第4話「うるっせえな! 前も、後ろもだ!!」

 災厄。抑圧された自然災害の力が、塊になって発現したもの。人類の、生命の敵。倒せるのは、神、もしくは神を憑依させた人間のみ。

「あの方向は……アーゴンか。最近どの災厄も復活が早いな。つい最近も倒したんじゃなかったか」

 ぽつりとシュイロンが呟く。災厄は消し去ることは出来ない。倒して封印しても復活し、また倒して封印する、いたちごっこを繰り返すしかない。その間隔を長くできるのが、神を憑依させた人間で災厄を倒すこと、なのだが。

 シュイロンには随分長い間器がいない。自分が器にしても良いなと思える人間と、なかなか出会えなかったからだ。

 シュイロンは美しい人間が好きだ。自分の器にするならば、自分が気に入るほどの美しさが無ければならない。理由は単純明快。自分が中に入って戦うのに、不器量だと嫌だから。ただ、それだけだ。そこにこだわって器を探し続けた結果、長い間器が不在になってしまった。

 だから、このシャンチャンでは災厄の出る頻度がほかの三国に比べてかなり高い。最近など、一週間から二週間に一体は出現しているのではないか。

「そろそろ飽きたなあ。四日前にもフォツーとジゥシーを倒したところだぞ。あれはガオソンから遠いし骨が折れた」

 わざとらしく肩を竦めてため息を吐き、シュイロンはぼりぼりと後頭部を掻いた。別に痒くはないが、こういうのは雰囲気だ。一括りにした長く青い髪が、さらりと揺れる。

 災厄に負けたことなんて今までで一度も無い。というより神の敗北はこのスーグオの終了を意味している。災厄自体は神にとっては赤子の手を捻るほど弱く、千年以上も同じ相手と戦っていると、行動の型も見えてくる。苦戦するような相手ではない。

 シュイロンは、今までアーゴンと幾度となく戦ってきた。三百年を過ぎた頃から数えることさえ嫌になって辞めてしまったので、正確な数字はわからない。それほどまでに、熟知している。

 あれは別に移動速度も速くはないし、煩くてうざったいだけで被害もそう多くはならないだろう。

 まあ、でも、

「さっきの子供、巻き込まれないといいな」

 先ほどフーレンが薬を売ってやった少年が走り去った方を指差す。アーゴンは、首都ガオソンのリンチュァン方面に出るのだ。ちょうど、彼の帰り道の方になる。アーゴンは、大人の足ならば十分逃げられる速さでしか動けないけれど、幼い子供の足だ。しかもあの子供はリンチュァンからガオソンまで、大人でも三時間はかかる道を歩いてきた、その帰りだ。疲れて足が縺れてしまえば、アーゴンに捕まってしまうかもしれない。

「せっかく目当ての薬を買えたのに。死なないといいな」

 シュイロンは心からそう言った。自分なりに慈悲深いところを見せたつもりだったのだが。

「は?」

 フーレンは、そんなシュイロンを額に青筋を立てて睨みあげた。

「じゃあなんで今すぐ倒しに行かないんだよ」

「なんで、って」

 それは確かに、災厄を倒すこと、それは自分の役割ではある。が、

「今はお前を見張る方が大切だから」

 何せ、自分が器にしても良いと思えた人間なんて、二十年ぶりだ。いや、もっとだろうか。詳しくは覚えていない。社に帰ったときにヤンファにでも確認すればわかるだろう。とにかく、これを逃したら次がいつやってくるか分からない。

 なぜか知らないが怒ってばかりいるけれど、その顔もなんとも愛らしい。出来れば怒った顔以外も見せてほしいし、そもそも顔が良く見えるように前髪を短く切り、ついでに猫背もなんとかした方がいい。

 意思の強そうな眉が好きだ。そのくせ目尻が優しげに下がっているのが良い。鼻は高いくせにスッとしていて主張しすぎていないのがちょうど良いし、歯並びも良さそうだ。誰から見ても整った顔をしているのは間違いないだろう。それなのにそれを誇るようなことは無く、いつも所在無げに目立たない隅っこにいるのが滑稽だ。どれだけ眺めたって飽きない。

 こんな風に思える人間に、久しぶりに出会えた。気分が高揚している。絶対に、逃すわけにはいかない。

 それにしても、おかしいなあ。今まではどんな人間でも、大抵は俺が「器に」と望めば、否応なく「はい」と応えていたのに。目の前の人間は、何がそんなに気に入らないんだろうか。

