第7話「早く来いよ、シュイロンの馬鹿野郎!」
バンチュで馬を替え、ヤンファとフーレンは狼煙が上がっている場所よりだいぶ手前で馬を下りた。まだ災厄の姿は見えない。けれど、存在を痛いほど肌に感じていた。アーゴンの時に感じたのと同じ、腹の中を全部掴んでかき回されるような、不快感。出来れば、これ以上は近寄りたくない。ヤンファもそれを感じているのだろう、喉を鳴らした後、振り返った。
「先に言っておきますけど、何があっても私の前には出ないでくださいね」
「それは約束できない」
きっぱりと答えたフーレンに、ヤンファはため息を吐いた。
こう答えられるだろうなということは想定していた。ヤンファにも、だんだんフーレンがどういうところで自分の主義を曲げないのか、解るようになってきていた。だからこそ、先手を打ったのだ。
「……あのですね。ルーダオは社守だけを狙います。つまりあなたが囮になるとか、そういう作戦は出来ません。わかりますか」
ほんの少し不服そうな顔をして頷いたフーレンを見て、ヤンファは続ける。
「そして私は霊力に多少覚えがありまして、たとえ災厄に攻撃されたとしても、しばらくは防げます。私一人なら。でも器様と二人分となると、かなり消耗します。だから、前に出てこられると、ほんっっとに邪魔なんです。わかりますか? 邪魔なんです。何があっても、絶対に、私の前には出ないでくださいね。邪魔なんで。邪魔」
今まで、一日にこんなに何度も「邪魔」だと言われたことがあっただろうか。いや、無い。
旅の薬師を始めたばかりの頃に勢い余って大通りで大声で客引きをしたときだって、こんなにはっきりと邪魔だとは言われなかった。迷惑そうな顔でジロジロ見られたり「そんなんじゃ病気の奴はますます寄って来ねえ」と通り過ぎざまにぼそりと言われたりはしたが、それだけだ。それでも結構傷ついて、その日の夜は恥ずかしさも相まってなかなか寝られなかったけれど、あの時の比ではない。
あー、本当に邪魔なんだ。そんなに迷惑なんだ。
無事に帰れたとして、今夜眠れるだろうか。
「わかった。でも、俺に出来ることがあったら何でも言っ」
「ありません」
顔も見ずに、ヤンファは斬り捨てた。昨日器になったばかりの一般人に、出来ることとは一体何なのか。ヤンファは憤慨していた。
「貴方は、ただ黙って後ろにいて下さい。ついてくることは許可しましたが、貴方は器。失うわけにはいかないのです。良いですね」
一歩、また一歩と災厄に向かって歩を進める。近づくたびに、背筋に走る悪寒が強くなる。そのくせじわりと全身に嫌な汗をかく。空気がべったりと湿気て重い。見えない何かが全身に絡みついて、そのうち指一本動かせなくなりそうだ。アーゴンのときにはそこまで感じなかったのに。
いや、アーゴンのときはシュイロンに憑依されていたからだ。嫌な気配は感じていたけれど、ここまでではなかった。生身のまま相対すると、災厄とはここまで恐ろしいものなのか。
通りを脇にそれて、林の中に入る。災厄を中心に風でも吹いているのか、足元は冷たい、けれど妙に生ぬるい向かい風を受けて進む。周りの木々でさえ、社の展望台から見たときは美しい緑に見えたのに、今では色を無くし、黒に近い色に変わってしまっているようだ。落ちている葉も、まだそんな季節ではないのに、踏みしめるたびに水分の少ないカサカサという音が響かせ、ぼろぼろと形を無くしていく。
災厄とは、命を奪う存在なのだ。生きとし生けるものを殺す存在なのだ。それを実感した。
「なあ、シュイロンは神の間からいつごろ出てくるんだ?」
社を出てから、もう随分時間は経った。他の神と気象を調整する仕事にどれくらいの時間がかかるのかはわからないが、そろそろ出てきても良い頃では。
こんな災厄なんていう恐ろしい存在と生身で相対するのなんて、出来れば避けたい。
ヤンファは首を横に振った。
