第3章 逢引き

第1話「ごめん、母さん……もう少しだけ寝かせて……」

 西から雨が降りだした。

 本殿の屋根の上に飛び上がり、雨が降る西方を見て、シュイロンは満足げに頷く。天候は調整した通り。今日は雨の日。しかし一日中ではなく、シャンチャンでは昼前には上がるだろう。うまく行かなければ、様子を見ながら雨雲を消し去ればいい。あとはフォンフーが風で運んでくれる。

 もうじき雨が降るということが分かっているのか、いつもは人がひしめく大通りは今はまばらで、みな一様に急ぎ足だ。

 このスーグオで傘を持ち歩くものは少ない。もちろん有るには有るのだが、天候はわかっている。わざわざわかり切った雨の間に動かずとも、晴れているときに、用事を済ませておけばいい。

 だから、皆一様に早足なのは、朝早くから急ぎの用事を済ませ、雨が降る予告が出ている時刻までに一度家に帰ろうという魂胆なのだろう。また外に出るのは、雨が上がった午後からというわけだ。

 さてさて、今日は一体何をして過ごそう。なんて言ったって、今日は丸一日休みの予定だ。他の生き神たちも、各々の伴侶と思い思いに過ごすのだろう。自分も輿入れして初めての週末だし、できれば伴侶とともに過ごしたい。それを伴侶が許すかどうかはさておいても、朝の挨拶はしに行くべきだ。

 本殿の屋根を蹴って、社務所と杜を文字通り飛び越え、まっすぐに蒼器殿に向かう。自分の伴侶はもう起きているだろうか。昨日は早めに就寝していたようだし、もう街の皆が早めの一仕事を終えて家に帰る時間だ。朝餉のころだろうか。

 蒼器殿の前に降り立つと、ちょうど侍女長であるナイシンが蒼器殿から出てくるところだった。しまりなく口の端を上げ、何やらとんでもなくはしゃいだ様子である。

「お前がこんな時間にいるとは、ずいぶん早いな」

「あら、おはようございますシュイロン様。フーレン様はまだ社に不慣れかと思いまして、心配で」

「なるほど、ご苦労なことだなあ。で、なぜそのようにニヤニヤしているんだ」

「あの……うふふ、お話しさせていただいてよろしいですか? フーレン様のことなので」

「おう、一体どうした」

 他ならぬ伴侶の話ならば聞くしかない。目を輝かせると、ナイシンは笑いが堪えられないといった様相で、話し始めた。





「フーレン様が起きていらっしゃらない?」

 社に出勤し蒼器殿に入った直後、ナイシンは困った様子の、宿直の侍女ヂャオエンにそう相談された。

 はい、と優しげな下がり眉をさらに下げて、ヂャオエンは続ける。

「昨夜お休み前に朝餉の時間を辰の刻にと指定して頂いたのですが……」

 ナイシンは眉根を寄せた。ナイシンが門前町にある自宅を出たのが辰の刻だった。家から大門まで歩き、さらに大門から、社の中でも一番奥まった蒼器殿まで登ってきたものだから、辰の刻からは半刻ほどは過ぎてしまっている。それで起きてこないということは、大遅刻だ。ヂャオエンが困ってしまうのも頷ける。朝餉の支度はもうとっくに完了しており、冷えて味が落ちてしまうものもあるだろう。

 新しい器とはまだ昨日一日だけの付き合いだが、簡単に約束を反故にするような人間には見えなかった。小さく首を傾げる。

「声はおかけしてみましたか?」

「いえ……その、もしお休み中なら起こしてしまうのも、申し訳ないかと思いまして……」

 なるほど、とナイシンは首を縦に振った。

 ヂャオエンは仕事には真面目だが人に踏み込むのはあまり得意ではない。神の器に対してどのように接していいのか分からず、ただ困惑していたというわけだ。

「フーレン様は起こされたからといって怒る方ではないと思いますよ。私と共に声をかけてみましょう」

「ありがとうございます」

 そう言って、ナイシンとヂャオエンは二人で器の寝室へと向かった。控えめに寝室の扉を叩く。返事はない。

「おはようございます、フーレン様」

 そう声をかけても、静かなままで返事はない。

 まさか急病で返事も出来ないのか、それともここにはいないのか。

「失礼いたします!」

 焦って扉を開ける。部屋を見回すまでもなく、寝台に丸い膨らみが見え、ナイシンは寝台に歩み寄った。

 なんのことはない、気持ちよさそうに寝ている。広い寝台なのだから好きなだけ手足を伸ばせばいいのに、所在なげに寝台の端で小さく丸まっている。まるで子犬のようだ。ずいぶん深い眠りのようで、すうすうと幸せそうな寝息を立てている。その緊張感のない寝顔は、普段よりも随分幼く見えて、生真面目なヂャオエンに