「見張る!?」

「だって、お前俺が居なくなったらこれ幸いと逃げるだろう」

 図星だったようで、フーレンは小さくうっと呻いた。

 確かに、こいつがこの場を離れたら即座に出来るだけ遠くに、出来ればシャンチャンを離れてデーダオぐらいまで全力で逃げようとは思っていた。そうまでできなくても、服を変えたり雰囲気を変えたり、とにかく一度身を隠せれば、次に見つけるのは至難の技だろう。諦めた頃に、人目を避けてゆっくりと移動すればいい。

 けれど、

「いや、逃げない。ここでお前を待ってる」

 やはり眉間にはっきりと濃い皺を寄せ、眉を吊り上げながら言う。ここで確約しない限り、きっとこいつは動かない。自分が逃げ切ることよりも、まずはあの少年の、そして災厄が出た地域の人たちの身の安全が第一だ。

 絶対に逃げない。だから早く行け。

 自分なりに覚悟を持って言ったのだけれど、

「でも、お前詐欺師だろ? ちゃんと待っててくれる保証はないしな」

 もう一度、フーレンは小さく呻いた。余計なことを言うべきでなかったと心底後悔していた。俺が人を騙したりしない善良な人間であれば、こいつも俺を信頼して……ない、ないな。ないない。それだけは無い。今のは揚げ足を取られただけで、この神は、一人一人の人間性を見ているわけではないのだ。

 こうやって立ち話をしている間も、刻一刻と災厄は人々を襲っているのだろう。雑踏の人々は、まだここからほど近い場所に災厄が出現したことに気づいていないようで、普段と変わらない様相を見せている。薬を受け取り、軽い足取りで出て行った少年は無事だろうか。

 一方のシュイロンは不思議でたまらなかった。どうして、この人間はこんなにも自分に早く災厄を倒しに行かせたいのだろうか。まるで自分が襲われているかのような、切羽詰った雰囲気である。

「アーゴンの足じゃ、ここまでたどり着くのにかなりの時間がかかる。お前の身の危険は無いも同然だぞ? なー、なんでお前そんなに必死なんだ?」

「そういう問題じゃないだろ!? 人死にが出るぞ! お前の仕事はシャンチャンの人を守ることじゃないのか!?」

「あー、うん。あのな。それは違う。俺は種としての人間を生かすのが仕事で、個としての人間には羽虫ほどにしか興味は無い」

「は、羽虫!?」

「あーまあ、ときどきはお気に入りが出てくるんだけどなあ。お前みたいなさ」

 そう機嫌よくにこにこと笑って言った後、シュイロンは肩の高さにまで手を挙げ、人差し指で災厄の方を指し示した。その視線の先に、細く立ち上る黒鉛。

 あれは災厄に襲われている地域のものが上げる狼煙だ。誰かが、確実に、助けを求めている。

 神の助けを、求めているのだ。

 それだというのに、黒鉛に気づき指差しただけで、とりたてて何かをするわけではなく、助けに行かなければならないはずのシュイロンは、全く動かない。

 羽虫の命が何匹潰えようとかまわないとでも言いたいのか。フーレンの心臓だけが速さを増していった。このままこいつが助けに行かなかったら、あの地域はどうなるんだろう。いや、あの地域だけじゃない。きっとあの地域を壊滅させた後は、こっちに来るか、はたまたリンチュァンの方に行くか。

 それでもなお、この神が動かなかったら。

 やがて、雑踏の誰かが立ち上る黒鉛に気が付いたのだろう。

「災厄だ」

「リンチュァンの方か」

 ざわざわと不安が伝染していくようだった。

 気づく前までは皆快活に話しながら力強く歩いていた。何の憂いも無く、この後の予定のことだけを考えていたはずだ。それがあの黒鉛に気づいてから、今までの日常が嘘みたいに消えた。災厄のことのほかに話すことは無く、皆一様に声を潜め、速足で逃げるように社の方に向かう。災厄から確実に逃れる方法などはなく、なるべく距離を取るか、守ってくれる神であるシュイロンの社に近づく、それくらいしか対策のしようがない。

 人間には立ち向かう術などなく、自国の神は気まぐれだ。去り際にシュイロンに気が付き、

「どうかお助け下さい」

 と声を掛ける者もいたが、ただそれだけで、自ら助けに行こうとするものや、ひっぱたいてでもシュイロンを動かそうというものなど一人もいなかった。そんなことは無駄なことだと、もう、悟ってしまっているのだろうか。

