鶴も、未優や薫は勿論、気絶している大瀧が笑えるはずもない。

 姿無き哄笑に羽生が唖然としていると、誰かの手が彼の服を引っ張ってきた。

「……私から離れるなよ」

 羽生に抱えられている肆鶴が、守護石を握りながら耳打ちしてきた。その声の真剣さに、羽生は驚く。いつも冷静な彼女には似合わない緊張した声が、事態の深刻さを物語っていた。

 羽生は思い出す。事件のあった部屋の隣人の証言を。被害者の叫び声と何者かの不気味な笑い声を聞いたと、隣人は語っていた。このゾッとするような笑い声こそが、それに違いない。

 やがて笑い声が止むと、何かを啜り込むような不気味な音がしだした。すると、空中で静止している薫の体が、徐々に縮んでいった。彼女の中にあったものが吸収されているのだ。そこにいる不可視の何かによって。

 体液という体液を抜かれた薫の体が、ドサリと床に落ちた。もはやピクリとも動かない異形の死体の周りに百足が集まってくるが、主人の死を悟ると、それらは風に吹かれる塵のように掻き消えてしまった。

 秘伝書『でれみすさいもん』を奪うために夫を呪殺した女は、こうして死んだ。夫殺しと全く同じ方法によって。

 薫の死体の上空で変化が起こったのは、百足が消えてすぐのことだった。

 何も無かった空間に、徐々に赤い輝きが見え始めた。それはまさに血の色で、ならばその血は薫の血以外には考えられない。煌めく赤い靄はゆっくりと、だが着実に形を取り始めた。

 それは心臓のように脈打っていた。胴体はゼリー状で、収縮する度にブルブルと不快に震えている。体中から生えた無数の触覚の先端には吸盤があり、それが物欲しげに開閉していた。薫を釣り上げていたのは巨大な鉤爪で、縄月宗一の首を掻ききったのは恐らくこれだった。

 血を吸う不可視の怪物。これこそが、あの奇怪な死体を作り出した犯人だったのである。

「あれは……あれは何なんですか?」

 カチカチと歯を鳴らしながら、羽生は喘ぐように言った。生物としての本能から来る恐怖が、思考をかき乱し、黙っていると気が狂いそうになる。肆鶴は忌まわしげに眉を顰めながら、

「あれが〈げだうのへび〉だ。かつてプリンが星の彼方から召喚した〈星の精〉さ」

 ふわふわと浮遊する〈げだうのへび〉を、未優は黙って見上げていた。彼女の目に恐れの色はなく、むしろ異星の生物に対して恭しげですらある。彼女にとってみれば、それらは己の先祖の信仰に連なる、いわば神使か式神のようなものなのかもしれない。

 未優の蕾のような唇が開き、言葉が零れる。

「みんな、ありがとう」

 再び、猛烈な風が巻き起こった。〈げだうのへび〉は、その宇宙的な冷たい風に乗って、来たときのように窓から飛び出していった。既に地上の生物に興味はなく、未優すら一顧だにせず、宇宙の彼方へと帰って行く。

 そして、静寂が帰ってきた。

 廊下には、一匹の蛇の姿も無かった。全ては幻のように消えてしまっている。あの狂気的な混乱の名残と呼べるのは、壊れた窓と気絶した大瀧、後は床に転がった謎の生物の死体ぐらいである。

 羽生と肆鶴はゆっくりと身を起こしたが、痛みですぐには動けなかった。彼等の視線の先には、混乱の首謀者とも言える少女が地べたに座り込んでいる。

 明滅する蛍光灯の下、黄金の髪を風に靡かせて、少女は満足そうな微笑を浮かべていた。その胸に、異星の魔を呼び出した秘伝書を抱きながら。


                                  つづく

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