「いつもは、おおよそ一刻ほどですが……今日は週末でしょう。明日と明後日、それから週明けの分までの調整をしなければならないので、今日は特に長い日なのです。三刻ほどかかるでしょうか。……そして、その……今日はシュイロン様、遅刻をなさいましたので、いつもより余計に出ていらっしゃるのが遅くなるのではないかと……」
言われて空を見上げる。もうだいぶ陽は傾いてきてはいるけれど、時間はまだ申の刻あたりだろうか。ヤンファの話だと、出てくるのは最短でも酉の刻だという。そろそろシュイロンが神の間から出てきてくれるのでは、という甘い考えは捨てなければならない。
……やっぱり俺が窮地に陥るしかないんだろうなあ。しかしどの程度の窮地ならば、シュイロンに伝わるんだろうか。今でも結構な窮地だと思うのだけれど。
「止まって」
ヤンファが小声で告げる。木々の奥に、少し開けた場所が見えた。そしてそこに、黒としか表現しようのない、塊。災厄だ。まだ少し距離があるため、中は見えない。けれど、アーゴンのときと同じ、そこだけ切り取られたようにぽっかりと黒い。ただアーゴンよりも少し小さいように感じた。その代りせわしなくあたりをぐるぐるぐるぐると、何かを探すように動き回っている。そして動いた部分に汚泥のような真っ黒い膿を落とし、周辺全てが死に変わる。膿に触れた雑草はすぐに黒く変色し、くたりと地面に張り付いた。
災厄の周りには、小さな御堂と、複数の石柱が設置されていた。社の大門の近くにあったものと、酷似している。
墓だ。でも、誰の。
問うようにヤンファを見る。視線の意味に気が付いたのか、ヤンファは
「あれは、歴代の……社守の墓です」
小声で答えた。
ルーダオはアーゴンに比べると動くのが早い。大人の歩行速度と同じくらいだろうか。もしルーダオが出現してまっすぐに社守、ヤンファに向かってきていたら、その道中のすべてが死に絶えていただろう。けれど、そうならず、この場所に縛り付けておくことが出来たのは。
「墓から社守の気配を感じるから、ここで足止め出来るのか」
ということは、あのぐるぐるぐるぐる同じ場所を回っているのは、探しているのだろう。
本物の、社守を。
「ええ、長くはもちません。あれは一つ一つ、どれが本物か確かめているのです。全てが偽物だと知れば……探しに出るのでしょうね、本物の社守を」
死してなお、亡骸で災厄を食い止め、人々を守ろうというのか。社守という存在は。なんという恐ろしく重い責務なのだろう。隣にいる少女の未来を想って、フーレンは心苦しくなった。きっと彼女も、ここで眠ることになるのだろう。一つでも社守の墓が増えれば、それだけルーダオを足止めできる時間は長くなる。
けれど、こんな人気のない、いつ災厄が出るか分からない場所を参ろうという者などほとんどいないだろう。あまりに、寂しい。
彼女の性格上同情などされたくはないだろうし、今はそんな話をしている時ではない。木々の奥に見える災厄に目を凝らす。
「……じゃあ、あれが全部偽物だとルーダオにばれるまで、隠れて見守ればいいんだな?」
「どうでしょう、ここまでくるのに随分時間がかかってしまいました。……もうそろそろ、気づいてしまうのでは」
嫌な予想というのは当たるもので、そう言っている間にルーダオは一つの石柱の前でぴたりと止まった。そして、
「ぐっ!」
衝撃波、叫びだ。油断していた鳩尾に思いっきり入り、フーレンはその場に崩れ落ちた。ヤンファにはきちんと叫び声に聞こえたのだろう、耳を押えていたのだが、
「如何なさったんです!?」
突然倒れこんだフーレンを心配し、駆け寄る。
「い、いや、大丈夫……」
本当は全然大丈夫ではない。喧嘩なんてほとんどしたことがないし、鳩尾を殴られたことだってない。痛いというよりは胃の中のものを全部ぶちまけそうなくらい、気持ちが悪い。だが今それを言ったところでどうしようもないし、死ぬほどの怪我ではない。黙って耐えるしかない。それに無理を言ってついてきた手前、これ以上情けなくてお荷物になるようなことは言いたくないし言えない。
自分には、災厄の声は聞こえない。その代り、直接体に衝撃という形で感じる。それはもう仕方がないと諦めるしかないけれど、あんなもの何回も受けるのは嫌だ。災厄の本当の姿が見えれば衝撃に備えようがあるのだろうけれど、今いる場所からは、木々や墓石が邪魔をして、災厄の中身など見えそうにない。
せめてもう少し近づければと思うのに、
「器様はこのままここに伏せていてください。くれぐれも、私の前には来ないでくださいね。……邪魔なんで」
くぎを刺すように言われては、近づくこともできない。フーレンは地面に伏したまま、目だけで頷いた。
「無理するなよ、ヤンファ。何かあったらすぐに」
「あー、はいはい」
もはや議論をすることも面倒になったようで、ヤンファは適当に相槌を打つと、ルーダオへと真っ直ぐに歩を進めた。隠れることもせずにまっすぐに、背筋を伸ばして近づく。
先ほどの咆哮は、怒りだ。ヤンファにはそのように聞こえた。本物が居なかった、騙されていたことに対する、怒り。ならばもう、自分の居所がばれることなどすぐだろう。逃げも隠れもしない。ここからは、正々堂々、迎え撃つしかないのだ。
ルーダオも、本物の社守に気が付いたらしい。全てが真っ黒で動きという動きは分からないが、叫び声を上げた後は動くことなく、けれどヤンファのことを警戒しているように、黒い円の淵をうぞうぞと動かしている。相変わらず、付近にぼたぼたと黒い粘液を振りまきながら。
林を抜け開けた土地に出ると、ヤンファは歩みを止めた。災厄との距離は、大人三人分といったところだろうか。きっともう、ルーダオの攻撃の範囲内だ。ヤンファは、ごくりと喉を鳴らし、
「私とは、初めましてですね。当代の社守です」
慇懃無礼なほどに、美しく、深く頭を下げて礼をして見せた。これはヤンファの、社守として守りたい礼節であった。案の定ルーダオは返事などするはずはない。余計にせわしなく繊毛のような触手をうぞうぞと動かすだけだった。
大丈夫。ルーダオのことは、社の資料で何度も見た。攻撃方法も、対処も、紙が擦り切れるまで読みこんだ。対応を誤らなければ、大丈夫。そう自分に言い聞かせる。
ルーダオの攻撃は、時間をかけて、一発ずつ、矢のようなものを飛ばす遠距離攻撃。速度は速いが曲がることは無く、まっすぐに飛んでくる。近づいてくることは無いから、接近戦の可能性は消して良い。
攻撃してくる瞬間を見誤らず、きちんと霊力で防いで耐えていれば、いずれシュイロン様が助けに来てくれる。そうすれば我々の勝利だ。
腹に添えた指の先が震えるのは、初めてこんなに間近で相対した災厄のあまりのおぞましさに怖気づいてしまったからだ。けして、自信がないわけでは、ない。
震える右手をまっすぐにルーダオに向け、左手でその手首を掴む。震えはほんの少し、マシになった。
この日のために、幼い頃から、霊力を操る修行をしてきた。決して霊力が強い方ではないけれど、これでも社守の一族の末裔だ。その矜持はある。
思わず肩で呼吸をしそうになるのを必死で押さえ、掌に力を込める。すい、と左から右に掌を動かすと、そこにうっすらと金色の壁が生まれた。向こう側が透けて見えるほどに頼りない壁だが、これでルーダオの攻撃を防ぐことが出来るはずだ。
問題は、いつ攻撃を仕掛けてくるか。なにかきっかけのようなものがあるのなら、それを見逃すわけには行かない。壁を維持するのには、それ相応の霊力が必要だ。何度も攻撃を耐えるには、壁を出現させている時間が短ければ短いほど良いに決まっている。攻撃の瞬間が分かれば、その瞬間だけ壁を出せばよくなる。霊力の消費を抑えられる。
額から顎まで、汗がしたたり落ちて行った。まだ壁を作り始めてから、そんなに時間は経っていない。それなのに、もう呼吸が荒くなってしまっている。ルーダオがこちらの様子を伺い、消耗するのを狙っているのならば、圧倒的に不利だ。
――もう、来るならさっさと来て!
右手が肩から震えだしたヤンファは、ルーダオからの攻撃を望んでさえいた。ルーダオは相変わらず、うぞぞ、うぞぞと触手を波立たせているだけで、これと言った変化は見えない。
これ以上は続けられない……!
目を瞑った。その瞬間。
「きゃあっ」
破裂音が先か、自分が吹き飛ぶのが先か、ヤンファには分からなかった。
突然自身の身体が宙を舞い、背中を強かに地面に打ち付けた。泥まみれになりながらも、弾き飛ばされた衝撃にまだ止まることが出来ず、朽ちた葉の落ちる林を転がる。
「ヤンファ!」
焦って駆け寄ってきたフーレンに肩を支えられ、ヤンファは体を起こした。目だけで自分の身体を確認する。
攻撃された衝撃で後ろに飛ばされただけで、攻撃事態は壁で防いでいる。頭は多少くらくらするものの、無事だ。もしルーダオの攻撃を防ぎ切れていなかったら、今頃自分の身体は腐り果て、生きてはいなかっただろう。霊力の壁はきちんと機能している。
「……大丈夫、です。ただ、目を閉じてしまったから攻撃の予兆を、把握できなかった……!」
もう一度、最初からやり直しだ。最初の攻撃を防ぐのに、霊力のほとんどを使ってしまった。二回目の壁はもう少し間を開けて作るべきか、それとも大事を取って、無理矢理にでもすぐに作り始めるべきか。
ふらつきながらも、ルーダオに向かってもう一度歩を進める。ふらふらとおぼつかない足取りで歩いていくヤンファに、
「ヤンファ、一旦引こう。付近の人たちへの避難誘導は終わってるんだろ? ルーダオが多少動いたって大丈夫だって」
肩を掴んで静止をする。けれど、ヤンファは何も答えず、ただ一度フーレンを睨み、肩を掴んだ手を振り払った。そして、先ほどよりは少ししっかりとした足取りで、ルーダオへと向かう。
「ヤンファ……」
それが社守としての覚悟なのか、それとももはや、ただ意地になって引けないだけなのか、フーレンにも判別がつかない。ただ、フーレンにも、分かったことがある。
こんなことは長くは続かない。確かにルーダオの攻撃は霊力の壁で防げた。けれど、その衝撃までは防ぎようがない。ヤンファは小柄だ。だからこそ、派手に吹き飛ぶ。先ほどは運よく柔らかい土の上に落ちたけれど、木にぶつかったり、石に頭を打ち付けたりしたら、ただではすまないだろう。
それに一度壁を張っただけで、ヤンファはかなり消耗したように見える。あの壁を、あと何度張ることが出来るのだろうか。
「くそ! 早く来いよ、シュイロンの馬鹿野郎!!」
腹立ちまぎれに叫ぶけれど、今いる場所とシュイロンの社はかなり距離がある。こんな声が届くはずもない。
またルーダオは叫び声を上げる。ヤンファは耳を押え、フーレンは地面に突っ伏した。ある程度覚悟はしていたから、最初にくらった時よりも気分的に楽ではあったけれど、それでも痛いものは痛い。
さっきから何をそんなにルーダオは叫んでいるのだろうか。黙って戦えないものなのか。なんで俺には災厄の声がこんなに重いんだ。本当に俺はただのお荷物じゃないか!
土のにおいを嗅ぎながら、フーレンは思った。
やっぱり、ヤンファのそばに行きたい。こんなところに隠れているだけでは、何のために来たのかわからない。
のろのろと立ち上がり、ヤンファの後ろに行く。
「隠れていなさいと言ったでしょう!」
それに気づいて怒るヤンファに、
「前に出ないからいいだろ!?」
言いながら、フーレンはヤンファの両肩に手を置く。
「何をする気!?」
「俺だって緩衝材くらいにはなれる。邪魔なお荷物でも使い道あるだろ!」
開き直って言うと、ヤンファは一瞬呆気にとられた後、
「……そうですね、そちらは任せます。貴方に私を支えられるか、心配ではありますが」
小さく笑って、もう一度薄い金色の壁を張った。
フーレンは、ヤンファの肩越しにルーダオを見た。
ああ、この距離ならば、見える。災厄の、ルーダオの、本当の姿が。
人だ。細い人。イーゴンは頭が無いように見えたが、ルーダオは、ごく普通の人影だ。どこかが足りないわけではない。若い女性のようなしなやかな体つき。細い腰に、突き出た胸。その、胸から、何かが出ている。あれは一体、何なのだろうか。体つきははっきりとわかるのに、胸から出ている何かは煙のようではっきりとは見えない。顔をせわしなく、右へ左へ行ったり来たり動かしている。まるで弥次郎兵衛のようだ。手に持っている物を見つめているのだろうか。細長い棒を持っている。目を凝らすと、先端に三角の矢じりがついているのが見えた。
「あれか……」
小さくつぶやく。先ほどは遠くて見えなかった、ルーダオの攻撃の正体。手に持った、矢。あれを飛ばしてきているのだろう。
シュイロンの金色の槍と似ている。いや、全く違う。だが、似ている。力の塊だというところは一緒だが、纏っている力は真逆だ。シュイロンが光で、災厄が闇。
あんなもの、一度でもよく防げたな、とフーレンは思った。ヤンファは術師として相当優れているのだろう。そしてまた、肩で呼吸をしながらヤンファは壁を張り続けている。全身に汗をかいているのか、支えている肩もじっとりと濡れていた。
弥次郎兵衛の、動きが止まった。矢の観察を終えたのだ。そして、矢の先端を、社守、ヤンファに向ける。
「――くる」
「えっ!?」
ヤンファには何も見えない。ルーダオはただ真っ黒な塊で、先ほどと変わらず触手が風を無視してあっちこっちに流れているようにしか見えない。攻撃の予兆など、何一つ感じない。なのに、
「くっ!」
今度は、見えた。ルーダオからまっすぐ飛んできた黒い矢のようなものが、金色の壁にぶつかって四散し、爆発音を立てて消えるところが。そして、来るといわれて身構えたおかげで、踏ん張れた。もちろん後ろにフーレンが居たからというのもあるが、弾き飛ばされずに済んだ。
ヤンファは勢いよく振り返った。
「なぜわかったの!? 攻撃が来るって!」
「えっあ……だって、見えたから」
「見えた!? あ、貴方には災厄の本当の姿が見えるっていうの!?」
「う、うん……」
あまりの剣幕に驚いて、フーレンは一歩後ずさった。そういえば、見えると分かったとき、シュイロンも驚いていたようだった。霊力を自在に使えるヤンファにも、災厄の中身は見えていないらしい。
「なんてこと……!」
ヤンファは小さく呟き、震えていた。シュイロンには見えることを「可哀想」と言われてしまったけれど、もしかして俺も何か役に立てるかも。なんて喜んでいたたフーレンは、顔色を蒼くしているヤンファに、違和感を覚えた。
あれ、これ全然歓迎されてない。
「ヤンファ……?」
ヤンファは一度、伺うような、何かを言いたそうな目でフーレンを見た。けれど、
「……今は話している場合ではありませんね」
ルーダオに向き直り、壁を張ろうと手を伸ばす。
「待った。……まだ、大丈夫」
手には、矢はもうない。だからしばらくは、攻撃できない。無駄に長時間壁を作っている意味はない。休める時には、ヤンファは休むべきだ。それどころか、もう手に矢はないのだ。もしかしてルーダオは攻撃する術を無くしたのではないか。
そう楽観した。
けれど、
「あ……あー……」
気づいてしまった。気づかなければ、よかった。ルーダオがどうやって、矢を調達しているのか。
「な、なんなんですか、説明しなさい!」
「ヤンファ、耳塞いで!」
ヤンファは素直に耳をふさぎ、フーレンは衝撃に備えた。直後に、ルーダオの叫びと衝撃波。備えを出来たし、言い方は悪いがヤンファを盾にしている関係上、自分には全く当たることはなかった。二人とも無傷だ。それは、本当に良かった。でも。
「痛い……」
「どこか怪我でも!?」
「……聞かない方がいい」
ルーダオの叫びは、怒りからではない。
悲鳴だ。
ルーダオは、胸に刺さった矢を抜き、それで攻撃してきているのだ。痛みを感じるのだろう、引き抜くときに、悲痛な叫び声をあげる。そして傷口から、血を吹き出す。それが、煙に見えたのだ。ルーダオから滴り落ちる、粘度のあるすべてを腐食させる液体。膿だと思っていたが、あれは血だ。血を流しながら、動き回っているのだ。そしてしばらくすると、胸から吹き出す血が固まり、また新しい、矢が出来る。それをまた悲鳴をあげながら引き抜き、血を流すことになるのだろう。
繰り返される、痛み。終わりのない、苦行。想像するだけで、あまりに辛い。ルーダオは出現するたびに、こんなことを繰り返しているのだろうか。
「う……」
感情移入を、しすぎた。なるべくルーダオは見たくない。あんな悲鳴は、もう聞きたくない。けれどヤンファに指示は出さなければならない。自分に鞭を打ってルーダオと向き合うけれど、ただただ、ルーダオが哀れで仕方が無かった。
早く、終わらせてやってくれよ。頼む。シュイロン、早く来てくれ!
ヤンファの背を支えながら、フーレンは祈った。
ヤンファもヤンファで、もう限界だった。フーレンが、ルーダオの本当の姿を見えているおかげで壁を張る時間が短く済む、それはうれしい誤算であった。けれど、何事にも限界はある。そもそも、最初に長時間壁を張りすぎた。あと一回、壁が作れるかどうか。作れたとしても、不完全なものになってしまうかも。邪魔だお荷物だと斬り捨てず、相手を信頼していればこんなことにはならなかったかもしれない。
後悔していても仕方がない。今はルーダオに集中しなければ。
「ヤンファ、そろそろ」
フーレンが震える声で告げる。ヤンファは最後の力を振り絞って、壁を作った。が、先ほどとは比べ物にならないほど壁は小さく、薄い。
「くっ、やはり……!」
この壁では、ルーダオの攻撃を防ぐことはできない。こんな脆弱で小さな壁など、ルーダオの矢は易々貫いてしまうだろう。
ヤンファは諦めた。不完全な壁だが、作るのはやめない。けれど、
「器様は離れて!」
傷つくなら、死ぬのなら、自分一人で十分だ。真後ろに居られては、巻き込んでしまう。
「嫌だ!」
そういわれて、離れられるわけがない。フーレンの目にも、今回の壁が今までの壁と様子が違うことなどすぐに分かった。だからこそ、余計に、離れない。
どうにか出来ないものか。どうにかならないものなのか。矢の速さは目にも止まらず、投げつけてくる瞬間によけるなんていう器用なことなど出来そうにない。
ルーダオが矢の先端をぴたりとヤンファに向けた。ヤンファはもう意識も朦朧としているようで、ぜえぜえと苦しげな呼吸音を響かせるだけで何も言い返さない。けれど、不完全ながらも壁を作り続けている。
自分の無力さを、呪った。死なせたくないと無理についてきて、結局このざまだ。俺には何もできない。
「くそ……! 早く来いシュイロン! 俺はここだ!!」
フーレンの叫びは、林の中にこだました。返事はない。
フーレンには、ルーダオが矢を飛ばしてくる瞬間が見えた。
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