 あっという間に、大通りにはフーレンとシュイロンだけになった。普段は人の波を縫って歩かなければいけない通りだ。今は人っ子一人おらず、小さなつむじ風が道の砂を舞い上げるところまでよく見える。この道はこんなに広かったのか。

「みんな大げさだなー」

 なんて言って笑うシュイロンに、フーレンはぞっとした。ああ、本当に人間の命を羽虫程度にしか捕えていない。自分のたった一つの命、万が一のことを考えて大切にして何が悪い。そうでなくても、リンチュァンの方に大切な人がいるかもしれない、だから自分に助けてくれと懇願した。そんな風に、考えられないものなのか。

「なあ、どうしたらお前はすぐに助けに行ってくれるんだよ」

 フーレンは諦めた。シュイロンを正義感だとか人々への慈しみだとかで、自発的に行かせることは諦めた。こいつは神だけれど人の気持ちが分からない最低のクズだ。それだけは分かった。だからもう、こいつには期待しない。鼻の前に人参ぶら下げないと走らない馬と一緒だ。何かうまみが無いと動かせない。

 遠くの方で叫び声が聞こえた。細く小さな叫び声。人が居なくなった目抜き通りだからこそ、聞こえたのだろう。確実に誰かが襲われている。なおさらに気持ちが逸るというのに、シュイロンは相変わらず全く焦らない。

「そりゃあなあ。お前が器になるというなら、お前を見張る必要もなくなるしな?」

「でも俺は、器にはなれないって言ったろ!」

「えーあのお前が言ってた条件てやつ?」

「そうだ、だから無理だ! でもそれ以外だったら何でもする、お前が望むこと、なんでも」

「俺はお前が器になること以外望んじゃいないんだが。というか、お前の言う条件て何だ?」

「そんなのお前だってわかるだろ!」

「わかんないから言ってるんだろ、変なやつだなあ」 

「だから……その……」

 言いよどむ。この時ばかりはさすがに周りに人が居なくなっていてよかった。こんなこと昼間の大通りで大きい声で言うようなことじゃない。

 なかなか言おうとしないフーレンのことを、シュイロンは不思議そうに覗き込んだ。青いような赤いような、怒ったような困ったような顔をしている。それはそれで面白いなとは思ったのだけれど、シュイロンはフーレンがこんな表情をしている理由が全く分からない。人間てのは不可解だなあなんて思いながら、それはそれで面白おかしく眺めるだけだ。

 災厄の方向から、爆発音と複数人の叫び声が再び聞こえて、フーレンは腹をくくった。もう悩んでいる時間も惜しい。

「だから! 神に仕える者っていうのは清い身体じゃないと駄目だろ! 俺は違う!!」

「えーなにそれお前そーなのー?」

 驚いたような、はたまた全く驚いていないような、全然読めない声色でシュイロンは言った。

「そうだよ、だから俺は」

「それってちなみに、前? 後ろ?」

「は、え、な……そんなこと重要じゃないだろ!」

「重要に決まってるだろ! どっちなんだ? 前か? 後ろか?」

「うるっせえな! 前も、後ろもだ!! 分かったらさっさと」

「えーなにそれお前そーなのー? でも俺、器に純潔や処女性を求めたことは一度もないぞー?」

「………………は?」

 じゃあ今までの会話は何だったんだ。さっさとそう言えば良かったんじゃないのか。しかも前とか後ろとか、どうでもいい情報まで吐かされた。最悪だ。

「トウグウェイと勘違いしてるのか? あれは自分で育てた花を自分で摘み取らないと気が済まないド変態だが、俺は伴侶の過去は気にしない。懐が広ーいからな」

「じゃあ、全然重要じゃねえじゃん……」

「いいや、重要だ。あとでゆっくり聞かせてもらうからな」

 何がだよ。何も話すことなんかねえよ。やっぱり嫌だ。こいつと話すと碌なことが無い。

「で。条件とやらがなくなったわけだが、どうする?」

 す、と、喉元に刃を突き付けられた気がした。お前が死ねば他の奴は助けてやると、そう言われた気がした。今俺に、自分の身を守る防具は一切なく。無関係な人々の命を、人質にとられている。大げさではなく、そんな気分だった。

 三年前に両親を亡くした。突然のことで、何の準備も心構えも出来ていなかった。薬屋だった父親に、これからいろいろなことを教わり、ゆくゆくは跡を継ぐのだと信じて止まなかったし、それが夢だった。しかし急に、その夢は潰えた。自分の師であり目標だった父親はいなくなり、学べる環境もなくなってしまったからだ。

