第3話「よろしければ社をご案内いたします」
一面闇に覆われていた。どこまでこの闇が続いているのか、シュイロンは知らない。手を伸ばせばすぐに端に触れる気もするし、はたまたどこまで行っても端なんていうものは存在していないのかもしれない。興味がないので確かめようと思ったことは無いし、これからも確かめることは無いだろう。
「すまん。遅れた」
暗闇に声を掛ける。ふ、と赤い光が暗闇の中に生まれた。
「珍しいな」
硬い話し方のわりに、随分柔らかい声だった。アイユェンの火の神、イェンチュンだ。便宜上火の神を名乗っているものの、イェンチュンが司っているのは、陽、太陽だ。シュイロンは他の生き神の中で、イェンチュンのことを一等気に入っていた。太陽を司る神、その肩書き通り、この神は暖かく優しい。
「お前が遅刻とは。よほどのことがあったのだろう」
赤い光は声に合わせてふよふよ揺れる。他の神からも、自分はこのように見えているのだろうか。自分は水の神だから、青い光に見えているんだろうなとシュイロンは思っていた。尋ねたことは一度も無いが。
「そーなんだよお! 聞いてくれるか?」
ここに来たのは、もちろん仕事をするためだが、気心の知れた同僚に近況を報告するためでもある。なんせ千年以上も共にスーグオの気候を調整してきた仲だ。気心など知れすぎている。仕事の合間に出る話題も、自分の話などとうの昔に出尽くしてしまい、いまや一番盛り上がるのが、お互いの器の話になっていた。だからお互いの器には、一年に一度か二度しか会わないのに、まるで毎日見ているような親しみを抱いている。容姿や性格に始まり、趣味趣向や愛らしいところ、最近の失敗談、酷い時には夫婦の営みや性癖の話まで出てくる。神の器になったからには、生き神全員にすべてが筒抜けになると言っても過言ではない。
シュイロンはこの二十年以上その会話に全く加われず、爪を噛み「なぁんか楽しそうでいいよなー」なんて相槌なのか愚痴なのかよくわからない返しをして、つまらなそうにゆらゆら揺れることしか出来なかった。
いま、ようやくその話題に加われる。少なからず嬉しい。
「なんだ、楽しい話題か?」
今度は緑の光が現れる。こちらはガオヂーのフォンフー。風の神だ。
「おうとも。こんなに心が躍っているのは久しぶりだ」
素直にそう答える。
「はっはっは。それはそれは。よほど楽しい話題に違いない」
最後に現れた黄色の光は、土の神。デーダオのトウグウェイだ。シュイロンがフーレンに「自分で育てた花を自分で摘み取らないと気が済まないド変態」と説明していた神である。
にいやと笑って、シュイロンは腕を組みふんぞり返った。
「聞いて驚け! 新しい器に輿入れしたんだ!」
お互いの表情は全く見えなかったけれど、驚いている顔が見えるようで、シュイロンは満足げに頷いた。その予想通り、赤、緑、黄色、三色の光が一斉に大きく揺らめく。あまりの驚きに光がちかちかと点滅し目に痛いけれど、シュイロンは楽しそうに喉を鳴らして笑った。
「あ、あまりに突然ではないか!? 昨日まで何も言っていなかっただろう」
最初に口を開いたのはイェンチュンだ。
「おう、昨日見つけて昨日輿入れした!」
シュイロンの返事に、イェンチュンは閉口した。
あり得ない。器に輿入れするには経なければならない過程がある。
アイユェンでの場合だが、まず社守が見つけてきた霊力の高い人間と会い、意志を確認し、結納をし、婚儀ののちの輿入れだ。約一年をかけて、じっくりと事を進める。それを一足飛びとは。シャンチャンにはそこまで決まった流れが無いというのは知っていたけれど、まさか昨日の今日で器に輿入れするとは。イェンチュンには、全く理解できない。自分にも相手にも、少しでも心を通わせる時間が必要だろう。
「お前はまた……顔だけで決めたんだろう」
