第2話「なんてったって今日は初夜だからなー?」
フーレンは夢を見ていた。普段は夢を見る暇もなく泥のように眠り、朝を迎えているものだから、久しぶりの夢だ。
真っ白な雲の上で、晴天の空の下で、昼寝をしている夢。寝ながら見るのが夢なのに、その夢の中でも寝ているのだから随分滑稽だ。けれどそれがどうにも心地よくて、できればずっと目を覚ましたくない。雲は温かく柔らかく自分を包み込んでいて、太陽の匂いがする。普段使っている安い宿屋の雑魚寝とは全然違う。硬くて薄汚れた御座なんかより格段に気持ちいい。この雲の上でのんびり本を読むことが出来たらどんなに幸せだろう。
そんなフーレンの頭上に、龍が一匹と小鳥が二羽やってきた。不思議なことに三匹は旧知の仲のようで、寝ているフーレンの頭の上で、ああでもないこうでもないとピーチクパーチク話し合っている。龍の鳴き声がピーチクなのかパーチクなのか、フーレンには知る由もないが、少なくともまだ小鳥の方には良心があるようで、寝ている自分に気を使って声を潜めてくれている。それだというのに龍の方ときたら、もともと通る声なのに抑えようという配慮も無い。
――ああもう、うるせえな。話し合うならどっか違うところに行けよ。
「さすがに、その……本人の意思を確認しないで、というのは……」
茶色い小鳥が抑えた声で言う。何の話だろう。たぶん俺の話だ。だって俺の頭上で話し合ってるんだから。
「僭越ながら、私も同意見です。せめて起きるまで待たれては」
少し赤っぽい小鳥も、茶色い小鳥に同調して頷いた。あ、これ確実に俺の話だな。だって、起きるまで待つ、ってことは、今寝ているってことで、つまりやっぱり俺のことだ。
ものすごく嫌な予感がする。いますぐ飛び起きた方が良いんだろうか。けれどこんな気持ちの良い昼寝、次にできるのはいつになるか分からない。起きた時には安宿の御座の上かもしれないけれど、今はこれ以上ないほどに快適な雲の上だ。寝汚いと言われたらその通りなのだけれど、今は出来るだけ寝ておくべきだ。そう決めた。
直後にものすごく後悔をすることになったが。
「いーんだって。こうしとかないと絶対こいつ逃げるし。そら行くぞー」
龍が何の気負いもなく告げる。
直後に、バツン! というか、ブツッ! というか、それ系の破裂音というか、何かに貫かれた衝撃というか、右耳が、
「いってえ!!」
寝ていられるわけがない。飛び起きて、熱を孕み熱い以外の感覚がなくなっている右耳に触れる。ぴりと走る痛みとぬるりと生暖かい感触があり、驚いて指先を見ると真っ赤に染まっていた。
「あっ、うわ、血ぃ出てる」
今まで寝かされていた真っ白で清潔な寝具にも血がついてしまい、ああこれ洗濯大変だぞちゃんと落ちるかななんてどこか冷静な自分がいたけれど、
「起きたかー起きたなあ」
「起きたなあじゃねえ! なんだこれ!!」
あまりに緊張感無くへらへら笑う龍――シュイロン――に、指先についた血を見せながら抗議する。その手をひょいと握り、
「あー結構血ぃ出たな。悪い悪い。人の耳に穴開けんのなんて久しぶりでなあ」
かれこれ三十年ぶりか。なんて、シュイロンは感慨深そうに告げた。
そうじゃねえ。
そう言っている合間にも、どうやら首元にまで血が垂れてきてしまったようだ。よかった、上服を着ておらず上半身裸だから服には血がつかずに済んだ。
「ってなんで服着てないんだ!?」
「ああ、お前があまりに汚かったもんだから、憑依したまま湯をつかった。安心しろ、履いてはいるからな」
「そういう問題じゃねえ、離せ!」
握られた手を無理矢理振り払って、フーレンはおそるおそる自分の右耳に触れた。痛みと熱で分かりづらいけれど、確かに何か細い棒のようなものが自分の耳たぶを貫通している。そしてその下につけられた、小ぶりな飾り。指で触る限り、三つ又の槍のような形をしている。
「……これ、お前のと同じ……?」
「おっ察しがいいな。俺の耳飾りの片割れだ」
言われて見ると、シュイロンは左耳にだけ、金でできた三つ又の槍のような形の耳飾りをつけていた。あれが自分の右耳につけられているということか。