 しかし泣くわけにはいかなかった。妹がいたからだ。病弱な妹の治療費を稼ぐ必要があった。頼れる親戚は無く、幼い妹には自分しかいない。泣いている暇などないし、そんな姿は見せられない。妹の前では気丈にふるまい、良い兄であろうと務めた。少しも不安に思わせたくなかったからだ。きつい仕事も汚い仕事も、それこそ自分の体を売ることですらも、金になるなら何でもやった。そのことについて後悔などしていない。自分のことなどどうでも良かった。とにかく妹を生かさなければ。自分は妹のために生きねばと、そう思っていた。

 妹が死んだとき、不思議とあまり悲しくはなかった。このときも、涙は出なかった。自分はやれるだけのことはやったはずだ。ああ、やっと、肩の荷が下りた。薄情にもそう思っていた。何も背負わなくて良いというのは、責任を負わなくて良いというのは、とても身軽で、とても楽だ。俺は自由になれたのだ。

 そこでようやく、考えた。これから俺は、どう生きるべきだろうか。憧れていた父の跡を継ぐことはもう出来ない。誰かのために生きることだって、もうほとほと疲れてしまった。それならば、他人のことなど一切気にせず、自分のために生きよう。自分がやりたいことだけをやって、生きて行こう。そう決めた。

 薬師という名の詐欺師を始めて、もうそろそろ二年目だ。自分の記憶が本当に正しいのか、作った薬が効いているのか、よくわからないけれど、薬についても接客についても試行錯誤をして、ようやく軌道に乗り、やりがいを感じ始めたところだった。季節が一巡し、来年はこれをやろうという見通しもできていた。俺は今、自分のために、自分がやりたいことをやれている、そういう実感があった。このまま続けて行けば、もしかしたらいつか、自信を持って「俺は薬師だ」と言える日が来るかもしれない。そう思っていたのだ。

 それなのに、今、また俺の人生を誰かのために使えと、そう言いたいのか。誰かのためにお前の人生を捨てろと、言われているのだろうか。

 いや、そうだ。このまま放っておけば良いんだ。こいつだって、このままこの国を見捨てるような真似はしないだろう。何人か犠牲は出るかもしれないが、俺の責任ではない。俺の知ったことではない。絶対に器になんかならないと言って、俺も何も見なかったふりをすればいいんだ。

 リンチュァンの名前も知らない誰かが怪我をしたって死んだって、俺の所為じゃないし俺は痛くもかゆくもない。

 あの少年だって、ただ薬を渡しただけの間柄だ。長い間一緒にいるわけでも、それこそ、俺の弟でも何でもない。

 でも。

 俺は知っている。リンチュァンには少し前に滞在していた。確かに名前は知らないけれど、薬を処方した人の顔は、覚えている。みな、ただ日々を一生懸命生きていて、明日も幸せに過ごしたいだけの、何の罪もない人たちだ。

 俺は知っている。あの少年の笑顔がとても、愛らしかったこと。利発的な話し方をし、まっすぐな声が素直に胸に入ってくること。彼がとても家族思いで勤勉なこと。あの少年の小さな手が骨ばっていて、ほんの少し乾いていて、けれどとても暖かかったこと。

 俺は、知っている。

 あの中の誰かが、いま、災厄に襲われているとしたら。助けが遅れたことによって、死んでしまったら。

 知りたくなった。知りたくなかったから、旅をして、なるべく深くかかわらないようにしていたというのに。

 足元に雨粒が落ちた。一瞬雨が降ってきたのかと思ったけれど、今日は「晴れの日」だ。神によって晴れだと決められた日。雨など降ろうはずもなく、俺の頭の上はむかつくほどに透き通った青だった。雲だって一つも無い。雨粒が落ちたのは、空からではなく俺の両目からだ。

 腹が立つ。本当に、腹が立つ。狼煙は消えない。悲鳴や怒号も、依然風に乗って耳に届いてくる。神は相変わらず俺のことを見下ろして、にやにやと笑っていて、動く気配を見せない。

「俺は、お前が嫌いだ」

 声が震えた。鼻水だって出た。人のことを「嫌い」だなんて言ったのは、人生で初めてかもしれない。でも、どうしても、言わなきゃいけなかった。言わなきゃ気が収まらなかったのだ。

