第6話「好きになれる要素がどこにあるんですか!?」

「遅い!」

 馬場に着いた瞬間、ヤンファに怒鳴られた。その言葉通り、ヤンファはもはや栗色の馬上で、興奮からかせわしなく足を動かす愛馬を必死に宥めている。

「貴方もさっさと馬に乗って! 早く」

 馬の世話をしている侍女が連れてきてくれた自分用の馬にはきちんと鞍がつけられており、体躯も大きく足もしっかりした、とても良い馬だというのが良くわかる。黒々とした毛はつややかで、若さと血気が溢れているようだ。それでいて知性を感じる大きな瞳。荒い鼻息や時々武者震いをしているところからも、本人……いや、本馬がやる気満々なのが見て取れる。

 いやあ、きっとものすごく速いんだろうなあ。馬上で受ける風は最高に気持ちいいんだろうなー?

 まあ、俺が、馬に乗れれば、だけど。

「……あなた、まさか……馬に乗れないの……?」

 いつまでも、馬の手綱すら触ろうとしないフーレンを、信じられない物を見たという目つきでヤンファは見た。

「いやいや、だって、俺はただの薬師だよ!? 颯爽と乗れた方がおかしいだろ!!」

「あ、あなた馬に乗ることすら出来ないのに一緒に行くだなんて大言壮語を吐いたの!?」

 乗って乗れないことは無い。と、思う。跨ることくらいは出来ると思う。けれどそれを長時間持続する自信はないし、手綱で馬にいうことをきかせるなんていうのももってのほかだ。それにこんなに自信のない人間を、馬という賢い生き物が黙って乗せてくれるとは思えない。たぶん途中で馬に見透かされて、振り落とされて死ぬ。馬に乗る前に、馬との信頼関係を築く必要がある。それには最低でも一年くらいは待ってもらわないといけない。

「い、いや、でも、俺も行くから……絶対……」

 もはや意固地になってそれを繰り返すしかない。馬に乗る以外の早い移動手段なんて他には何も思いつかないけれど、ナイシンに託され、承った以上、ヤンファと離れるわけにはいかないのだ。

 ヤンファはフーレンに聞こえるように、わざと大きなため息を吐いた。嫌味のつもりだ。

「バンチュの首長に鳩を飛ばして! 途中で馬を乗り換えます!」

 毅然とした話し方で侍女に指示を出し、

「ごめんね、負担をかけるけど、頑張って」

 と優しい声色で馬首を撫で、その直後に、

「ぼさっとしてないで! 私の後ろに乗りなさい!」

 フーレンに怒声を浴びせながら、手を差し出す。ヤンファは随分と忙しい女の子だな、とフーレンは心の中で苦笑いをした。けれど、先ほどまでの「社守」然とした様子より、随分と壁が無い。これが彼女の本来の姿なのだろう。非常事態ではあるけれど、だからこそ、見られる姿だ。

 言われるがままにヤンファの手を取ると、力づくで馬上へと引き上げられた。

「しっかり捕まっていなさい! 変なところは触らないでくださいね!」

「逆にどこを持てば!?」

「帯の硬いところです! そこに黙ってしがみついていなさい!」

 その言葉通り帯の部分にしがみつくけれど、自然とヤンファの細い腰に両腕を回す形になり、それはそれで全く落ち着かない。ごめん本当にごめん嫁入り前の女の子なのにごめん。でも落ちて死ぬわけにはいかない。自分の両手首を掴んで輪の形にし、なるべく触れないように、距離を作る。

 どうなんだこの状況。客観的に見て、俺、ものすごく格好悪くないか? 女の子の後ろに乗せて貰って、腰にしがみついてるんですけど。

「走って!」

 手綱を思い切りひき、ヤンファが馬を走らせる。馬は一度大きく嘶くと、慣れた足取りで社の中を駆け下り始めた。細い山道も細かい石段の階段も、器用に速度を落とすことなく走る。随分と訓練された良い馬だ。事前に侍女たちが触れ回ってくれたのだろう、参拝者も両端に寄って道を開け、駆け抜けていくヤンファに祈りをささげている。

 先ほどは「出るな」と言われた大門を、あっさりと潜り抜けた。フーレンは拍子抜けをした。シュイロンの結界が張られているという話だから、もしかしたら自分が出られないような仕掛けが施してあるのかもと少しだけ疑っていたのだ。それが、何もなかった。抵抗すら感じなかった。「出るな」というシュイロンの言葉だけで、自分を完全に閉じ込めてしまおうという魂胆ではないのではないか。

