第4話「犬じゃなくて、籠の鳥だったんだな」

 頭の中に、スーグオの地図を思い浮かべる。東にデーダオ、その北西にシャンチャン、さらにその西にアイユェン。三国の南に細く横たわるのがガオヂーだ。

 季節は初夏。そして明日は「雨の日」だと、気象の予告を出している。霧雨のような柔らかい雨よりも、通り雨のようなざっとした雨を短時間に降らせた方が、緑が映えるだろう。天候は西から東に変わる。アイユェンの方は午前の早い時間に。シャンチャンの方は朝畑仕事を始める頃に、デーダオには昼過ぎに、雨が降るように調整してはどうだろう。

 地を司る神であるトウグウェイが告げる。シュイロンは目を瞑り、思い浮かべたスーグオの地図上に、雨雲を作り出した。するとフォンフーが風で雨雲を運び、雲が消えた地にイェンチュンが夏の強い太陽の陽を注ぐ。

「去年の今頃はどうだったんだっけ」

 シュイロンが言うと、

「我が妻が、昨年は心なしかミィガンの味が薄かったと言っていた。その分大ぶりなものが多かったようだが……今年は少し雨の量を減らしてみても良いだろうか」

 イェンチュンが答え、

「それでは他の作物に影響が行くからなあ。ほら、稲なんかは水が足りずに胴割れを起こしたんじゃあなかったか」

 トウグウェイが呟く。直後に小さく「あれ? それは二年前の話だったかな? それとも十年前? 忘れてしまったな、はっはっは」とも言っていたのだけれど、誰もそれには突っ込まない。

「ならばアイユェンの方は雨雲を早く流してしまって、シャンチャンやデーダオではゆっくりにすればいい。特にシャンチャンはウェントゥンを茹でねばならんからなあ、たくさん水がいるだろう?」

 フォンフーが冗談めかして笑いながら告げた。千年以上続く、神様同士にしか伝わらない鉄板の冗談というやつだ。

「あー、今の時期なら茹でてからさらに冷やさなきゃならんからなー。ありがとなー」

 シュイロンもいつも通りそう答える。もう耳にタコどころか大きすぎる腫瘍になっているのか、千年以上聞いていたら全く笑えない。いや、逆に変なツボに入ってめちゃくちゃ面白いときもある。有閑すぎるとちょっとしたことでも面白くなってしまうのは何故なんだろうか。そういうときは笑う一人につられて全員が笑い出してしまうので、全く仕事にならなくなってしまうのだが。

「まーこっちのことは俺が様子見ながら適当に雨雲足したり引いたり出来るから。何かあればすぐに言ってくれ」

 何の気なしに言ったシュイロンの言葉に笑ったのはトウグウェイで、

「さすが、新婚はやる気が違うな」

「ん? あー、まあ、そうだな。キャンキャンキャンキャン煩くて手懐けるのに苦労をしているが、まあ、それもそれで楽しいしな。あんな風に俺に歯向かう奴に初めて会ったし」

 シュイロンはほんの少し照れながら返した。本人的には惚気たつもりである。

 が、楽しそうに笑ったのはトウグウェイだけで、イェンチュンとフォンフーは乾いた笑いを浮かべるのに精一杯だった。

 なんだ、器側は納得していないのではないか。可哀想に。

 しかし、それも口には出さない。出したところで気分屋で傍若無人なシュイロンの性格は何も変わらないからだ。

 このスーグオで、生き神に対して畏怖や敬意を抱いていないものなどいないだろう。神はそこに目に見える形で存在し、自分たちの暮らしに直結している。災厄を倒せるのも神とその器だけで、人間ではどうすることもできない。感謝こそすれ、真正面から喧嘩を売るなんてもっての外だ。神の怒りを買うとどうなるか、火を見るより明らかだからだ。作物は育たず、風は吹き荒れ、陽は昇らず水は無い、もしくは、全てを押し流すほどの量が降ってくる。災厄も野に放たれたままになってしまうだろう。そうなると、人は到底生きてはいけない。人々は神を敬い恐れながら慎ましく生きていくしかないのだ。

 それだというのに、フーレンは自分を恐れない。真正面から、抗議し、拒否し、怒りをぶつけてくる。

 あれは何なんだろうか、そうとう毛色の変わった生き物だ。一目惚れをし、気に入っているからこそその態度を許している。そんな自分は、ちゃんと「伴侶を大切にしている」。そうでなければ問答無用で水の中に沈めていただろう。あいつが今無事にあって、社の中で安穏と過ごしているのは、全て自分が「伴侶を大切にしている」からである。