「大っ嫌いだ、この人でなし!」

 自分でも、なんと子供じみた悪口だと呆れた。言っても何も響いていないのは分かっている。美しい顔は美しいまま、何も変わったりしない。俺から好かれているかどうかなど、こいつにとっては関係ないのだ。

「……で、どうするんだ」

 こいつにとって今大切なのは、俺が器になるか、ならないか、ただそれだけだ。そしてもう、俺の答えも、分かっているのだろう。くそ、本当に腹が立つ。言いなりになんてなりたくない。

 でも、俺にはできない。あの人たちを見捨てることなんて、絶対に、できない。

「器にでもなんでもなってやるから、さっさと災厄を倒しに行け!」

 ――墜ちた。ついに、見目麗しい器が手に入った。

 憤りと無念さに涙を流すフーレンを見下ろしながら、シュイロンは喜びに満ちていた。ただ不思議だったのが、フーレンが全く知らない相手のために泣き叫び、嫌だと言っていた器になると決めたことだった。別に脅すつもりはなかったのだが、効果覿面だったのもそうだ。名前も顔も知らない誰かなんて、人質としての価値なんてないはずなのに。変なやつだ。

 それにしてもひどい有様だ。お気に入りの顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだし、自分を見る目はまるで親の仇を見るようだ。まあいい、そんなことは些末なことだ。これから社で大切に大切にしてやれば、いずれは笑顔を見せるようにもなるだろう。その時が楽しみだ。

 こいつが何を言おうと、こいつはもう、俺のものだ。器側からは絶対に覆せない、婚約の誓言がなされた。今はそれで良い。

「これで俺とお前は夫婦だ」

 そう言って顎に手を伸ばす。目は涙に濡れたまま、苦虫を噛んだような表情で睨みかえされたが、今度は「触るな」とは言われなかった。なんだかとても、気分がいい。

 対称的に気分が最悪だったのがフーレンで、顎を掴まれて心底不快ではあったものの、今相手の機嫌を損ねるわけにはいかず、しかも自分たちは「夫婦」なのだという。伴侶が触れてきたのを無碍に振り払って良いものなのか、夫婦とは一体何なんだと自問自答を繰り広げていた。けれどとりあえず、シュイロンがリンチュァンの災厄を倒しに行くまでは、と、ぐっと奥歯を噛む。

「じゃあ早速、お前の体を借りるぞ」

 言い終わるや否や、唇に冷たい感触。眼前にはあまりにも美しい、扇に伏せられた睫毛があった。

 口づけを、されている。フーレンが己の状況を理解するのに、しばらくの時間を有した。今までの傍若無人な物言いや犬のような扱いに似合わず、薄く冷たい唇は柔らかく、どこまでも優しい。それがあまりに似合わなくて、いや、目の前の穏やかで美しい顔と似合いすぎて、現実のものとは思えず混乱してしまったのだ。己の両頬に触れる手も、先ほどまで顎を掴んでいた乱暴さはなく、そっと暖かく包み込むようで。

 えっなんだこれ。意外と俺、ちゃんと人として扱われてる? これが「夫婦」?

 なんて絆されかけた瞬間、フーレンは溺れた。比喩ではなく、水もないのに、突然息を吸うことができなくなったのだ。驚いてぎゅっと目を閉じると、もうそこは本当に水の中のようで、口から漏れ出た空気がごぼぼという音が聞こえた気がした。生ぬるい水に全身を包まれて、体の自由を奪われる。もがきたくても、手足も動かせない。簀巻きにされて海に沈められたらこんな感じかな、なんてうっすら思った。全く笑えない。くそ、やっぱり神なんていうのは最低だ。少しでも大事にされているのかと思った俺がバカだった。人間の命なんて羽虫以下にしか思っていないやつに、期待なんかするんじゃなかった。

 苦しい、駄目だ、死ぬ――――

「もう目を開けても良いぞ」

 水の中のくせにやたらとその声だけははっきり聞こえて、フーレンは目を開けた。同時に、目を疑った。

(う、わ……うわあああああああああ!)

 足元には、何もなかった。いや、あることにはあるが、遠い。先ほどまで見ていた目抜き通りが小さく見える。

 浮いている。しかも生半可な高さではない。このガオソンで一番大きなシュイロンの社、その屋根を遥か下に見ている。そのそばには、何百、何千という人間が米粒以下の大きさに見え、一様にシュイロンの社に逃げ込んでいるところだった。

 フーレンは心底後悔した。

 目を開けなければ良かった、と。

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