 ……余計に、逃げにくくなったな。

 分かりやすく、物理的に出られない場所ならば、出せと大声でわめいて暴れることも出来る。けれど、実際には何もない。檻は言葉だけだ。出せと大声でわめかずとも暴れずとも、出ることは出来る。でも。

 約束を破るようで、裏切りづらい。体じゃなくて心を縛られたようだ。

 遠くなっていく社を、フーレンは目だけで見送った。

「ヤンファ、あの」

「なんですか!? 舌を噛みたいの!?」

 ヤンファは後ろを振り返らない。その余裕すらないのだろう。自然と声が大きく、荒くなる。

「いや……ごめん」

「その『ごめん』は何の『ごめん』ですか!?」

「ヤンファの、言うこときかなくて。でも俺」

「先ほど聞きました! 後悔するから絶対行きたいんでしょう!?」

「……うん。ごめん」

「謝らないで! 謝るくらいならここで今すぐ降りなさい! それが出来ないんだったら謝罪なんていらないわ。その謝罪にはまっっっったく意味も価値も無いもの! 自分が許されたいがためだけに謝るのはおよしなさい、私はそんなもの受け取りたくない! 迷惑だわ!」

「ご、ごもっともで……」

 正論は刺さる。しかも自分より年下の女の子の口から出るものなら特に。

「ああもう! 足手まとい! お荷物! 馬にも乗れないなんて! 私の愛馬に負担をかけて! 貴方みたいな人が神の器だなんて信じられない!」

 そして、悪口も刺さる。それが間違ってないから余計に痛い。何の反論も出来ないので、舌を噛まないように口を閉じているしかない。もはやタガが外れたのか、爽快に馬を走らせながらヤンファは毒づき続ける。

「シュイロン様に対する敬意もない! 社の知識も一般常識もない! シュイロン様はどうしてこんな男を選んだのかしら! 今までは女性ばかりだったと聞いていたのに、よりによって私が社守のときに男を選ぶなんて!」

「え、と……ヤンファは」

「何!? 何か文句があるの!?」

「男が、嫌い……なの?」

 馬蹄の音に掻き消されそうなほどに、小さな声でフーレンは訊いた。もしかして、聞こえなかったのだろうか。ヤンファは何も答えず押し黙った。

 聞こえなかったなら聞こえなかったでいい。もう一度訊く勇気はフーレンには無い。答えは予想できていたから、聞こえなくて良かったと安堵したくらいだった。けれど。

「好きになれる要素がどこにあるんですか!?」

 答えは最悪の形で返ってきた。フーレンは乾いた笑いを浮かべることしか出来ない。ごめん本当にごめん腰にしがみついてて。

「男なんて……! 乱暴だし声が大きくて煩いし汗臭いし汚いし自分勝手だし女とみれば見下して助平な目で見てくるし……最低よ!」

 一個一個が己を貫く。思い当たるところだらけだ。シュイロンに対して怒鳴りつけていた自分は確かに乱暴で声が大きかっただろうし、今でこそ身綺麗にしているけれども薬師として旅をしていたころは風呂なんて入れず臭くて汚かったし、そりゃ可愛い女の子が居れば見るさ、見るよ。その目が助平だと言われてしまったら何の反論も出来ない。でも、

「お、男皆がそういうわけでは、ないよ……」

 男の沽券のために小さく抗議する。自分以外の誰かのために。

 と、いうより、多分今までヤンファが出合った男がそうなだけで、世の中には一口に「男」って言ったって、いろんな人がいるのだ。特定の「男」のせいで、「男」皆を嫌いになってしまうのは、違う。そんな風に視野が狭くなってしまうのは、これから先の人生、勿体ないのではないか。

 ヤンファの返答は、あまりにも意外だった。

「ええ、そうですね。私もそう思いましたよ、一瞬、貴方に対して!」

「へっ、俺!?」

 てっきり嫌いな「男」の代表にされていると思っていたのに。

「貴方のシュイロン様に対する抗議は正当なものだと思いましたし、貴方は私やナイシンさんにも気を使って、見下すなんていうことはしなかったでしょう。下心も無さそうでしたし……さすがはシュイロン様が選んだ方だわと思っていたのよ、ついさっきまでは!!」

 うん、ついさっきまでは。今は完全に違うんですね。いや、態度で分かるんですけど。

「こっちの気持ちも気遣いもお構いなしで自分の感情を押し通すことしか考えてない! いつだって折れるのは私! それなのにそっちが正義みたいな顔をして! もううんざりだわ!」