きっと額を抑えて言ったのだろう、フォンフーはため息交じりだ。そもそもフォンフーは、器、いや、人間を毛嫌いしている。今器が存在していることが極めて異例で、なんと千年ぶりだ。その分、フォンフーの溺愛はすさまじく、今の器は「奇跡の器」と呼ばれている。
「そりゃ当然だろー! 見た目は分かりやすいものさしだからな!」
フォンフーは何も言わずにため息を吐いた。そうして顔だけで選んだシュイロンの過去の器を思い出したからだ。あるものは社の金で豪遊し国を傾かせ、あるものは自分の美を長続きさせるために幼子を幾人も殺し、あるものは侍女という侍女に手を出し、一時社のいたるところで嬌声が響いていたという。さすがに器が突然失踪したときは落ち込んでいたけれど、それ以外はシュイロン本人がにこにこ笑いながら許していたものだから困ったものである。今回はどんな外見だけの腐った果実なんだろうなあと、フォンフーは思うにとどめた。言っても全く学習せず見栄えばかりを気にして器を選ぶ癖は直らないからだ。なんせ、千年以上の付き合いだからわかる。人だってそうそう変わらないのに、千年以上生きている神なんかもっと変わるわけがない。
「お前が選んだのならば、さぞかし美しい娘なのだろうなあ」
トウグウェイはのほほんと笑った。シュイロンには今まで三十人近い器が居たけれど、大体が整った、優しげな顔立ちをした華のある女性だった。よくもまあ毎度こんな美しい娘を探してくるなあと、トウグウェイは感心している。トウグウェイにとっては、わざわざ街まで行ってしらみつぶしに好みの人間を探してくるのなんて面倒で仕方がない。それにそれでは、フォンフーの言った通り、顔だけしかわからない。やはり社守を器にし、その器に気に入った異性をあてがい子を為させ、さらにその子を器にし、さらにその子にも気に入った異性をあてがい……と脈々と自分好みになるように仕立て上げた方が確実だ。それなら容姿も性格も、自分好みに出来る。次を育てる楽しみも味わえるし、いいことづくめだ。
「それが違う。今度の器は男だ! まあ飛び切り見目麗しいのは否定しないがな」
シュイロンには、どの神の考えも、理解が出来なかった。
イェンチュンが真面目なのはわかるが、国や相手に合わせて時間をかけてやるなんていうのはまっぴらごめんだ。こういうのは勢いが大切で、多少強引にでも手に入れられるときに手に入れた方がいい。現にゆっくりしていたら、今の器には逃げられてしまっていただろう。無理矢理にでも手に入れて、それからじっくり躾けていけばいい。
フォンフーが今の器を人柄で愛しているのは分かるが、外見だけで選んで何が悪い。人間の中身なんてどれだけ長い間吟味したってわかることではない。だったら分かりやすく見た目で選んだ方が確実だ。見抜いたと思った中身に惚れて、もし自分の見ていたのと全く違った側面が出てきたらどうする。
トウグウェイなんて論外だ。なぜおしめを替えてやったような相手と伴侶にならねばならん。しかもそれを何代も何代も続けていくなんて正気の沙汰ではない。交配し見守り続けるだけならまだしも純潔は自分で頂くなんて、変態以外の何物でもない。一番軽蔑する性癖だ。考え方すら理解できない。
結局誰に何と言われようとも、生き神全員が「自分の器が一番だ」と思っていることに間違いはないし、お互いがそう思っているのだろうなということも推し量れていた。ただ口には出さないだけで。
「男か、珍しいな」
フォンフーが呟く。シュイロンが過去に男を器に選んだのなんて、片手の指の数以下だ。いないわけではないけれど、てっきり女だけを選ぶものだと思い込んでいた。
「会えるとしたら……今年は神楽だな。ちょうどシャンチャンでの開催だし、シュイロン自慢の器を楽しみにしていよう」
トウグウェイが一人頷く。
「……まあ、なんだ」