 俺は心が広い。伴侶を大切にしている。素晴らしい神様だ。

 自分で自分を褒め称え、シュイロンは無言で何度も首を縦に振った。





 拝殿からの石畳の階段を降り緩やかな下り坂を過ぎると、ようやく社の入り口である大門にたどりつく。その名の通り大きな門で、もはやただの門というよりは、見張り台のようになっている。

 この門が、シュイロンの結界の境界なのだ。夜間や早朝は扉を閉めているのだが、災厄が出たときなんかは市街の人たちが逃げ込めるように、すぐに開けることになっている。

 大門の向こう側には土産物屋やウェントゥン屋が見えた。目抜き通りだ。皆大門で一度礼をしてから社に足を踏み入れてくる。

「街だ……!」 

 昨日の今日なのに、大門の向こうに見える門前町に懐かしさすら感じる。社の中独特の昂然たる雰囲気も嫌いではないけれど、やはり人の活気に溢れた色鮮やかでごちゃごちゃした街並みには心が躍る。

 そういえば、昨日柳行李を置いてきてしまったままだ。たいして金品が入っているわけではないし、薬の知識が無いものが手に入れたところで使うのは難しいと思うけれど、自分にとっては苦労して集めたものばかりだ。そう時間は経っていないし、もしかしたらまだ残っているかも。

「あのさ、ヤンファ。俺ちょっと外に」

「いけません。……それをお伝えしようと、ここまで来て頂いたのです」

 今まさに、もう、あとほんの数歩で、大門をくぐり抜けるところだった。

 ヤンファに制止され、フーレンは振り返った。憐憫を含んだ目と視線が合い、思わず一度、目を瞬かせる。

「いくつか、器様に守っていただきたい規則を、シュイロン様から仰せ付かっております」

 ヤンファは自分の腹の前に両手を添え、まっすぐにフーレンを見た。

 自分だってこんなことを告げたいわけでは無い。けれど、自分は社守、シュイロンに一番に仕える者だ。その真意がほんの少しでも理解できる以上、せめて胸を張って、伝えなければならない。

 フーレンはフーレンで、そんなヤンファを見て、嫌な予感をひしひしと感じていた。だって、大門から出ようとした瞬間に制止されたのだ。これは。

「……シュイロンは、なんて」

「許可なく大門より外に出るな、とのことです。出るときには見張りをつけろ、と」

 やっぱりか。

 奥歯がぎりりと鳴った。わざわざ逃げられないように耳飾りまで無理矢理つけておいて、その上いくら広い社の中とはいえ、そこから出るなと言う。

「……犬じゃなくて、籠の鳥だったんだな、俺は」

 飛べないように羽を切られ、籠に閉じ込められた、鳥。そのうち怒ることも、悲しむことすら嫌になって、無気力な抜け殻みたいになるのではないかとゾッとした。

 自尊心や自我のない、シュイロンに身体を貸すだけの存在。伴侶ではなく、自分にとって都合の良い操り人形。それが、あいつが欲している物なのか。

「そのほかにもいくつか。栄養のあるものを食べ、適度に運動するように。毎日湯を使い、身なりを整えておくように」

 耳に優しく聞こえても、どれもこれも自分のためではないことを、フーレンは感じていた。シュイロンが自分を都合の良いように変えようとしているということが透けて見える。ヤンファに怒鳴ったって仕方がないから鼻から息を吐いて嫌々聞くことしかできない。

 ああ、もう、本当に、自分のための人生は終わったんだな。これからはこの社の中だけが俺の世界なんだ。

 自虐して鼻で笑う。

 そんなフーレンを見ているのは、ヤンファにとっても胸が痛かった。

 もともと旅の薬師で、どうやらシャンチャン出身ではなさそうだという話は、シュイロンから聞いていた。住居を持たずわざわざスーグオ中を旅をしているというからには、自由を好み、色々なものを見て感じ、たくさんの人と出会うのが好きな人なのだろうというのは、想像にやすい。そんな人間が一所に、しかも生まれ故郷ではない場所に留まれといわれるのはどれだけの苦痛なのだろう。いくら明日を憂う生活をしなくてもよくても、それが彼の本懐などでないことはすぐに分かる。ガオソンで生まれ育ち、いずれここに骨を埋めようと思っているヤンファには同情することしかできない。神の考えを変える力は、自分にも、多分この目の前の器にもない。

