第2章 社守
第1話「こっちの方は可もなく不可もなくだな」
西日が辺り一面を茜色に染め上げていた。
シャンチャンの首都ガオソンの、ちょうど中央、一番の繁華街の真ん中に、シュイロンの社はある。
その深部、本殿よりさらに奥まったところに、蒼器殿と呼ばれる建物がある。その中心にある器の寝室の扉の前で、社の侍女長であるナイシンはため息を吐いた。拝殿や本殿、社務所など、参拝者を迎える施設ばかりの社の中で、この建物だけが唯一、人が暮らすための場所なのだ。分厚い木で出来た寝室の扉には銅で出来た可愛らしい細工が施してあるし、扉を開ければ鮮やかな色遣いの暖かな敷物、その上に、大人が四人は寝られようかという大きな寝台がある。いつ使うことになっても良いように、寝具はいつも真新しく清潔なものに取り換えている。掃除は欠かさず、季節の花を飾ることも忘れてはいない。
けれどこの部屋の主が不在になってから、もう二十数年が経ってしまった。次の主は、どんな人になるのだろう。そして、それは一体いつになるのやら。
今日はガオソンの近くに災厄が出現したようで、大勢の人が社に逃げ込んできた。リンチュァンの方面に上がる黒鉛は、高台にある本殿からもはっきりと見て取れた。社全体に結界が張ってあるため、社は一番確実な逃げ場と言えるだろう。災厄が出るたびにこうなるので、もはや避難する人たちも手慣れたものになっており大きな混乱はない。場所を譲り合いながら、言葉少なに黒鉛の方を不安げに見つめるだけだ。やがて黒鉛が消えたのを確認すると、皆本殿に向かって感謝を述べ、穏やかな表情で元の暮らしへと戻って行く。それを笑顔で見送るのが、社で働く侍女たちの仕事の一つだ。
社の侍女は、門前町の女性にとってあこがれの仕事だ。国の象徴である神に仕えるのは栄誉ある職だし、実際倍率もかなり高い。なかなか就けない仕事の一つである。ナイシン自身も、今の仕事に誇りを持っており、全く不満などはなかった。
けれど、こんな日は考えてしまう。
神の器が居てくれれば、と。
神の器が居れば、災厄が出現する頻度はぐっと下がる。街の人々もいちいち社に逃げてこなくても良くなるし、安心して日々を過ごせるようになるだろう。
それにもともと、自分たち侍女の仕事の中には「器の世話をする」ということが入っているはずなのである。もちろん器の寝室は常にきちんと整えられており、仕事をしていないわけではない。手を抜いているつもりもない。けれど、主人のいない部屋を整え続けることのなんという虚しいことか。今社に仕えている若い侍女の中には、生まれた頃にはすでに器は存在せず、夢物語のように考えている者もいる。
当代の社守ですら、去年就任したばかりでまだ十六。器が居る社を知らない。
あまりに不幸だ。
ナイシンは今年で四十八になる。ナイシンが侍女になったころには、器は確かに存在していた。器付きの侍女として任命され、誇らしい想いでいっぱいだったのをよく覚えている。
前の器は、風変りだけれど妖精のように美しい女性で、まるで姉妹みたいだとシュイロン様に言われるほど、仲が良かった。夜遅くまでこの部屋で、他愛もない話を二人でしていたものだ。ああ、あまりに遠い過去の話になってしまって、私の方こそ夢物語を見ていたみたいだわなんて、ナイシンは苦笑をした。美しい神の伴侶に仕えていた日々は、あまりに幸せだった。
今の若い子たちにも、そんな気分を味わわせてあげたい。
けれど神の器は神の伴侶と同義だ。シュイロンがその気にならないと、どうにもならない。
シャンチャンの南にあるガオヂーには、今でこそ器がいるものの、その前は千年以上器がいなかった。このシャンチャンも、そうならなければ良いのだけれど。
「ナイシンか。帰ったぞ」
ふいに後ろから声をかけられ、ナイシンはぎょっとした。
口調は確かに、自国の神、シュイロンそのものだった。けれどシュイロンの声は、もっと透明感があり響く。そもそも男性か女性か、大人か子供か、それすら判別できない声なのだ。このような声の持ち主が他にいるわけもなく、聞き間違えることは無い。
今の声は、若い男の声だった。
社で働いているのは皆女性だ。男性はいない。だというのに、参拝者の入れない蒼器殿の中で男性の声を聴くとは。
はじかれたように振り返ると、確かにそこに、年若い男が居た。全身砂まみれで汚れていて、粗末な服を着ていて、痩せていて、前髪が長くて顔はよく見えない。けれど長い前髪の奥に、光る金色の蛇の目が見えた。
まさか。私は今、夢を見ているというの?