「まーなんだ、ようするにお前と俺が夫婦だという証拠みたいなもんだ。ちなみにそれには俺の力が込められているから、お前のことをすぐに探し出して助けに行ってやれる。心強いだろ?」
それってつまり、もうお前は逃げも隠れも出来ないと宣言されているようなものじゃないか。飼い犬の首輪と一緒だ。
「くっ、こんなもんすぐ外してやる」
まだ穴を開けられたばかりで少し触れるだけでもかなり痛むけれど、耳飾りに手をかけた。が、
「……お前死ぬぞ」
珍しく無表情で告げられたその言葉にシュイロンの本気を感じて、即座に手を離した。
「えっなっ、死……死!?」
「おー理解したかー偉いなー。死にたくなければ外すなよー」
フーレンは言葉を無くし、ただ首を縦に振るしかできない。
すっかり顔を青くしたフーレンの頭を、シュイロンは撫でた。
アーゴンを倒した後、気を失うように眠った割には、起きてすぐだというのに元気そうだ。無理に力を通した関係で体もぼろぼろだったはずなのにきちんと動かせるようだし、さすがはまだ年若い人間だなと感心する。まあほとんど丸一日昏々と寝ていたわけだから、回復していてくれなくては困るのだけれど。
「お話し中すみません、シュイロン様。私たちも、器様にご挨拶させていただいてよろしいですか」
茶色い小鳥だ、とフーレンは思った。夢の中で聞いたのと同じ、年若くて高いけれど、聡明そうな声。
部屋の端に控えていたのだが、すすと寝台の脇、シュイロンの隣に立った若く小柄な女性。年はフーレンよりもなお若いだろう。少女と呼ぶ方がふさわしいかもしれない。小さい顔に少し釣った大きな瞳、赤く小さな唇が生真面目そうに結ばれている。こげ茶の髪は邪魔にならないように肩口にまとめられていて、頭の上に三つ又の槍を模した飾りが乗っている。
すっと背筋を伸ばしフーレンに向き合った少女は、寝台の上に座るフーレンに頭を下げた。
「お初にお目にかかります。この社の社守を務めております、ヤンファと申します。このたびのご成婚、心よりお慶び申し上げます」
頭を下げたまま、フーレンの顔を見ず、立て板に水で一息にヤンファは言い終えた。そして顔を上げ、少し気まずそうにフーレンから視線を外した。フーレンは焦って寝台の上で正座をし、
「こ、こちらこそ。あの……フーレン、です」
返す。
「はい、器様のことはシュイロン様からお聞きしております」
「あ、そう、ですか」
一体何をだろう。なんとなく恐くて聞けない。それよりなぜ目の前の少女は自分と目を合わせてくれないのだろうか。何かよっぽどのことをシュイロンから聞かされているのだろうか。
あれか、前とか後ろとか、あれの話か。
とたんにフーレンもいたたまれなくなり、話しかけるのが申し訳なくなってしまった。
そりゃあな、真っ当に生きてきた若い女の子にとっては、そんな世界知りたくもないし、汚いと思われても仕方がないよな。
そのことについて後悔もしていないし言い訳をするつもりもないけれど、やはりこんな風に分かりやすく反応されて落ち込まないほど強くは出来ていない。やっぱり余計なことを言ってしまった。そのことについては、後悔をした。
彼女は社守、このシュイロンの社の責任者だ。まだ年若いのにしっかりしているのはその所為だろう。これから否が応にも頻繁に顔を合わせることになる。そんな相手にこれからもこんな反応をされ続けるのは辛い。なるべく性を感じさせる話になるのは避けなければ。
そう思っていたのに、
「ヤンファは未通女だからな、男の上半身裸は少々刺激が強すぎるようだぞ」
神はいとも簡単に地雷を踏み抜く。耳まで真っ赤に染めたヤンファが、
「シュイロン様、そのような言い方は……!」
柔らかな弓なりの眉を困ったように下げて遠慮がちに抗議をした。どうやらシュイロンの言葉は当たっているらしい。焦って声を荒らげたヤンファとは逆に、フーレンは安堵した。それなら着物を着るだけで簡単に解決できそうだ。意外と根深い問題でなくて良かった。
「器様、こちらを」
真新しい白い着物と帯を差し出され、受け取る。
