第8話「……ヤンファが俺にそういう態度とるのって」
このまま二人とも、ルーダオの矢に貫かれる。
はずだった。
「おーう! 待たせたな!」
場違いなほどに緊張感のない声とともに、雷が目の前に落ちてきた。ルーダオの矢など一瞬で消滅するほどの、大きな雷。シュイロンの、金色の槍だ。地面に突き刺さると、ふわっとまばゆい光を放ち、槍は霧散して消えた。その直後に、空から声の主、シュイロンが降ってくる。とん、と地面に降り立った音が聞こえた気がしたのだけれど、相変わらず拳一つ分は浮いたままだ。
先ほどまで災厄に飲まれ、薄暗く淀んでいたこの場所に、光の階段が降り注ぐ。その中で、まるで世界に祝福された様に威風堂々たる姿で立つ、シュイロン。自信満々といった表情の横顔は相も変わらず非の打ちどころのない美しさで、膝裏まである長い髪が薄暗い木々の中に青い光を巻き散らす。
水の中から晴天を見上げたみたいだ。水は、シュイロンの力そのもの。場の空気が一転したのが良くわかる。この場はもう、一瞬にして、シュイロンによって支配されてしまった。
大嫌いだと本人に言い、実際忌み嫌っているフーレンですらも、魅入られてぽかんと口を開けているしかない。
「シュイロン様!」
ヤンファが今にも泣きだしそうな声で名前を呼んだ。その声に、シュイロンはこの世全てを慈しむ、母のような笑顔で応える。
「よくぞ耐え抜いた。頑張ったな、ヤンファ。俺の器を守ってくれたことにも礼を言おう」
そして土にまみれたヤンファの頭に手を置き、髪を撫でた。
「――っ! いえ、いえ……勿体ないお言葉です……!」
ついにヤンファは泣きだして、その場にしゃがみ込んだ。シュイロンが来たことへの安堵と、褒められたことへの喜びと、緊張の糸が切れたことと。感情がいっぺんにあふれ出したのだろう。肩を震わせて泣いている姿は、さきほどまでの凛々しい姿とは全く違う。ただの十六歳の少女の姿がそこにはあった。
「フーレン。お前の声が、ちゃんと俺に届いたぞ」
「……馬鹿野郎って?」
「違う。……お前そんなこと言ってたのか」
シュイロンは肩を竦めて笑った。馬鹿野郎だなんて、今まで言われたことは無い。神に対してなんという不敬な。それはそれで面白い。
「まあいい。体貸せ」
「……分かってるよ」
覚悟して、フーレンはぎゅっと唇を引き結び、目を閉じた。体を貸す、ということは、シュイロンと接吻しなければならないということだ。またあの、水に溺れる感覚を味わわなければならないということでもある。嫌だという感情が、自然と顔に出てしまう。
「げえ、お前……その顔萎える」
「煩いな! するならさっさとしろ!」
「わーかったよ。次からはもっとそそる顔しろ」
シュイロンの唇は、前と同じ、柔らかくて少しひんやりとしている。けれどやはり、どこまでも優しい。普段の自分への扱いとは雲泥の差だ。いつもこんな風に優しい、ともすれば遠慮をしているような、そんな接し方ならば、自分はもっとシュイロンに対して違う表情を見せることが出来るのに。普段を思うと、眉間に皺を寄せ怒鳴り散らすことしか出来なくなる。もともと怒鳴ったり悪態をついたりは得意ではないはずなのに、シュイロンの顔を見ているとやたらに苛々するのは何故なんだろう。自分でも不思議だ。
シュイロンはシュイロンで、フーレンの中に潜りながら考えていた。フーレンが自分を呼ぶ声が聞こえたのは一度きりだ。それ以外は聞こえなかった。声に応えて駆けつけてみれば、ヤンファもフーレンも泥にまみれ怪我だらけのぼろぼろで、今まさに災厄によって命を落としかねない窮地だった。もっと早めから、何度も呼んでくれても良かったはずなのに。そんなに俺に頼りたくないのか。なんだか面白くない。
しかも聞こえた一回だって、「助けてくれ」ではなく、「早く終わらせてやってくれ」だった。自身のことではなく、災厄のことを憂いて、自分を呼んだのだ。
どこまで俺の器は自己犠牲をしたら気が済むんだ。こいつ目を離したらすぐに他人のために死ぬんじゃないのか。しかも今度の相手は、ヒトですらない。災厄だ。災厄相手にも共感し、同情をしたのか。やはり、勝手に社から出るなという規則を設けたのは間違いではなかった。逃げられては困るというのももちろんあるが、こんなやつ怖くて野放しに出来ない。
自分の力がフーレンの身体になじんだのを感じて、目を開く。ヤンファがしゃくりをあげながら、それでも大きな瞳で自分をしっかと見つめている。視線が合い、シュイロンは微笑んだ。フーレンの顔なのに、フーレンではありえない、不敵な笑みだ。
「すぐ終わる。……そこで見ていろ」
ヤンファの涙はぴたりと止まった。というより、泣いている場合ではなくなった。自分の顔は、真っ赤に染まっているだろう。両手で頬を押える。そんな場合ではないということは良くわかっているけれど、先ほどとは違う感情に、心臓が高鳴るのを感じた。
中身がシュイロン様だと、この人なんて眩いのだろう。
普段の彼からは想像できない華々しさだ。さきほどまでは猫背でどこか自信なさげで茫洋としている、昼行灯という言葉そのまま男で、正直全然美丈夫だなんて思っていなかった。自分の好みではないというのもあるが、シュイロン様は面食いだと聞いていたのに実はそこまででもなかったのかしらなんて失礼なことを考えもした。
けれど、違った。表情や立ち居振る舞いの問題だ。つまり、中身の問題だ。体は一緒なのに人に与える印象がこうも変わるということは、絶対に、そういうことだ。
背筋を伸ばせば、痩せているものの上背はある。手足も長い。普段いかに中身が外見を殺しているのか。勿体ないとはこのことだ。なんでこんな外見をしておいてあんな自信のなさそうな人格が出来上がるのか。不思議で仕方がない。
この人ずっとシュイロン様に憑依されたままならいいのに。なんて、フーレンを全否定することまで考えていた。別に普段も悪い人間なわけではないのだけれど。
「あ、今回は前よりマシ……あれ、しゃべれる!?」
金色の目のままなのに、突然普段のフーレンに立ち戻る。けれどその直後、
「えー何お前。少しずつ体の支配権取り返してんの? めんどくさ」
シュイロンが憑依した状態で話し、
「めんどくさって何だよめんどくさって!」
またフーレン。
「追々分かる」
一人で二人分話している。まるで落語のようだ。一つの身体に二人の人格が居るということは、いびつな構造なのだということがよくわかる。傍から見ると、奇妙で仕方がない。
シュイロンはいきなり自分の口を両手で押さえた。そしてそれ以降は、二人とも何も話さなくなった。
ように、ヤンファには見えていた。
(煩いからこれからは俺と話すときは頭の中でにしろ)
両手で口を動かせないようにして、シュイロンは頭の中でフーレンに語りかけた。なんで俺が遠慮しなきゃいけないんだよ、と抗議をしたくても、首から上以外はまだ自由に動かせず、口を押えている手をどけることが出来ない。素直に、頭の中で
(……わかった)
と答えるしかない。
シュイロンは口から手を離し、ようやくルーダオへと視線をやった。ちょうど、胸からまた新たな矢を引き抜き、叫び声を上げる瞬間だった。
シュイロンが憑依しているからか、あまり衝撃は感じない。シュイロンも、アーゴンのときには耳をふさいでいたのに今回は耳を塞がなかった。その代り、目を伏せ小さく頭を下げた後、
「よっし、じゃあ殺るか」
まるで掃除でも始めようかというくらいの軽い口調でそう告げ、掌に力を集める。身体がだいぶシュイロンの力に慣れたのか、前回よりもすんなりと、金色の槍が目の前に出来上がった。掴んでくるくると器用に振り回す。本で読んだ孫悟空みたいだ、とフーレンは思った。自分にはできない芸当だ。いままでやってみようと思ったこともないけれど。
ヒュと風を切る音を響かせ、シュイロンはピタと三つ又の槍の先端をルーダオに向けた。そして半身の構えをとり、ゆっくり腰を下ろす。辺りに火花のような小さな雷が、バチバチと音を立てて現れた。
槍を投げても良いが、障害となる墓石が乱立している。自分にとっては何の問題もないが、壊してしまっては立て直すのも面倒だろう。それに距離があるわけではない。一飛びで間合いに入り、胸を貫ける。直接刺した方が、手っ取り早いし確実だ。
音もなく中空を蹴り、一直線にルーダオに向かう。自らが弾丸か、一筋の光になったようだ。自分の力で飛んでいるわけではなく、何かにずっと背中を押されている、そんな力を感じる。
ルーダオは、首を右に左に動かし、自らの胸から抜いた矢を観察していた。
その、今矢を抜いたばかりの、血を吹き出すその胸に、三つ又の槍を突き立てる。
「――っ!」
貫いた感触は、不思議と無かった。だが抵抗感は、確かにあった。矛先が何かに遮られた感触はあった。けれどそれは、肉や骨を貫いたような不快なものではなく、ただの重い、空気抵抗のようだった。
それが、フーレンにとって救いだった。終わらせるためには、災厄を倒すためにはこれが必要なことだというのは分かっていた。けれどどうしても、見ていられなかった。自らが手に持った槍が、先ほどまで動いて、痛みに叫び声を上げていた何かを貫いた。命があるわけではないというのは分かっているが、痛みを感じることのできるものに、さらに痛みを与えてしまった。それを思うと、どうにも胸が苦しい。
失敗したな、と、シュイロンも思っていた。自分の器は災厄に同情している、それが分かっていたのに、自らの手で貫く方を選んでしまった。やはり少なからず精神に負担だったようで、フーレンは頭の中でも静かなまま、一言も発しはしない。やはり前の様に槍を放り投げればよかった。その方が己の手を汚した実感は、少なかっただろう。
ルーダオは叫び声も上げず、どろどろと流し続けていた液体ごと、胸に刺さった金色の槍の光に包まれて、霧散して消えた。フーレンはそれを、じっと見届ける。
器に憑依して災厄を倒せば、神だけで倒した時よりも、封印できる期間が長くなるという。どうか、少しでも長い期間出てこないでくれ。そう願った。あんな痛い思いを、どうか、少しでも長い期間、彼女がしなくてすみますように。
急に体に重みを感じ、拳一個分ほどだが落ちた。シュイロンが憑依を解いたのだ。見ると、シュイロンはもはや空高く飛び上がり、
「悪い! 抜け出してきたんだ。早く帰らないと今頃何と言われているかわからん。じゃあな!」
言い終わるや否や、中空を片足で蹴り、シュイロンはあっというまに社の方に向かって消えていった。
取り残されたフーレンとヤンファはそれを呆然としながら見送る。
嵐。嵐だ。前触れなくやってきてすべてをなぎ倒し、何事も無かったかのように去っていく嵐。それ以外に何と表現すればいいのか。
どちらからともなく、お互いの顔を見た。呆気にとられた顔が視界に入る。きっと、自分も同じような表情をしているのだろうということが容易に想像できた。顔を見合わせて、笑う。笑うしかない、こんなの。
「は……はは、な、なにあれシュイロン強すぎ……俺たち二人ともボロボロなのに、あいつあんなに簡単に、一撃で……」
言われてヤンファは自分の服を見た。草の上を転がって泥だらけだ。髪もぼさぼさで、きっと顔にも汚れがたくさんついていることだろう。確かにボロボロという表現がぴったりだ。
「ふふ……すごいですね、さすがシュイロン様……私たち、本当にボロボロ……ふふふふ」
それでも多少は身なりを整えたい。笑いながら、ヤンファは立ち上がる。鏡が見られないから髪型を直すことは出来ないけれど、顔の泥と涙の跡くらいは落とせるだろうか。少し行儀が悪いけれど着物の袖で顔を拭い、着物に着いた泥も手で払った。少しは社守らしくなっただろうか。
フーレンの隣に歩み寄ると、朗らかな笑顔を見せた。
フーレンはそんなヤンファに驚いた。社にいた頃に感じていた蟠りはもうない。むしろ一つの苦難を共に乗り越えた、連帯感すら生まれている。
これは、もう一度、試す価値はあるのではないか。
「なあ、ヤンファ。やっぱり敬語やめてさ、俺のことをフーレンて」
「それは出来ません」
ヤンファの答えは変わらない。相変わらず一刀両断で、笑顔のままだから余計にたちが悪い。
「なんっっっっでだよ! これ仲良くなった流れだろ!? なんでだよ!!」
フーレンの叫び声は、災厄の居なくなった林の中に木霊した。自分はもう完全に彼女のことは親しいどころか尊敬する友人だとすら思っているのに、こんな線引きはあんまりだ。
ヤンファは表情を変えず、淡々と告げる。
「あいにくですが私は誰に対してもこういう話し方ですし……そうそう、貴方は『親しい人を死なせたくない』と言いましたけど、私は貴方と親しくなった気は毛頭ありません」
「えええ」
「大体ね、シュイロン様にお伺いしましたが、貴方が器になったきっかけの『薬を買いに来た男の子』だって、別に親しいわけではないのではないですか。貴方の『親しい』の判定、ゆるっゆるのがっばがばじゃないですか。そんなんじゃ命がいくつあっても足りませんよ。もう少し精査されてはいかがですか?」
「い、今それ言う必要ある!?」
思わぬ追撃に、フーレンは涙目だった。そりゃたしかにどちらとも積年の付き合いというわけではない。けれど、自分が「親しい」と感じたのだから、それでどう動こうと自分の勝手じゃないか。
ヤンファは、自分とシュイロンの扱いが違い過ぎる。
「……ヤンファが俺にそういう態度とるのって、俺が恋敵だからだろ」
小声で呟いた。自分の恋心を突かれて、少しは表情を変えるだろうか。年頃の女の子らしく、顔を赤くして抗議でもするかと思ったのだけれど。
「訳知り顔でそういうことを言うのも本当に迷惑千万です。お辞め下さい」
無表情で、声の抑揚も無く返されてしまった。梨の礫だ。フーレンは肩を落とす。心の壁は堂々とそこにあるままだ。
「……はい……」
まあ、いい。別に仲良くなりたくて、ヤンファと共に来たわけではない。思った通り大して役に立てたわけではないけれど、一応シュイロンを呼ぶことは出来た。出がけにナイシンとした「二人とも無事に帰る」という約束は果たせる。とりあえずそれでいい。
でも……でも、なんかさあ。もうちょっとこう……なんていうか、さあ。
大きくため息を吐きながら肩を落とした。今夜は自分の醜態を思い返して、眠れないかもしれない。
背中を丸めてため息を吐いているフーレンには、先ほどシュイロンが憑依していた時のような光は無い。元通り昼行灯だ。本当に残念な人だな、とヤンファは思った。神の器なのだから、こんな小娘相手に出方を伺うような真似をせず、上から何でも申し付ければ良いものを。それをしないのが実に残念で、だからこそ、悪い人間では、無いと思う。
「……全く。帰りは馬車を手配しましょう。……行きますよ、フーレン様」
フーレンは弾かれたように顔を上げた。ヤンファはくるりと踵を返し、通りに向かって歩いていくところで、顔は見られなかったけれど。
「貴方」や「器様」とは呼ばれていたが、名前を呼ばれたのは初めてだ。彼女なりの譲歩というやつなのだろうか。
ほんの少し、ほんの少しだけれど、壁の壊れる音が聞こえた気がして、フーレンはヤンファを追いかけて駆けだした。
まるで楽器のような、扉をたたく音が部屋に響く。骨と木がぶつかる、コンコン、という澄んだ音にフーレンは訝しげに扉を開けた。
時刻はとうに亥の刻を超えていて、先ほど宿直の侍女がおやすみなさいませと挨拶をしに来たばかりだ。こんな時間に自分の部屋を訪ねる者なんて、
「おお、起きていたか」
伴侶である神、シュイロンしかいない。
「……何しに来たんだ」
フーレンは身構えた。自分も馬鹿ではない。夜遅くに伴侶の部屋を訪ねる理由など、一つしかないだろう。しかも昼間に初夜だなんだとのたまっていた相手だ。
何と言われても応じない。そう心づもりをして身を固くしたフーレンを、シュイロンは目を丸くして見つめた。ぱち、ぱちと音がしそうなほどに長い睫を瞬かせている。
「何をしに来たとは心外だなー。伴侶の顔を見に来ただけだ。駄目か?」
「……それなら、いいけど」
意識して身構えた自分が馬鹿みたいだ。あっけらかんとしたシュイロンの返答に拍子抜けして、身体の力を抜く。部屋に招き入れると、シュイロンは遠慮した様子もなく、すすと浮いたまま部屋に入り、どさりと我が物顔で寝台の上に寝転がった。まるで猫のようだ。
「なー、お前に聞きたいことがあるんだ」
手すさびに自分の青く長い髪を指に絡ませながら、顔も見ずにシュイロンは訊く。フーレンも寝台に腰かけて、
「なんだよ」
同じく、顔も見ずに答えた。
「なんでわざわざ災厄まで向かったんだ? そんなことをしなくても、祈れば俺に届くのに」
「エッ!!??」
思わず変なところから声が出た。寝台に上がり、寝転がったまま驚いた顔で自分を見ているシュイロンに詰め寄る。
「ちょ、ちょっと待て、それほんとか!?」
「……おう。お前、何だと思ってたんだ」
「ナイシンさんは、俺が窮地に陥ればお前に伝わるって」
「あー……随分時が経ってしまったし、あいつも忘れていたか。ヤンファも、さては社守のことしか勉強してないな。……あのな、それは違う。祈るだけで届く。逆に俺からお前を呼ぶことも可能だ。器というのはな、何も災厄を倒すだけが役割ではない。俺が神の間にいる間、シャンチャンを見守る目でもある。これからは狼煙を見たらすぐに俺に祈れ」
「な……何だよそれ……」
じゃあ今日社で派手にヤンファと喧嘩をしたことも、馬で長時間かけてルーダオのところまで向かったことも、命がけで食い止めようと思ったことも、実際死にかけたことも、全部全部、徒労だったということか。
「そんな大切なこと、先に言っとけよ……」
脱力して、フーレンはシュイロンの隣に突っ伏した。
シュイロンは自分の髪から手を離し、フーレンの頭を軽く撫でた。亜麻色の短い髪。珍しい色だ。もう少し硬いかと思っていたのに意外と柔らかくて、触り飽きた自分の髪より面白い。しゃらしゃらと音をさせながら撫で続けると、少しだけ頬を染めたフーレンに目だけで睨まれた。気にせず撫で続ける。
「悪かった。けどまあ……頑張ったなあ、偉い偉い」
まるで犬のような扱いだ、と思うのに、髪を撫でる指先がやたらに気持ちいい。気恥ずかしさはあるものの、フーレンはシュイロンにそのままさせておくことにした。
憑依のときの接吻といい、シュイロンは不思議だ。勝手に人の耳に穴を開けたり、宙に浮いた状態で憑依を解き人を落としたり、人を人とも思わぬ傍若無人な扱いをするにもかかわらず、触れてくるときだけは妙に優しい。それに絆されかける、単純な自分がいる。
目を閉じると一日の疲れが襲ってきたのか、ぐっと体が重くなるのを感じた。シュイロンの指先はくすぐったいけれど心地よくて、思わずまどろみそうになる。
これではいけない、と無理矢理自分にムチ打って上体を起こした。こいつの隣で寝るなんて危険なことは出来ない。寝ている間に何をされるか。
それにちゃんと、話さなきゃいけないことがある。
「あのさ」
シュイロンは首を傾げた。
「大門から先には勝手に出ちゃいけないって規則、無くしてくれないか」
シュイロンは何も言わず、ひょいっと片眉だけをあげて訝しげにフーレンを見た。気にせず続ける。
「さっきの話を聞いて、俺にも器の重要性はわかった。何の理由もなく、誰の断りもなく、社から出たりしない。それは、俺からお前に誓う。だから、頼むから、規則という形で縛るのをやめてくれ」
シュイロンは訝しげなまま表情を変えない。むしろ観察するようにじろじろフーレンの表情を見、面倒くさそうにつぶやいた。
「言っている意味が分からん。どう違うというんだ」
全く伝わっていない。フーレンは言葉に詰まった。
確かに結果は一緒だ。俺は社から勝手に出ることは出来ない、かごの鳥のまま。それはそうなのだけれど。
「出るな、と言われるのが嫌なんだ。信頼されていないみたいで。何度も言うけど、勝手に出たりしない。約束する。だから……俺を信じてくれ」
結局は、そこが一番重要だ。
自分を、信じてほしい。
だって、神の器なのだ。伴侶どうこうは置いておいても、災厄を倒す、相棒なのだ。同時に二人と存在できない、たった一人の相棒。
体を貸しているだけだろうと言われればそこまでなのだけれど、自分ではもう相棒つもりだ。いけ好かない神ではあるけれど、災厄を倒すというただ一点においては、信頼している。信じ切っている。
ルーダオに窮地に追い込まれ死を覚悟したあの瞬間、助けに来たシュイロンの圧倒的な力、美しさに、自分は確実に心を掴まれた。人でなしのクソ野郎ではあるけれど、自分がこの神に乞われて器になったことを初めて誇りに思えたのだ。
だから、相手にも、ほんの少しだけで良いから自分を信じてほしい。そう望むことは、何もおかしなことではないはずだ。
それなのに、シュイロンは殊更面倒くさそうに片目を閉じて首を横に曲げた。
「それは無理だ」
「! どうして」
「信頼されていないみたい、ではない。そもそも信頼していないしする気もない」
フーレンは体中の血が逆流するのを感じた。頭のてっぺんまで血が上って熱い。思わず握った拳が敷布の上で震えた。
片目は閉じたまま、開いたもう片方の目でフーレンを捕えながらシュイロンは続ける。
「勘違いするなよ。お前を、という意味ではない。人間そのものを俺は信じていない。人間ほど心の変わりやすい生き物なんかいないからな。人間に比べれば、そこら辺にいる犬猫の方がよっぽど信頼できる。先ほどのお前の言葉も、まあ、百歩譲って今はそう思っているとしよう。だが明日は? 一年後は? 十年後は? 百年後……は、死んでいるか。ともかく、気持ちが変わっていないと確約できるか?」
できる、とは言えなかった。現に今、自分の心は変わってしまった。
こんなやつ、ちょっとでも信じた俺が馬鹿だった。大門から出ない、勝手にいなくならない。それは、シュイロンのためではなく、器を欲するシャンチャンの人たちのために実行する。でも。
なんとかして、こいつと離婚したい。自分をほんの少しも信頼してくれないやつと伴侶でなんて、いられるわけがない。
何も言い返さず、フーレンは頭から掛け布団を被った。
「……俺は寝る。さっさと出ていけ」
神は食事をしないし眠りもしない。ならばここにいる必要はないだろう。同じ空間にいると腹が立つだけだ。
自分が先ほど何を言ったのか、わかっていないのだろう。シュイロンは戯けた様子で
「えぇー、なんだよお。寝顔くらい見せろよ、別に何もしないって」
掛け布団の上からフーレンの頭を突く。今度はその手を、強引に振り払った。
「我儘で自分勝手な神なんて、信頼できない」
相手の言葉を借りて、言い返す。
飼い犬に手を噛まれた、というのは、こういう表情をいうのか。シュイロンは振り払われて所在のなくなった自分の手を見つめた後、
「……なるほど、わかった」
それでも、穏やかに微笑んだ。その笑顔に、苛立ちと、それからほんの少しの罪悪感を覚えた。そんな自分にも、嫌気がさす。
「じゃあな、おやすみ。また明日」
先ほどまで言いあいをしていたとは思えないほどに情に満ちた声でそういうと、その言葉通り、シュイロンは寝台から飛び上がり、音もなく寝室から出て行った。
扉のしまる音が聞こえて、フーレンは布団から顔を出した。案の定、寝室には自分のほかには誰もいない。シュイロンは素直に出て行った。そのことに、安堵するやら胸が痛いやら。
「くそ。……やっぱり、あいつのこと嫌いだ」
もう一度布団をかぶる。先ほどシュイロンに髪を撫でられていたときには、もう半分眠りに落ちていたというのに、眠気はどこかに逃げてしまったようで帰ってきてはくれない。
結局この日一日に起きた色々なことを思い返して、まんじりともしないまま、夜明けを迎えることになった。
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