震える両手で口元を抑える。
「……シュイロン様……なのですか……?」
男は金色の目をきらきらと輝かせて胸を張った。
「長い間不安にさせて悪かったな。お前にはまた器の世話をしてもらうことになる。よろしく頼む」
ああ、間違いない。シュイロン様だ。前の器とは全く雰囲気が違うし、そもそも性別すら違う。けれど、こんなに綺麗な琥珀の目を持った人間なんて存在するはずがない。
遠くなりかけていた、シュイロンが憑依した前の器の神々しい姿が、はっきりと思い出せた。ああ、あの日々は夢物語などでは、無かったのだ。
そしていま、再び現実になる。
喜びに叫び出しそうになるのを必死に抑え、ナイシンは腰を折り、器に憑依したシュイロンに深々と頭を下げた。
「ご成婚、おめでとうございます。シュイロン様。侍女を代表して……いえ、僭越ながら、シャンチャンの民を代表して、お慶び申し上げます」
「おう。ありがとな」
丁寧なナイシンの言葉に、シュイロンは片手をあげて言葉少なに答えた。
実際は成婚なんていう心の底からめでたく甘いものではない。今自分の中で昏々と眠っている器には、大嫌いだと鼻水垂らしながら言われた最悪の関係なのだけれど、まあそんなことはさて置いても、長きを共にしているナイシンに祝福されたのは嬉しかった。しかし同時に、器にした経緯を詳しく説明するとさすがのナイシンにも怒られそうだから余計なことは何も言わないでおこうとも思っていた。まあ憑依を解き、器が目を覚ませばすべてばれてしまうのだろうけれど、今はただ純粋に喜んでくれているから、黙っておくに越したことは無い。
それにしても、ナイシンは、昔は俺のことを見るたびに恐縮して固まっていたというのに、最近ではちくりちくりと小言を言うようになってきた。自分に慣れ親しんだということなのだろうし自分もそれが嫌ではないのでそのままにしているのだが。
器付きの侍女に任命した当時は若かったのに、最近では少し目じりや口元の皺が気になるようになってきた。体つきは若いころのまま保っているようだし美しいのに変わりはないけれど、人間は少し目を離すとすぐに変化するから、それが面白く、少し寂しい気持ちになる。こいつもいつか、そう遠くない未来、自分を置いて逝ってしまうのだろう。昔を語れる相手が居なくなるのはどうにも心が冷える。こんな出会いと別れを今まで何度繰り返してきたのだろうか。数えることなどしたくもないし、覚えていても仕方がないので出来るだけ忘れるようにしている。
「湯あみを手伝ってくれ。砂だらけで不快で敵わん。こんなところ、ヤンファが見たら卒倒するぞ」
シュイロンは、フーレンに憑依したまま着物をその場に脱ぎ捨てた。本人が眠っていて何も文句を言わないことを良いことに、やりたい放題である。
ナイシンはシュイロンが投げ捨てた着物を拾い上げた。後で洗濯をしなくては……いや、これは新しい物を新調した方がいい。砂や汗で汚れているし、襟元は擦り切れている。そもそも使われている素材も粗悪で触り心地が悪い。器に粗末な衣装を着せているわけにはいかない。シャンチャンの、いや、シュイロンの沽券に係わる。出来れば早く、上等な絹を使った衣装を用意しなくては。
シュイロン様と同じ、龍の模様を入れるのはどうだろう。二人で並ぶと対になるような模様がいい。きっと絵になる。ガオソン一の仕立て屋にこの後すぐに注文をしたとして、出来上がるまでに一体どれくらいかかるだろうか――