今度は赤っぽい色の小鳥だ。生きていれば、自分の母親はこれくらいの年だっただろうか。落ち着いた雰囲気で華奢な女性が、にこりと笑顔を見せた。白い着物に浅黄の袴という、水の社の侍女のいでたちがやけに似合う。口元の黒子がなんとも艶っぽくて、ほんの少したじろいだ。
「侍女長のナイシンと申します。これから器様のお世話をさせていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします」
「あ、ありがとう、ございます。こちらこそご迷惑をおかけしま…………な、なんですか?」
ナイシンが自分の顔をじっと見て、面白そうに笑っているのに気づき、フーレンは思わず訊いた。女性のこういう笑いほど恐ろしい物はないということは経験則で分かっていたのだけれど、それでも訊かずにはいられなかった。案の定、ナイシンはふふと小さく含み笑いをした後、
「いえ、私は昨日シュイロン様が憑依なされた器様とお会いしているのですが、随分印象が違うなあと思いまして。本物の器様は、随分……ふふ」
そこから先の答えは返ってこなかった。
何なんだ。本当の俺はシュイロンが憑依した俺と比べてどうだっていうんだ。全く訊きたくはないけれど、そうやって自分の顔を覗き込んでにこにこにこにこされるとなんだかものすごく居心地が悪い。いっそ殺してくれという気持ちになるのはなぜなのだろうか。
「あ、ナイシンには昨日湯あみを手伝ってもらってるからなー。お前の全部を見られているぞ。全部、全部だ」
いや、殺してくれと言わずに自ら死んだほうが良いのかもしれない。なんで俺は初めて会った女性にもうすでに全部を見られているんだ。その含み笑いはそういうことなのか。
きゅっと縮こまった気がして前かがみになる。いや、遅い。もう遅い。全部見られてるんだから今ちょっと庇ったところで遅い。
「シュイロン様ったら。ちょっとですよ、ほんのちょっと。身体を洗う際に、ちょっとだけ」
それって見られたどころの話ではないのでは。下手したら触っているのでは。ていうか人の身体で風呂に入ってしかもそれを女性に洗ってもらってるなんて本当にやりたい放題だな!
羞恥と憤怒に何も言えなくなり、フーレンは黙り込んだまま受け取った着物に袖を通した。今まで着ていたものと形は似てはいるが、使われている素材が全然違うのがすぐに分かる。しっかりした生地なのに、さらさらとしていて心地が良い。通気性もよさそうだし、そろそろ熱くなってきたこの季節も快適に過ごせるだろう。きっと高いんだろうな、と貧乏人根性が消えないフーレンは思った。一体いくらくらいするんだろう。前に着ていた着物の値段より、零が一つか二つ多かったりするんだろうか。
襟合わせと同じ、深緑色の帯を締めると、ヤンファは力が入って上がっていた肩を下ろし、ふぅと一息ついた後、ようやくフーレンの方をまっすぐに見た。
「器様は昨日の未の刻ごろにこの社にいらっしゃって、それから今……もう昼過ぎですね。ずっと眠っていらっしゃいました。どこか体調の優れないところはありませんか?」
一瞬悩んだが、首を横に振った。多少は筋肉痛のような痛みが全身にあるものの、それ以外は何ともない。体も自由に動かせるし、勝手にというのは許せないけれど、やはり湯あみをした後だからか全身がさっぱりしていて心地いい。今一番優れないのは、先ほど耳飾りの穴を勝手にあけられた右耳なのだけれど、そのことを訊かれているのではないということは分かっているので言わなかった。ヤンファに言っても仕方がないし、彼女は一応シュイロンのことを止めようとしてくれていた。そのことには、本当に感謝をしている。
「うんうん、そうでないと困る。なんてったって今日は初夜だからなー?」
普段は浮いているくせに、こういうときだけ体重を感じさせる乱暴な動きで、シュイロンは寝台に飛び乗った。四肢を投げ出し寛いだ様子で、フーレンを見上げる。
「は!? 初夜!?」
「そりゃそーだろー、夫婦になって初めての夜は、するだろー。ほんとは昨夜だったんだけど、お前起きなかったからなあ。仕切り直しだ」