「可愛い……」

 と言わせてしまうだけの力があった。

 はっとヂャオエンは口を押さえる。神の伴侶に対して「可愛い」は失礼だっただろうか。おそるおそるナイシンの顔を見る。

 ナイシンは自分を伺うような目をしているヂャオエンの顔を見て、力強く、同調の意味で頷いた。

 可愛い。確かに可愛い。シュイロン様の目に狂いはない。さすがは筋金入りの面食いだ。

 名残惜しさを感じながらも、ナイシンは軽く、寝ているフーレンの肩を叩いた。

「フーレン様」

 フーレンは小さく呻いて眉間にしわを寄せた後、身をさらに縮めただけで、起きる気配はない。もう一度、軽く肩を叩く。

「おやすみ中のところ申し訳ありません、朝餉の支度が出来ているのですが、いかがいたしますか?」

 今度は先ほどよりも長く呻き声を上げると、ごろりと寝返りを打って仰向けになり、うっすらと目を開けた。

「ごめん母さん……もう少しだけ寝かせて……」

 不明瞭にそれだけを言うともう一度目を閉じる。

 ギュン、という音を響かせ、眠っていたナイシンの母性が軽快に踊り出した。二胡に琵琶に琴に笛に太鼓に、とにかくありとあらゆる楽器全部を鳴らして、しっちゃかめっちゃかやりたい放題どんちゃん騒ぎである。

 母さんだなんて呼ばれたのは何年ぶりだろう! 自分の息子ときたらお袋とか、最近ではおばあちゃんなんて言って可愛らしさのかけらもない。

 フーレン様の親御さんは幸せ者だ、こんな歳になっても母さんだなんてほんの少し甘えた口調で言ってもらえるなんて!

「わ、わかったわ。母さん待ってるからね」

 笑いからなのか感動からなのか、震える声で、けれどナイシンはこのときばかりは母になりきってそう告げた。こんな美味しい状況、乗っからないなんて勿体無い真似できるはずない。

 必死にこらえていたものの、ヂャオエンは二人の様子に小さく吹き出した。

 もう少し寝ぼけて何か言ってくれないだろうか。ナイシンは期待して、フーレンの顔を覗き込んだ。

「うん、さっき寝たばっかりなんだ……俺」

 そこまで言うと、フーレンはパッと目を開けた。まだ視界ははっきりしない。はっきりしていないのに、なんで目の前の顔がニヤニヤと嬉しそうに笑っている、それはよくわかるんだろうか。

 普段は起きたばかりだと血の巡りが悪くなかなか動き出せないのに、今は顔がやけに熱い。布団を跳ね除けて、寝台の上で焦って正座をし、

「ごめんなさい起きましたおはようございます! ナイシンさんすみません!!」

 謝るものの相手は許してはくれないらしい。うふふと頬を染めて嬉しそうなままだ。

「おはようございます。いつでも母とお呼びください。むしろ呼んでいただけると嬉しいです」

「あの、いえ、本当にごめんなさい、忘れてください今すぐに。本当に、お願いします。あの、ええと」

 フーレンは体を横にずらし、ナイシンの後ろにいたヂャオエンを見た。

「寝坊してすみません! すぐに行きます、ヂャオエンさん」

 名前を呼ばれて、ヂャオエンは驚いた。確かに昨晩寝る前に挨拶をした際に自己紹介をした。けれどまさか、きちんと自分の名前を覚えていて、謝罪までされるとは。神の器にそうされると、恐れ多くて逆に恐縮してしまう。

「いえ、あの……食堂でお待ちしております」

 頭を下げると、そそくさと器の寝室を後にし、朝餉の準備に向かった。

「じゃあ母さんも行くから、着替えて食堂に来るのよ。……それとも、お着替えに手伝いが必要でしょうか」

 ナイシンは前半を母の口調で、後半を侍女長の口調で、告げた。

 こういう風に急に態度が変わるから、女性は怖いのだ。フーレンは赤い顔のまま、首を横に何度も振る。

「いいいいいえ大丈夫です。すぐ行きます」

「では、のちほど。失礼いたします」

 なんとも悩ましげなぽってりとした唇をにこりと笑みの形にすると、ナイシンは小さく頭を下げて、器の寝室を後にした。

 直後、

「あああああああああああ」

 布団をかぶったフーレンのくぐもった苦悩の叫びを背中に受け、ついにこらえきれず、声を出して笑いながら軽い足取りで歩き去った。





「――と、いうわけなのです」

 話しながら思い出したのだろう、ナイシンはまだ肩を震わせていた。その楽しそうな様子といったら、前の器と目を合わせて何やら二人で笑い転げていた日々が戻ってきたようで、シュイロンはそれだけで、ああ結婚をして良かったなと思ったほどだ。やはりナイシンは、器、自分が世話するべき相手が居なくて寂しかったのだろう。ここ数日の充実した様子を見ていればすぐに分かる。十は若返ったのではないか。

「ええーいいなあ。俺も見たかった」

「フーレン様は反応がとても面白……可愛らしいので、ついつい苛めてしまいますね」

「……随分仲良くなっているなあ」

「ええ、だって私はフーレン様の母ですもの。ふふふ」

 よほど嬉しかったのだろう、ナイシンはまだ母を引きずっている。

 シュイロンはちょっとだけ呆れていた。

 フーレンは思っていたよりも随分優しい性格をしているようだ。話によると、宿直をしている年若い侍女の名前をすぐに憶え、やりすぎなくらい腰の低い態度を取っている。ナイシンに対しては寝ぼけていたとはいえ「母」と呼ぶほど油断をしていた。

 それなのに自分に対しては、まるで肥溜めを見るような目で見てくる。伴侶に対して、神に対して、あまりに酷くないか。

「じゃあナイシンが俺の義母ということになるのか」

 ぽそりとつぶやく。ナイシンはにやりと不敵に笑った。

「あら。……息子のお嫁さんならビシビシ鍛えなければ」

「……お前意外と怖い姑なんだな」

 ナイシンの目に本気の色を見たシュイロンは自分の腕を抱いた。

 シュイロンは、ナイシンが侍女たちに怒ったり、きつい物言いをしたりしているところを今まで見たことが無い。むしろ姉のような、それこそ母のような、ときには友人のような、そんな接し方をしている。だから侍女たちから慕われており、今の社はすこぶる働きやすい環境になっているのだろう。離職率がかなり低い。最近では、社を辞めたくないがために結婚をしないと宣言している侍女だっているほどだ。

 千二百年も社を見てきたが、女だけの閉じられた世界で、こんなに人間関係が上手くいっているのは初めてだ。それもこれも、全てナイシンが社を取り仕切っているからなのだろう。そういう意味でも、シュイロンはナイシンに一目置いていた。千二百年に一人の逸材だ。

 だからこそ、そんなナイシンを姑に持つとどうなるか。無意味に苛められることは無いだろうが、散々しごかれ家事技能や礼儀作法が完璧になった結果、夫よりも姑に惚れてしまいそうである。それはそれで幸せなのかもしれないが、本末転倒もいいところだ。

「まあ、そんな冗談はさておき。シュイロン様、フーレン様の本物のお母様……ご家族のことは、何か聞いていますか? 結納金をお渡ししないと」

「いや……」

 そういえば、自分と伴侶はまだゆっくりと同じ時を過ごしていない。昨夜は途中までは良い雰囲気だった気がしていたのだが、不興を買ったようで突然追い出されてしまった。聞きたいこと、聞かねばならないことは、まだまだたくさんある。

「では世間話ついでに俺から聞いておくとしよう」

「ええ、よろしくお願いします」

 まあ、何はともあれ朝の挨拶だ。今日も自分の伴侶は愛らしいだろうか。

 シュイロンは蒼器殿の扉を開けた。

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