 黙って聞きながらも、自分じゃない誰かだな、と、フーレンは思った。今ヤンファが怒っているのは、自分のようでいて、自分ではない。誰かと混同している。そうじゃないと、「いつだって」の言葉に説明がつけられない。彼女はずっと、身近な男性に感情を押し付けられ、自分の主義主張を曲げ、折れ続けているのだろう。それは、今日初めてあったばかりの自分では、ない。

 けれど自分も確かに自分の感情を優先して、ヤンファの心遣いや気持ちを無視してしまった。それは間違いない。だから受け入れて、黙って詰られる。ヤンファもそれに気が付いたのだろう。細く息を吸った後、気まずそうに頭を下げた。

「……すみません。父と、幼馴染のことです」

 ずいぶんと身近だな、とフーレンは心苦しく思った。彼女が今まで、父や幼馴染にどう扱われていたのか、具体的なことは何もわからない。けれど、そんなに近い人たちに、自分の感情を無視され続けてきたとしたら、確かに、男に対して絶望してしまう気持ちは、よくわかる。

「ヤンファは……優しすぎるんだと、思う」

 フーレンの言葉に、ヤンファは呆れた。今まで自分が何と言われていたのか、聞いていなかったとでもいうのだろうか。

「何が言いたいの?」

 殊更に不機嫌そうに、ヤンファは答えた。適当に褒めて自分の機嫌でも取ろうというのだろうか。浅はかだ。腹が立つ。

「……俺は言葉を間違えていたんだな」

「何が!?」

「ごめん、じゃない」

 きっと、ヤンファの父や幼馴染は、ヤンファの優しさに甘えすぎているのだ。だから簡単に、ヤンファの気持ちを考えず、自分の意思を通そうとしてしまう。そしてヤンファも優しいから、嫌々ながらも、毎度それを許してしまうのだろう。でもそんなのはやっぱり辛くて苦しくて、ヤンファの心の負担になり、今、男に対する不信感に繋がってしまっているのではないだろうか。そんな風に思えた。そして今、自分もそんな彼女の優しさに甘えている。

 ヤンファは優しい。だって、本当は男なんか大嫌いで、男が神の器になって社で暮らすなんて、到底受け入れられないことのはずだ。それなのにきちんと男である自分に気を遣い、社の中を案内し、励まそうとまでしてくれた。大嫌いな男の、後悔したくない、なんていう個人的な想いを汲んで、文句を言いながらも、こうやって馬に乗せてくれている。

 俺がしなきゃいけないのは謝罪じゃない。

「ありがとう、ヤンファ。俺の願いを叶えてくれて」

 感謝だ。

 自分でも不思議なほどにするりと口からこぼれて驚いた。それと同時に、とても気分がいい。まっすぐ前を、向ける気がする。馬上で受ける風が心地いいと、そのとき初めて思えた。それまではとにかく無理を通した申し訳なさと腰に手を回している罪悪感でいっぱいで、風を感じる余裕すらなかったのだ。

 ヤンファは笑った。穏やかな微笑みではなく、どちらかというと鼻で嘲笑ったのに近い。

「……そうですね、その言葉なら……受け取ってあげなくも、ないです。どういたしまして」

 けれど、口調は随分優しくなった。それはヤンファも自覚していた。

 一言に、なんだか随分、救われた気がした。自分の我慢が報われたような気がしたのだ。今まで相手の無理を認めて自分が折れたときに、謝罪をされることはあっても、感謝を述べられることは無かったな、とヤンファは思い返す。謝罪されようが感謝されようが、結果は同じ。なのに、どうしてこんなに受け取り方が変わるのだろうか。

 ――それはたぶん、この人が舌先ではなく、本当に心の底からそう思って言っているから、なんでしょうけど。

「だからって! 私は貴方を許したわけでも、器として認めたわけでもありませんからね!」

「わかってる!」

 短く答えて見据える、手綱を握るヤンファの小さい背中。

 どうしよう。話せば話すほどに、彼女のひととなりを知れば知るほどに、失いたくないという気持ちが強くなる。

 器とはいえ、今はシュイロンの憑依していない、ただの人間。災厄とも前に一度会っただけで、詳しいことを知っているわけではない。霊力だってあるわけではない。そんな自分に、彼女を守ることが出来るだろうか。

 いや、ナイシンとも約束した。どうにかして、絶対に、守り切ってみせる。

 ぐ、と奥歯を噛みしめた。

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