最後にイェンチュンが、遠慮がちに口を開いた。
「遅くなったが、結婚おめでとう。……お前が再び器に輿入れをしようと思える日が来たことを、私は嬉しく思うよ」
赤い炎はふよふよと柔らかく揺れる。ああ、これだから、イェンチュンが一等好きなのだ。
「ああ、ありがとうな」
シュイロンはなんだかくすぐったくて、鼻の頭を掻いた。
「よろしければ社をご案内いたします」
ヤンファはフーレンにそう言い、共に器の寝室を出た。侍女長であるナイシンはほかに仕事があるとかで、何かお困りごとがございましたらお呼び下さい、と早足で去って行ってしまった。
眠ったまま身体を乗っ取られ、勝手に連れてこられたフーレンは、社のことを何も知らない。自分が今社のどのあたりにいるのかも、皆目見当もつかなかった。
もちろん門前町で仕事をしていたので、社を下から眺めたことは何度もある。
市街地に突然現れる大きな杜。こんもりとした山と言っても過言ではない。杜の入り口にある大きな門と、そこから伸びる長い参道。遠くから見ただけで、石で出来た階段がどれだけたくさんあるのか、数えたくもなくなる。本殿にたどり着く頃には、きっと太ももはパンパンになってしまっているだろう。そう想像するだけで、参拝することに及び腰になっていて、一度も社には来たことがなかったのである。
いずれは、とは思っていたけれど、まさかこんな形で来ることになるとは……。
肩を落とす。今いる場所は、蒼器殿というらしい。青の器、つまりシュイロンの器が住まうための場所だ。寝室や食堂、厠、湯殿はもちろん、宿直の侍女が寝起きする部屋もあるらしい。人一人が住まうには十分すぎる大きさだ。一般の参拝者は入ることを許されず、ここに足を踏み入れられるのは、器と世話係の侍女だけらしい。話によると二十年以上使われていなかったらしいのだが、そうは見えないほど綺麗に整えられていて、掃除も行き届いている。いつ主が来ても良いようにと、来る日も来る日も使われることのない施設を手入れし続けていたのだろう。その侍女たちの気持ちには、頭が下がる思いである。
ほんと、器が俺じゃなければ良かったんだろうけど……。
彼女たちの想いに、応えられる気がしない。器としての誇りも無く、伴侶としての自覚もない。彼女たちが仕えるに値する主人になれれば良いのだろうけど、そんな柄でもない。そもそも目立つのも誰かに傅かれるのも全く得意ではない。どう考えても自分は人の上に立つ人間ではない。なるべく目立たないように、端っこに静かに居て、薬の本でも読んでいられたらそれで十分だ。それなのに。
フーレンは、ため息を吐きそこなった。ヤンファについて蒼器殿を出た、その空気に驚いたからだ。
周りには木々が茂っていて眺望がいいわけではないが、空気が心地よい気がして大きく息を吸った。参拝客の多い本殿から少し離れているのだろう、喧騒も無く静かで、山鳥の声が耳に心地いい。街とは違った、清涼感がある。これが小高い山の上にあるからなのか、それともシュイロンの結界の中だからなのか、フーレンには分からなかった。けれど、思わず深呼吸をしたくなったのなんて、何年振りだろう。
「ここから西に少し歩くと本殿です」
深呼吸をしているフーレンにそう告げると、ヤンファは蒼器殿から西に延びる道を歩き始めた。と、言っても蒼器殿への道は本殿から続くこの道しかない。途中社務所などもあるから、無理に道から反れて杜にでも入らない限り、迷いようもないだろう。
少し歩くと左手に社務所が見えた。社務所の窓口にいた侍女にヤンファが軽く手を上げる。侍女はヤンファに気づき、立ち上がって頭を下げた。なるほど、参拝客への対応はもちろん、間違って蒼器殿に迷い込まないように見張る役目もしているのだ。
社務所を抜けた先、右手に街を背にするように建てられている神楽殿。そしてそのさらに奥の左手、山側にあるのが一際大きな本殿だ。山の下から眺めただけでも大きな屋根が見えていたのに、近くに来ると余計に大きく、そして荘厳に見えた。派手ではないのに、たたずまいに迫力がある。桧の樹皮で出来た屋根の四方に、木彫りで出来た龍が施されている。今にも飛び上がりそうな瑞々しさと躍動感。あれが水の神であるシュイロンを表しているのだろう。より本殿に近づいて見上げると、軒天には川なのか海なのか、水の流れと思しき模様が彫刻で施されていた。よく見れば欄間も、龍が空を登って行く様子なのだろう。どこか力強さだけでなく優しさを感じるのは、スーグオの民にとって、水は恐ろしいものではなく神から恵まれるものだというのを表現しているのだろうか。
シュイロンの社の本殿なのだから当たり前なのだけれど、どこもかしこも水を想起させる装飾がされている。
はあ、とフーレンは軒天の裏の精巧な模様を目でなぞりながら感嘆の息を吐いた。
「すごいな、これは……」
素直にそうつぶやくと、ヤンファはふふと嬉しそうに笑った。
「ええ、すごいんです」
その口ぶりと表情が、年相応の少女に見えて、フーレンは驚いた。もっと公私をはっきりと分けた、お堅い人物だと思い込んでいた。少し本殿の造りを褒めただけで、これだけ嬉しそうな反応を見せるとは。よっぽどこの社を、自分の仕事を、シュイロンを、誇りに思っているに違いない。
「あっちの……道、は?」
そう言いながらフーレンは本殿の奥にある細い獣道を指差した。まるでそこにあることに気付いて欲しくないような、木々の影の濃い暗い道である。ああ、とヤンファは頷いて、
「あちらは『神の間』への道です。参拝者はおろか、器様も通行を許可されていません」
「神の間?」
「はい。シュイロン様の仕事部屋、と言いますか。このスーグオの気象を、他の生き神と話し合いながら調整している場所です」
言われてみると、確かにそうだ。シュイロンに操れるのは、水、雨だけだ。太陽の光を注ぐことや、雲を風で運ぶこと、大地の様子をつぶさに観察し指示を出すことなどは、管轄外だ。気象を思うままに操るには、四人で協力する必要があるのだろう。
先ほど「遅刻だ」と言って出て行ったのは、あの神の間に向かったということなのだろう。俺にちょっかいを出す為に他の神を待たせていたというのか。他の神とシュイロンの関係性はわからないが、なんというふざけたやつだ。
「じゃあ、今あの先に四人の生き神が集まっているってこと……ですか?」
「いえ。神の間はそれぞれの生き神の社に設置されていて、皆さん自らの社の神の間にいらっしゃるんです。神の間は神の世界への出入り口と申しますか……すみません、私自身も、社の資料やシュイロン様からお話を伺っているだけなので、うまく伝えられないのですが」
ヤンファが申し訳なさそうに冠を振った。
「ああ、いや。なんとなく、わかりました。ありがとうございます」
つまり神の間というのは、神にしか入れない異界への入り口のことなのだろう、とフーレンは理解した。それは確かに、悪戯に普通の人間が近づいて良い場所ではない。
「器様、どうぞこちらへ」
神の間への道を眺めていたフーレンがヤンファに導かれたのは、本殿の前の展望台だ。山の崖っぷちに転落防止用の柵が設置されている。フーレンは柵に手をかけ、目の前に広がる景色に、今日が晴れの日で良かったと心の底から思った。
門前町であるガオソンの市街が一望できる。このシャンチャンで一番大きく、スーグオでもアイユェンの首都に次ぐ大きさの街だ。昨日シュイロンに憑依されたときも高い場所から見下したけれど、そのときとは感慨が全然違う。あのときは自分の不安定さと高さに怯えていたけれど、今はただ、素直にこの景色が楽しい。
あの大通りは昨日薬を売っていた目抜き通りだ。今日も人通りが多く活気に溢れている。あそこからこの場所を見上げたときにも、きっと見晴らしが良くて気分が良いのだろうなと想像はしていたけれど、実際はもっとだ。すきっと晴れた天気と相まって、景色が余計に美しく見える。夏を前に一層緑を濃くしている木々の色も、空の水色との対比で際立っている気がした。頬を撫でていく風も街中であびる熱を帯びたものと違い、少しひんやりとしている。きっとここまで 山道を登ってきた参拝者たちには、この風がことさらに心地よく感じられ、まるで神に祝福されているような気分になるのだろう。
言葉もなくして景色に見入っているフーレンの背に、
「ここは参拝者の方に一番人気の場所なんです。私も大好きで、小さい頃から嫌なことがあると、この場所に来るんです。自分の悩みなんて小さいなと、思えるので」
ヤンファが告げる。たしかに、とフーレンは頷いた。
こんな景色を見たら、神の器になったのなんて小さいことだ――なんていう考えには少しもならないけれど、たしかに小さい悩みくらいなら吹き飛びそうだ。
「街や森だけじゃなく、海まで見えるんだ」
「ええ、ガオソンは海辺の街でもありますから。器様は海の方には?」
「うん、一年くらい前かな。随分良くしてもらった……と、すみません。良くして、もらいました」
興奮のあまり、敬語を忘れていた。しかし、彼女は社守。この社の責任者で、この国で二番目に偉い人物だ。おいそれとタメ口で話して良い相手ではない。それを思い出して、無理矢理取ってつける。
ヤンファは気分を害した風もなく、
「器様は今おいくつですか?」
「え? 十八ですけど」
「私は十六ですので、器様の方が年上ですね。なので私のことはヤンファと呼んで、敬語もおやめください」
逆ににこりと笑んだ。社守にとって、神の器は自分より格上の存在だ。神の器は神と同義である。それなのになぜか萎縮をされて敬語を使われるのは落ち着かない。自分の方が歳下なのも間違いないだろうし、変に遠慮をされるよりも何かあればすぐに報告してもらえるような関係は築いておくべきだ。そう考えた。
そしてその思惑通り、フーレンはあからさまに安堵した表情を見せた。
「そうして良いなら、助かる。俺のことも、フーレンって呼んで」
そんなフーレンにヤンファは微笑み、即座に
「いえ、それは出来ません」
すぱっと断った。
フーレンは思わず心の中でずっこけた。今のはヤンファも自分に気安くなってくれる流れではなかったのか。
すぐに親しくなれたと思うほど頭の中がおめでたいわけではない。けれどシュイロンの社のことを誇らしげに語るヤンファはなんだか気安くて、歳も近いし、もしかしたらこの社の中で一番気を置かずに話すことの出来る相手になるのではないか、そういう予感があった。それなのに、完全に遮断された。そのうえ、
「社にはまだまだ施設がありますので。ご案内致します」
話を完全に、流された。無かったことに、されてしまった。
これは一体、どういうことなんだろう。
喉の奥に小骨が刺さったような違和感を抱いたまま、フーレンはヤンファに続く。
展望台の近くにある石段を降りると、次にあるのは書院。シャンチャンの歴史的な事柄が記録されていたり、社守が付けた社の日誌が残されているらしい。社守であるヤンファですらも未だ読んだことがない貴重な資料がずらりと保管されているらしい。
さらに石段を降りると、馬場。春になると花見の客も多く訪れる桜の名所でもある。ヤンファは毎日社で飼っている馬に挨拶をするらしく、何頭かいるうちの一頭、栗色の馬の頭を親しげに撫でた。
そこからさらに石段を降りると、拝殿がある。拝殿も本殿と同じくらいの大きさの建物で、造りが似ている。と、いうより軒天の装飾や屋根の龍といい、そっくりだ。一つの建物を二つに割ったと説明されると納得してしまいそうなほどに。
「なんで拝殿と本殿がこんなに離れてるんだ?」