そんなことを考えていたものだから、上半身裸のシュイロンが自分を悪戯な顔で覗き込んでいることに気が付くのが遅れた。金色の目が自分を捕えているのを見るといつも心臓が高鳴るのだけれど、いつもの大きな丸い目ではなく、人間の、生身の男性の目が輝いているのを見ると、余計に心臓が飛び跳ねた。
「シュイロン様……?」
名前を呼ぶと、自信ありげに唇を片方吊り上げて、シュイロンは笑った。
「どうだ、ナイシン」
「はい?」
「新しい器は、お前のような人間の女の目から見ても美しいか?」
ナイシンは、言われて初めて新しい器の顔に注意を払った。今まではシュイロンの金色の目ばかりにとらわれていて、顔全体を意識して見ていなかったのだ。
「失礼いたします」
そう告げ、そっとフーレンの長い前髪を手で除ける。
まだ年若い。少年と青年の間のようだ。ナイシンには息子が二人いるが、その息子たちよりも新しい器の方が若い。息子たちはとうに結婚し、家を出てしまった。最近ではとんと実家に寄り付かない。元気に過ごしていてお嫁さんを大切にしているならなんの問題もないのだけれど、少しくらい顔を見せにくれば良いのにとナイシンは思っていた。だから若い男の顔など間近でみたのは久しぶりで、そういう意味でもナイシンの胸はほんの少し高鳴った。
前髪で隠れていて分からなかったが、若い侍女たちが騒いでいる舞台役者に似ているような気がする。ナイシンにはまるで女性と見まごうような優男の魅力はよくわからない。体躯のしっかりした力強い男性の方が好ましいと思っているからだ。だが、若い侍女たちに誘われて行った舞台で見たその役者は、たしかに美しいと感じた。そのときその役者は、今目の前にいるシュイロンの役を演じていて、美しい顔をしているからまだ新人なのにシュイロン様役に抜擢されたのだと興奮気味に語る若い侍女に、なるほどと相槌を打った。
だがその役者よりも、今目の前にいる器の方が「綺麗」だ。舞台役者など自分をさらに美しく見せるために白粉を塗りたくり、目を大きく鼻を高く見せる化粧をしているはずなのに、それでも、砂に汚れ頬が少しすりむけている顔の方が「綺麗」なのは、何とも不思議である。優しげな面立ちの割に、勝気な表情なのは、シュイロンが憑依している所為か。考え直す。本当のこの器はどんな表情を見せてくれるのだろう。ほんの少しだけ楽しみだ。
前の器とはずいぶん雰囲気が違うが、整った顔をしているのは間違いないだろう。自分の息子よりも年下の男の子にときめいたのなんて、初めてだ。
「ええ、大層お美しくございます」
微笑みながらナイシンが答えると、シュイロンはことさらに嬉しそうに笑い、
「そうだろうそうだろう。なにせ俺の選んだ器だからな!」
子供のように足取り軽く、浴室に向かう。本当にこの器が気に入っているんだな、とナイシンは微笑ましく思った。面食いな神が二十年以上もかけて選びに選んだ器だ。それはもう、猫かわいがりをするに違いない。こちらもその気持ちに応えるべく、気合を入れて世話をしないと。
なんだか侍女になりたての頃の初々しい気持ちを思い出したようで、ナイシンは背筋を伸ばした。これから忙しくなる。それが、とても嬉しい。
「あっでもちょっと待て」
そんなナイシンの気持ちとは裏腹に、シュイロンは急に立ち止まり、ズボンの中を覗き込んだ。
「あー……こっちの方は可もなく不可もなくだな。見るか?」
「……結構です」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます