第5話「だから、俺も一緒に行く」

 来たときは下り坂で、しかも社の中の説明を受けながらだった。足取りは軽く、ときおり談笑をしながらの道だ。距離のわりにずいぶん短く感じたし、実際とても楽しかった。

 けれど帰りは上り坂。しかも、二人とも表情は暗く、何も言葉を交わすことはない。随分足取りが重く、長く感じる。雰囲気が良くないことは十分わかっていながら、それでもフーレンには口を開くことができなかった。一体今の自分に、何が言えるというのだろう。会話の糸口はきっとたくさんあるのだろうけれど、そのどれも、今はうまく掴めそうにない。掴めたところで、先ほどまでのようにわだかまりなく会話が出来るとは思えない。確実に、二人の間に、大きな溝が出来てしまった。

 風に木々が揺れるざわざわという音だけが、やけに大きく聞こえる。行きには数える暇もなかった石段の数も、もう七百を優に超えた。そろそろ、本殿に辿り着く。

 無言で石畳の階段を登り、会話のない気まずい雰囲気でも、息は上がるし汗はかく。顎に垂れた汗を手の甲で拭い、本殿前の展望台にたどり着いたフーレンは大きく息を吐いた。こういうときこそ、悩みがちっぽけに見える景色を見るのにふさわしい。壮大な景色は、少しでも自分の心を慰めてくれるだろうか。

 ふらふらと展望台に向かうフーレンの背中に、ヤンファが気まずそうに声をかける。

「蒼器殿への道は、わかりますか。私は社務所に戻りますが、途中までご一緒に……」

 フーレンの返事はない。聞こえていないのか、はたまた、聞こえているけれど、もう自分には返事もしたくないのか。自分でも、差し出がましいことを言ってしまったという自覚があるだけに、余計に気まずさが募る。

「器様、あの」

 もう一度声をかけた、瞬間。バッと、急にフーレンは駆け出した。疲れていたろうに、全速力で、展望台の柵に向かって。

 まさか、飛び降りるつもりでは。

 社の中で自殺をするなんて罰当たりな人間は、ヤンファの知る限り、今までいたことはない。けれど柵の下には木々が茂っているものの、相当な高さがある。険しい斜面の岩肌もその下には見えているし、転がり落ちてしまえばひとたまりもないだろう。

 まさかこれからの人生にそこまで絶望していたとは。

 ヤンファは急いでフーレンを追い、柵に張り付いたフーレンの背に飛びついた。

「お、おやめください自殺だなんて!」

 フーレンにはまったくそんなつもりはなかった。突然のヤンファの言葉と行動に驚いたくらいだ。それなのに後ろからヤンファに勢いよく飛びつかれたせいで、柵にかけた手を滑らせた。

「わ、わわわわ」

 上半身全部が柵の向こうに出て、なおかつ足が浮く。視界がぐるんと一回転した時には、あ、俺死んだななんて覚悟を一瞬した。さすがにこの死に方は想定していなかったし、この場合俺墓石になんて書かれるんだろう、めちゃくちゃ格好悪いななんてどうでもいいことまで考えた。

 なんとかヤンファに引っ張られて柵の内側に戻ることが出来たけれど、危うく頭から落ちるところだった。

「生きていれば良いこともあります、ですから死んではいけません!」

 なんて涙目で胸ぐらを掴んで自分に説教をするヤンファに、いや俺今君に殺されかけたんだけどね、なんていうことは出来ず。

 それより今、もっと大事なことがある。

「違う! ヤンファ、あれ!!」

 柵の向こうを指差す。そこには先ほどと変わらず、雄大な景色が広がっていた。ヤンファはフーレンの指差した方を怪訝そうに見つめ、はっと息を飲んだ。

 門前町より北西、山と山の奥。海沿いのあたりになるのだろうか。あまりに遠く、ぱっと見ただけでは見過ごしてしまいそうなほどに頼りない。

 薄く、細く、天に向かって立ち昇る、黒煙。

「災厄だ!」

「誰か馬を!!」

 フーレンとヤンファは同時に叫んだ。それと同時に、ヤンファは社務所に向かって駆け出す。あまりに早く、フーレンは一瞬ついていけなかった。

「ちょっと待て、どこに行くんだ!?」

 後について走り出す。

「どこって、災厄の元に決まっているではないですか!」

 焦りで苛立った声でそう答え、ヤンファは社務所に駆け込んだ。声を聞き、準備をしていたらしい侍女がヤンファに外套を差し出す。

「災厄は人間には倒せないんだろ? シュイロン呼びに行かなきゃ!」

「ええ、そうですね。けれどシュイロン様は今神の間にいらっしゃるので、外から声をかけても届きません。私たちでどうにかするしかないのです」

 渡された外套を手早く羽織り、ヤンファは踵を返した。馬場まで降りる間に、誰か愛馬に鞍をつけておいてくれるだろうか。展望台そばの階段に向かって走る。一刻の猶予もない。

「だからってなんでヤンファが災厄の元に!? 危なくないか!?」

「危ないに決まってるでしょう!」

「じゃあなんで」

「なんでなんでって……もう!!」

 説明している暇も惜しいのに!