 けれど、大門付近まで連れてきたのは、わざわざ絶望をさせよういうつもりではない。もっと大切なことを、解ってもらいたかったからだ。

「こちらを、ご覧ください」

 大門より内側の社の敷地内、参道の両端に設置された、無数の四角い石柱を指し示す。二十基以上はあるだろうか。参道を見守るように、向かい合わせに設置されている。よく見ると、正面には年代らしき数字と名前らしきものが刻み込まれていた。古いものから新しいものへと順に並べられていて、一番古いものなんかは雨風のせいで文字がぼやけて文字が読みにくくなってしまっている。その一つ一つの前には、色とりどりの花が供えられていた。どれも一つとして古くなってはおらず、毎日花が取り換えられているのだということがよく分かる。

「これは……墓?」

「はい。歴代の、シュイロン様の器が眠っています」

 言われて、一番新そうな墓石を覗き込む。四十年ほど前に亡くなったらしい器の墓だ。シャンチャンではよくある名前と、出身地、その美しさや人間性、功績を称える文句、それから、四十五年水の器としてシュイロンと連れ添ったことが刻まれていた。

「……死んだ後もここに縛り付けられるんだな」

 フーレンは苦々しく思った。故郷に帰ることも出来ず、親類や祖先と同じ墓に入ることも出来ず、亡くなった後も、ずっと、神からは逃れられない。

 未来の自分が、ずらりとここに並んでいる。

 こんなものを見せられて、ヤンファは自分に何を伝えたいのだろう。

 早々に諦めて、シュイロンの言いなりになれと、そう、言いたいのだろうか。

「いいえ、違います! 縛り付けられているわけではなく、皆様自らの意思で、ここに眠っているのです!」

 どうだか。と言う言葉を、焦って否定をするヤンファに言わずに、フーレンは飲み込んだ。

 一番新しい墓石ですら四十年ほど前だ。現在十六歳であるヤンファがその様子を見ていたというわけは無い。けれど自国の神に心酔しているらしい彼女に何かを言ったところで伝わらないだろう。

 何も言い返しはしないけれども、決して納得をしているようには見えないフーレンに、ヤンファは続ける。

「良いですか。シュイロン様は、器が亡くなるときまで、ずっと添い遂げて下さるんです。……器が年老いると離婚をなさって、すぐに次の器に輿入れなさる方もいらっしゃるのに、最期のときまで、たとえ災厄と戦えなくなっていても、ずっと。……この意味が、貴方にわかりますか?」

 フーレンは返事に困った。正直、ヤンファが有り難そうに言っている、意味がよくわからない。

 いや、意味は分かる。シュイロンは最期まで責任もって器の面倒を見る、慈悲深い神だから安心しろとでも言いたいのだろう。

 けれど、理解したくない。そんなことを押し付けがましく言われても困る。飼殺されるくらいなら、戦えなくなった時点で離婚を申し付けてくれた方がどれだけ幸せか。災厄と戦うという最低限の自分の役割を果たせなくなっても、あいつの玩具であり続けなければならないのか。

 何も答えないフーレンを気にしながらも、ヤンファは続ける。

「亡くなったからといって、すぐに新しい器に輿入れすることも、シュイロン様はいたしません。現に器様に輿入れなさるまで、二十年以上もかかったんですよ。シュイロン様のお気持ちを、少しだけでも、理解していただけると……」

 フーレンには、やはり何も言えなかった。

 そんなのはそっちの都合だ。そもそも、そのシュイロンは、少しでも俺の気持ちを慮ってくれたのか。俺にばかりあいつの気持ちを考えろというのはまったく平等ではない。やはりヤンファもシュイロン側の人間で、シュイロンの気持ちばかりを代弁してくる。断じて自分の味方などではないのだ。

 けれど、彼女が、シュイロンだけでなく、フーレンのことも考えて、今の発言をしていることも、ちゃんと伝わっていた。あまりに塞ぎ込んだ姿を見せてしまったから、少しでも、自分が玩具などではなく、きちんと伴侶として愛されているのだと、その証拠を見せ励ましたいと思ったのだろう。彼女の配慮にも、気づいている。

 だからこそ、何も言えず、押し黙ることしかできない。

 そもそも彼女とは、同じ人間で、同じシュイロンに仕える身でも、考え方が全く違うのだ。

 シュイロンが好きか、シュイロンが嫌いか。

 そこが決定的に分かたれている以上、理解し合うことなど到底できない。

 苦虫を噛み潰したような表情で、

「……少し、考えさせて欲しい」

 と答えるのが精一杯だった。ヤンファも、それ以上は何も、言うことはなかった。

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