シュイロンは身体を寝台に横たえたまま、喉だけで笑って、フーレンの今着たばかりの着物の襟合わせを指先で撫ぞる。長くまっすぐな青い髪が寝具の上に散っているのは、まるで小さな小川のようだ。薄桃色の薄い唇の両端を悪戯に引き上げ、物欲しげな琥珀の目で、シュイロンはフーレンを見つめる。その様子に、ナイシンはあらあらと口元に手をやり、ヤンファは焦って赤くなった顔を逸らした。
フーレンは閉口した。
確かに、シュイロンは綺麗だ。ありとあらゆる、ヒトが持ち合わせない、完璧な美しさがある。シュイロンの服のゆるく空いた首元から覗く白い胸元は滑らかな絹のようだ。肌が匂い立つ、というのはこういうことを言うのだろうか。柔い女性の肌よりも、もっとずっときめ細かく、一度触れると吸い寄せられて、手を離したくなくなりそうだ。男か女か、性別すらわからないのに、人を魅了してやまない色香がある。
「心配するな、俺は自由に性別や年齢を変えられる。お前と同年代の女にも、熟女にも、童女にもな。……ああ、お前が望むなら男でもいいぞ。俺の器は今まで女が多かった。男のお前すら、善がり狂わせる自信がある」
相手は千年以上人間の伴侶と交わってきた神だ。きっとその言葉に偽りはないのだろう。実際、襟合わせをなぞっていた指先を着物の中に潜らせ、ついと胸元を指の腹で柔く撫でられたときには、それだけで肌が粟立った。
けれど。
「……なあんでそんな怒るかなあ」
眉間と鼻の頭に濃い皺を刻んで自分を睨むフーレンを見て、シュイロンは諦めたように肩を竦めて手を引っ込めた。フーレンが本気で怒っている、それはすぐに分かった。しかしシュイロンには、何がフーレンの逆鱗に触れたのかが全く分からない。人間の、しかも年若い男にとって、伴侶の身体を求めるのは当然の欲望だろうし、自分みたいな美人に誘惑されて嬉しくないやつはいないだろう。実際、過去の器たちはそうだった。何人か拒んだ者もいたが、口だけで、たいていはすぐにだらし無い表情を見せ、自分に籠絡されていたのだ。
今目の前の器と、過去の器たち。一体何が違うのだろう。
フーレンはフーレンで、感情に任せて怒鳴り散らしたくなるのを必死にこらえ、太ももの上でこぶし震わせていた。今そうしないのは、部屋にシュイロンと二人きりではなく、女性が二人もいるからだ。今ここで自分が口を開けたら、ご婦人の耳に入れてはいけない汚い言葉でシュイロンのことを怒鳴りつけそうで、それだけは絶対に避けたかった。もしここにヤンファとナイシンがおらずシュイロンと二人きりだったのならば、下品な言葉で口汚く罵り、今まで一度もしたことがないけれど、殴りかかっていたかもしれない。それくらい、腹が立っていた。腹が立つ、なんて表現じゃ足りない。腸が煮えたぎって蒸発して無くなりそうだ。
ぐ、と下唇を噛み、怒りが過ぎるのを待つ。人間六拍以上は怒りが持続しないと何かで読んだ。六を数えてから、怒鳴らずに、きわめて理性的に、話を、しよう。そう決意する。
フーレンは目を閉じて、六どころか二十くらいまで数えた。にもかかわらず腸は煮えたぎったままだ。黙っていてもらちが明かないので、なるべく落ち着いた声で、絞り出す。
「……夫婦だからって、絶対するものなのか。しなきゃいけないものなのか」
くぐもったフーレンの声をなんとか聞き取ったシュイロンが、
「えー。そう言われるとなあ。どうなんだ、ナイシンは主人と」
既婚者であるナイシンに訊く。ええと、とナイシンは困ったように頬に手を当てた。
「我が家は……それは、子供もおりますし……」
何かを想像したのか、ヤンファが殊更に赤くなり身を小さくした。
「すべからく、等しく、夫婦というものは、必ずするものなのですか」
フーレンが、今度はナイシンに問う。先ほどまでの、自信がなさそうに背を丸めていたときとはまるで様子が違う。フーレンの目は、怒りに血走っている。ナイシンは答えに困って、
「おおよその夫婦が、いたしますかと。一度くらいは」
一般論に逃げた。けれど、もう一度フーレンに
「すべての夫婦が、では、ないんですよね」
揚げ足を取られた。