ほんの少し上がった呼吸で、ヤンファにそう尋ねる。
そろそろ、筋肉痛の体にはこの石畳の階段を下りるという作業がつらくなってきた。降りてきたということは、あとでまた登らなければならないということだ。ここまでくるのに三百段近くあったのではないか。正確に数えていたわけではないし、ずっと階段だったわけではなく緩やかな勾配のある山道も間に挟んでいるため、気晴らしにはなるものの距離は長い。途中に茶屋や休憩所まであるものだから、社と一口に行ってもここはもう、実質小さな街も同然だ。
「本殿が山の上にあるから、です。足の悪い方や体の弱い方は山の上まで上がるのは大変でしょう?」
「へえ、なんか随分優しいな」
「でしょう。シュイロン様の発案だそうですよ」
「シュイロンの!?」
正直、意外だった。あの、人のことを全く顧みない傍若無人そのもののシュイロンが、まさかそんな気遣いを見せるとは。自分の見ているシュイロンとは全く違う。
「しかもシュイロン様、時間を見つけてはわざわざ拝殿にまでいらっしゃって、結婚式を挙げる夫婦や、初宮参りをする赤子を祝福して下さるんです。シュイロン様に祝福された夫婦は未来永劫幸せになれると言われていて、週末なんかは挙式の予約でいっぱいなんですよ。もちろん、必ずシュイロン様にお会いできるとは限りませんが」
そしてまた、例の嬉しそうな表情で、ヤンファは笑った。その顔を見たときに、ああ、とフーレンは納得した。ヤンファの「本当に好きなもの」がわかったのだ。
社でも社守の仕事でも、ない。
……なるほど。それは、俺に対して心が開けないわけだ。
全く自分の意思ではないからこそ、余計に申し訳ない。
「生き神は他にもいらっしゃいますが、そこまで民のことを想っていらっしゃる方は、シュイロン様以外はいらっしゃらないのではないでしょうか」
ヤンファのその言葉に、もう一度納得した。
あー、なるほどー。シュイロンは俺を民の中に数えてないから、こんなに人間扱いされてないわけかあー。まあ確かに俺は シャンチャンの民ではないしー? 旅の薬師だしー?? いつ他の国に出ていくかわからない人間だしー???
ますます釈然としない。伴侶というより愛玩動物で、愛玩動物というよりももはや玩具以下だ。
まあある種、器一人が犠牲になればこの国の人たちは心遣いのできる優しい神様に守られていられるのだから、大団円なのかもしれない。
ほんと、それが「自分」じゃなければ。
「ですから、その……今日の器様とのやりとりを拝見させていただいて、正直驚いているのです。シュイロン様は私や侍女たちにもとても気を配って下さる方なので……まさか自分の伴侶に、あのような態度を、取られるとは……」
ヤンファもヤンファで、困惑していた。
確かに過去の社守の手記を見ても、シュイロンは一目惚れが多く、いきなり器を選んでくることが多々あった。というよりほとんどがそうだと記されている。けれど、その日その場で輿入れなんていうのは過去三十人近い器の中でも初めてだろう。いくら一目惚れをした相手でも、一応相手の準備もあるし、社側の準備もある。多少は猶予をくれていたはずだ。
そしてその無理矢理連れてきた伴侶相手に承諾も得ず耳飾りの穴を空け、相手の意見を全く聞かずに自分の意見を押し通そうとする。ヤンファが生まれてから今までシュイロンに器がいたことはなく、今までの器と今の器で態度が違うのか、それとも器に対しては等しくこのような接し方だったのか、ヤンファは知らないので比較しようがない。
ただ――
「お伝えしたいことがあります。……もう少しでその場所に着きますので、あと少し、お付き合いを」
ヤンファは拝殿を後にし、さらに石畳の階段を降り始めた。
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