 ヤンファは階段に向かっていた勢いを殺さないままぐいと片手でフーレンの胸ぐらを掴んで展望台まで引っ張った。その力の強さに、フーレンは思わずよろける。

「いいですか、あの方向、あの距離。あの災厄はきっとルーダオです」

 ヤンファに強引に引っ張られながら、フーレンは舌を巻いていた。ぱっと黒煙をみただけで、ヤンファは災厄の名前を予想し、その特性を理解して、立ち止まる隙もなく行動に移していたのだ。

「ルーダオ?」

「災厄が色々な特性を持っていることをご存じですか、ご存知ですね? ルーダオには『社守を狙う』という特性があります。社守の位置を察知出来るうえに、動きが比較的早い。意味がお分かりですか?」

 説明をされて、ようやく、ヤンファが何故こんなにも焦っているのか、フーレンにも分かった。

「ヤンファがここにいると、門前町が、社の皆が、危ない」

 今災厄がいるあの場所から、一直線にヤンファを狙って動いてきたとしたら、その道すがら、たくさんの人が巻き込まれて犠牲になってしまう。だからこんなにも、焦ってこの場所から離れ、災厄の元に向かおうとしているのだろう。

 たった、一人で。

 フーレンの答えに、ヤンファは一度力強く頷いた。よかった、この人は理解が遅い方ではない。

「ええ、ですから私が災厄の元に向かえば、少なくとも足止めは出来ます」

 と言っても、千二百年の歴史の中で、ルーダオとは何度も戦っている。ヤンファ自身が社守として直接相対するのは初めてだけれども、何も対処をしていないわけではない。時間を稼ぐ、仕掛けはしてある。

 だがそれも、長くはもたない。なるべく早くルーダオの元に向かうのが一番だ。

「器様はここでシュイロン様が神の間から出てくるのをお待ちください。シュイロン様に憑依していただいて、お二人でルーダオを」

「嫌だ。俺もヤンファと一緒にいく」

「はあ!?」

 今まで何を聞いていたというのだ、この男は。理解が早いと思っていたのは誤解だったのか。懇切丁寧に一つ一つ説明しないと理解できないというのだろうか。そんな時間は無いというのに。

「私と一緒に来れば、器様も危険に晒されます。貴方にもしものことがあれば、シュイロン様が悲しみます。ここでお待ち下さい!」

「嫌だ!」

 どれだけ説明しても、フーレンは頑なだ。

 先ほどまでは何を言われても、俯いて小さく文句を言うことはあっても、真正面から向かってきたことなどなかったのに。

 こんなときに限って、まっすぐ目を見て、はっきりと言い返してくるなんて!

 フーレンの態度が、焦るヤンファを余計に苛立たせた。

 完全に、自分が正しい。ヤンファにはその自信があった。何一つ間違ったことを言っているつもりはない。

 相手は、昨日神と結婚したばかりの伴侶だ。それも、二十年以上ぶり。正確には二十二年ぶりだ。それだけの時間をかけて、ゆっくりゆっくり、神が選びに選んだ、大切な伴侶。もしものことが、あってはならない。

 それに引き換え、確かに自分は当代の社守ではあるが、社守は世襲だ。自分には弟がいる。まだ三つになったばかりだけれど、いずれは彼が社守を継ぐ。自分はいわば、ただの「繋ぎ」。もし今自分の身に何かあったとしても、一度退いた自分の父親がもう一度社守をし、弟が十五で成人するのを待って、社守を継がせればいい。

 どちらの方が希少で大切か、考えなくても分かるだろう。

 大体、神の伴侶であるというだけの霊力もないただの一般人がのこのこついてきて、一体何ができるというのか。

「どうして!」

 苛立ちを隠さないヤンファの声にも、フーレンは怯まない。これに関しては、何があっても、曲げるつもりはないからだ。

「ヤンファを一人で行かせたら、俺は絶対に後悔するから!」

 堂々と答えたフーレンに、ヤンファは言葉を失った。怒りを通り越して呆れた。こんな愚か者にかける言葉などないとさえ思えた。よりによって、理由が「自分が後悔する」から。他に何か理由や作戦があるわけではなく、偽善的な言葉を吐くわけでもなく、言うに事欠いて、ただの個人的な心情を堂々と掲げるとは。先ほどまでの人を慮って謝ってばかりで、正当な怒りですら表現するのを躊躇っていた姿は何だったのか。空いた口がふさがらないとはまさにこのことだ。

 フーレンは続ける。先ほどまでは心地よく感じていた山風が冷たいと感じたのは、汗が冷えたからだろうか。それとも、

「嫌なんだ。……親しい人が、危ない目に遭うの。……死ぬの、嫌なんだ。俺はそれを見たくなくて、俺に出来ることはなんでもやりたくて、嫌だけど……すっげー嫌だけど、器になったんだ。今ヤンファを一人で行かせたら、俺は何のために器になったのかわからない!」

 今目の前の少女が、危険を承知で一人で災厄の元に向かおうとしているから、なのか。わからない。けれど分かるのは、彼女を一人で向かわせては絶対にいけない、ということだけだ。たとえ彼女の身に何もなかったとしても、一人で行かせてしまった、それだけで自分の心は後悔で潰れる。今日初めて出会った少女だけれど、彼女がどんな思いで社守として勤めているか、社を案内している時の表情や、災厄への対処の早さから、痛いほど分かってしまった。そしてそんな彼女は自分にとってとても好ましく、もはや失いたくない存在になってしまっている。

 自分一人では、何も出来ない。それは分かっている。シュイロンに憑依されないと、飛ぶことも出来ないし、あの金色の槍を生み出すこともできない。

 それでも、自分は、親しい人を守りたくて器になったのだ。

「だから、俺も一緒に行く」

 言い切って見つめるヤンファの顔には、明らかに自分に対する怒りと嫌悪が浮かんでいた。相手の思い通りに動かない自分は、相当嫌われてしまったようだ。

 そんなのは関係ない。相手からどう思われようとも、疎まれようとも、邪険にされようとも、自分が相手を失いたくないと思っている、その感情だけで十分だ。

「お行きください、フーレン様! 許可は私が出します」

 展望台で揉めていた二人にそう声をかけながら、社務所からナイシンが飛び出してきた。

「ナイシンさん!? どういうおつもりですか!?」

 抗議の声を上げたのは、ヤンファだ。

 社において、責任者である社守の方が、侍女長よりも立場は上だ。だからナイシンに何を言われても、決定権はヤンファにある。

 けれどナイシンには、侍女として三十年以上社を支えてきた実績と経験がある。ヤンファ自身も小さいころから社に出入りしていたため、ナイシンには幼き日の自分のことを知られている。会うたびにまるで自分の娘の様に可愛がってくれ、社守を継いだときには涙を浮かべて喜んでくれた。ヤンファの方が立場が上になったとしても、母親代わりのナイシンの言葉を無視することなど、到底できるはずもない。

「フーレン様の耳飾りには、シュイロン様の加護があります。フーレン様が窮地に陥れば、神の間にいるシュイロン様にも伝わるはずです。ですから行って下さい!」

 ナイシンに言われて、思い出す。そうだ、確かにあのとき、シュイロンは「お前のことをすぐに探し出して助けに行ってやれる」と言っていた。俺に逃げられないための首輪だと思っていたのに、自ら窮地に陥ることでシュイロンをおびき寄せる、そういう使い方もできるのか。このとき初めて、耳飾りをつけられたことを喜んだ。ほんの少しだけだが。

 何も反論が出来なかったのだろう、ヤンファは、ぎり、と音がしそうなほどに恨めしそうにフーレンを睨んだあと、

「私は先に馬場に行きます! 遅い場合は置いていきますので!」

 慣れた足取りで石畳を鳴らしながら階段を駆け下りていく。

「フーレン様!」

 焦ってそれに続こうと走り出したフーレンは、ナイシンに呼び止められて振り返った。

「あの子、一人では絶対に無茶をしてしまいます。そういう子なんです。ですから……どうか、あの子をよろしくお願いします。フーレン様御自身も、もちろん、どうか御無事で!」

 ただの社守と侍女長ではない二人の結びつきが、その言葉から、フーレンに伝わった。ナイシンの不安そうな顔を見ながら、頷く。右耳で、耳飾りが大きく揺れた。

「絶対、二人共無事に、帰ってきます」

 決意とともにそう告げて、フーレンはヤンファの後を追いかけた。

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