神と器の夫婦仲が良くあることは、国の繁栄につながると言われている。神の人間への慈悲が、器を愛すことにより、さらに深くなるのだそうだ。そうでなくとも、少なくとも自国を守ってくれている神には気分良く過ごしてもらいたい。それが社の人間の、いや、シャンチャンの民の総意だ。器であるフーレンの意に沿わないのは本当に申し訳ないけれど、ナイシンはなんとか、シュイロンの思うとおりに事を運ばせたかった。だというのに、
「……では……ない、でしょう……けど……」
これ以上は逃げ切ることが出来ず、困った表情でシュイロンを見ながら、小声でこう答えるしかなかった。あることを証明するのは簡単でも、ないことを証明するのは酷く難しい。もしかしたら、一度も夫婦の営みをしていない、そういう夫婦もどこかにいるかもしれない。いや、こうも何度も念を押されると、どこかにいるのでは、いや、多分いるとさえ思えてきた。
ナイシンの答えを聞いて、フーレンは勝ち誇ったように胸を張った。
「じゃあ俺たちがそのしない夫婦だ」
「えーなにそれお前つまんなー」
間髪を入れずに文句を言ったシュイロンを睨みつけ、
「そもそも俺は、器にはなったがお前の伴侶になったつもりはない。どちらかというとお前を災厄のもとに無理矢理にでも引っ張っていくのが俺の役割だと思っている。どうしてもそういうことがしたいんだったら、今すぐ俺と離婚して他のやつにしろ!」
言い切る。ええーなんて言いながら、シュイロンは頬を膨らませてフーレンを眺めた。フーレンは眉間に濃い皺を刻み口を固く引き結ぶだけで、それ以降は何も言おうとしない。
あ、駄目だなこりゃ。嘘や強がりではなく、心の底からそう思っている。
自分と目も合わせようとしないフーレンを見て、シュイロンはそう悟った。
別に、本気で性交渉をしたいわけではない。そもそも神に性欲はない。今までは器が喜ぶからしていたのだ。誘ったのだって、ちょっとは喜んでくれるかなーなんて思ったからで、逆鱗に触れるつもりなど毛頭なかった。これは大きな誤算だ。やっぱりどうにも、この新しい器は扱いにくい。
仕方がない。こんなことで貴重な器を逃すわけにはいかない。
シュイロンはようやく寝台から身を起こし、
「じゃあ行ってくる。完全に遅刻だ。後の細かい説明は頼む」
ヤンファにそう告げた。夫婦の営みだとか離婚だとか、全く平和でない言葉が飛び交う状況に顔を赤と青に染めていたヤンファは、びくりと震えた。
「え!? あ、はい、そうですね。いってらっしゃいませ」
この神は移り気で気まぐれだ。ヤンファはそれを長い付き合いでわかっていたけれども、こんなに急に切り替えられてはこちらがついていけない。その言葉通り、シュイロンは普段通りの軽い身のこなしで器の寝室を出て行こうとする。
「ちょっと待て! 返事は」
焦ったフーレンの問いを背中で受けて、シュイロンはくるりと振り返った。
「んー? まあ、お前の意見は尊重しよう。ただ、俺はいつでも良いからな。お前がその気になったらいつでも言ってくれ」
そして、肩を竦めてぱちりと片目を瞑り、自分の指の腹に唇をおとして、それをフーレンに投げてよこす振りをした。
それはあまりに綺麗で、あまりに可愛らしく、完璧。完璧だ。完璧に、
――おちょくられている。
ぶち、と、自分の脳の血管が切れる音を、フーレンは聞いた。
「お前なんか大っ嫌いだって言ったろ! お前を相手にするくらいなら一生右手で十分だ!!」
フーレンの怒声を背景に、シュイロンは盛大に高笑いをしながら寝室を出て行く。本当に神は人の話を聞かない。どうやったらあんなに傍若無人になれるんだ。あんな奴は今まで一度も会ったことがないし、出来れば二度と顔を突き合わせたくもない。それなのに離婚もしてもらえず、耳飾りのせいで逃げることもかなわず。
「ああああああああ!!」
苛立ち紛れにその辺にあった枕を一度殴ってみたもののスッキリなどするわけもなく、苛立ちが募る。枕がやたらとふかふかで、ぼふという音がしただけで大した感触が無かったのも余計に虚しい。
「ああああああああ!……あ、あ……」
そして叫んでいて、唐突に思い出す。寝台のすぐそばに、女性が二人もいたこと。フーレンが叫ぶのを我慢していたのは、彼女たちがいたからだ。ご婦人の耳に入れるにはあまりに汚い言葉を使うわけにはいかない、そう思っていたのに。
……俺は今、何かとんでもないことを口走った気がする。
とはいえ口から出て行ったものをいまさら口を押えたところで出さなかったことにはできず、今更彼女たちに耳を塞いでいてくれと言ったところで全く間に合うわけもなく。
フーレンは彼女たちの反応を見るのが怖くて、寝台の上で膝を抱え、両腕で顔を覆い隠した。穴があったら入りたいけれど穴が無いので、とりあえず自分の両膝で穴を作った格好だ。
「……すみません」
「いえ……」
謝った方も謝られた方も、具体的に何がということは言わなかった。けれどなんとなくお互いの気持ちを推し量れて、三人は同時にため息を吐いた。ため息が重なった音が聞こえて、フーレンは恐る恐る顔を上げ、二人の顔を見る。ヤンファは相変わらず気まずそうに顔を逸らしていたけれど、ナイシンは励ますようにフーレンに微笑みかけていた。二人とも、特別気分を害した様子はない。フーレンはほんの少しだけ涙ぐんだ。
ああ、ヒトはこうやって会ったばかりの俺にも気を使ってくれているのに、なんで神は自分の伴侶相手にも気を使ってくれないのだろう。ほんの少しだけでも人間扱いしてくれたなら、シュイロンに対する態度も、もう少し軟化出来る気がするのに。
「……一応、シュイロン様から貴方を器にした経緯は聞いていたのですが……。社を代表して、謝罪いたします。申し訳ありません」
ヤンファが赤い顔のまま、フーレンに頭を下げる。社守はこの国の中で、神の次に位の高い人間だ。社に集まってきた国中のお布施を管理し、各首長と話し合い予算を組む。神が国の象徴ならば、社守は為政者ということになるのだろう。
そんな人間が、自分に頭を下げている。
「い、いや。ヤンファさんが、謝ることでは」
「いえ、私が謝ることです。どんなに嫌でも、器様には、このまま社で過ごしてくださいとしか言えないのです。……この、シャンチャンの、ために。恨むなら、シュイロン様ではなく私をお恨みください」
どんな思いで言ったのだろう。フーレンには、ヤンファの決意はよくわからなかった。先ほども述べたが、ヤンファはこの国でシュイロンの次に位が高い。社守は世襲制だと聞くし、小さいころからお前は将来社守になるのだと、蝶よ花よと温かく、けれど厳しく育てられたに違いない。そして皆の期待に応えるべく、この小柄な体で胸を張り、背筋を伸ばして過ごしてきたのだろう。
それなのに、今、ぽっと出のどこの馬の骨ともわからない男相手に、自分を恨めと頭を下げている。彼女は何も、悪くない。神を、国を想えばこその発言だ。
それに比べて、なんと自分の矮小なことか。目の前の少女よりも自分の方が年上だろうに、聞き分けのない子供みたいにぎゃんぎゃん文句を吠えてしまった。どんな経緯であれ、自分で選んだ道なのに。
「……いえ。本当になんていうか……器になったこと自体は、覚悟の上、なんで。……俺の考えが足りなかっただけで」
それでも多分、またシュイロンに性交渉を迫られた場合、確実に声を荒らげ拒否はする。こればっかりは「仕事」じゃないし「役割」でもない。「夫婦の問題」だ。それはこの人たちには関係ないし、自分とシュイロンでどうにかするしかない。どうにかお互いの落としどころを見つけるしかないのだ。
相手は自分の話すら聞いてくれない状況なのに、そんなもの見つかるのだろうか。大いに不安ではあるけれど、今それを考えていても仕方がない。
のろのろとした動きで立ち上がる。多少は筋肉痛が残っているのでぎこちない動きになってしまったけれど、無理矢理背筋を伸ばして気を付けをしてから、ヤンファとナイシンに頭を下げた。
「あの。……俺の方こそ、『器』として、出来る限りのことはするつもりです。……いろんなことでご迷惑をおかけしてしまうとは思いますが、どうぞよろしくお願いします」
とりあえず、社の人はいい人そうだ。
自分の言葉に笑顔を返してくれた女性二人を見て、フーレンはほんの少しだけ、これからの生活に希望を見いだせた。
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