第2話「俺のことなんて何も知らないくせに」

 もうそこからは色々と諦めた。心がばっきばきに折れていた。全力疾走した後なので、心だけじゃなく体全部が痛かった。午後から膝が震えて仕事にならないかもしれない。

 フーレンは、シュイロンが自分に許可を取りもせずに向かいの席に座ったのも黙殺したし、目の前で自分がいかに素晴らしいか、神の器になればいかに良い暮らしができるかを熱弁していたのも、右から左へ受け流した。

 聞こえてない聞こえてない。見えてない見えてない。相手にするだけ調子に乗る輩だ。それなのに全く何も答えないフーレンの顔を時折覗き込んでは嬉しそうにニマニマ笑っているので、何も答えなくてもガン無視しても調子に乗るって神さまってめちゃくちゃ心強いんですね、いやーさすがっすわ見習いたいっすわって心の中で百回ぐらい唱えた。そうでもしないとフーレンの心の平穏は保てそうになかったからだ。

 昼時の定食屋は盛況で、店員をはじめ客たちも、己の国の神がいることに目を剥いている。シュイロンはシュイロンで、そんな人間たちの反応が楽しいのか、へらりと愛想の良い笑顔を浮かべて、

「あー良い良い気にすんな。お仕事ご苦労さん」

 なんて労いの言葉をかけている。どうやら自国の民たちからは愛されているようで、初めは驚いて遠巻きに見ていた者たちも、

「シュイロン様、いつもありがとうございます」

「今日はどうしてここに?」

 なんて、声をかけてきた。同時に、相席しているフーレンのこともちらりちらりと一瞥していく。

 くそ、目立つのは嫌だってのに。

 フーレンは何も答えずにウェントゥンをすすり続けた。美味いと評判の味も、こんな針の筵状態で食べたって全然味がわからない。もっと喉越しの良い食べ物だったんじゃなかったのか、ウェントゥンは。何度噛んでも喉を通って行かない。

 んー? なんて曖昧に笑って、シュイロンは何も答えないフーレンを覗き込んだ。

「それがなあ、どうやら俺、失恋しそうなんだよ」

 シュイロンの芝居がかった動きと発言に、フーレンは口に含んだウェントゥンを吐き出しかけた。すんでのところで難を逃れたが、噛み砕いたウェントゥンが鼻の奥に行ってしまったようで、激痛に苛まれる。

 鼻を啜りながら睨むけれど、シュイロンはどこ吹く風。自分の芝居に酔っているのか、目元を拭う仕草をして見せた。それに沸き立ったのが会話を盗み聞きしていた客たちで、

「器候補か!?」

「に、二十年ぶりの器だ!!」

「確かに兄ちゃん整った顔してるもんなあ」

「なんで断ってんだよ、シャンチャン自慢の神だぞ!?」

「兄ちゃん、ここは俺が払ってやるから、器になってやれよお」

 なんて、好き好きに叫び始めた。

 なんでたかだか三百ルゥンほどで自分の人生売り渡さなきゃいけないんだ。いや、三百ルゥンは三百ルゥンで貴重な金ではあるんだけど、それでも自分の人生の対価としては少なすぎるだろ。

 思いっきり抗議したいところではあるが、我慢だ我慢。箸を握るフーレンの手が、力を込めすぎて震えていたけれども、どうにか口を噤んでいることに成功した。文句の代わりに、大きく鼻から息を吐く。

 まあ、器が欲しいシャンチャンの人たちの気持ちは、わかる。自分も、もしシャンチャンの民だったら、二十年ぶりの神の器なんて喉から手が出るほど欲しいに決まっている。

 周りの人間全てがシュイロンの味方のようで、本当に居場所がない。下手に何かを言って反感を買うより、だんまりを決め込んだ方がマシだ。なるべく早く食べ終えて店を出たいものの、噂ほど美味いとも思えないし喉に入っていかないのは、多分必死に走った後だからだと思う。本当ならもっと味わって食べたかったのに。

 鼻の奥に入ったウェントゥンは、もう取れているはずなのに、まだズキズキと痛んだ。

 最悪だ、こんなのは。悪夢だったらどれだけ良いか。

「なー、今まで俺の申し出を断ったやつなんかいないぞ? なあんで嫌なんだよお」

 猫撫で声で、幼子をあやすような口調のシュイロンに、フーレンは殊更に苛立った。

 そりゃあ、千年以上も生きている神に比べたら、俺なんてまだまだひよっこで聞き分けのない子供に見えるのだろう。けれど、伴侶になれと言っている相手に対してその扱いはあんまりじゃないのか。

「……じゃあお前はなんで俺が良いんだよ、俺のことなんて何も知らないくせに」

 つい答えてしまった。目の前の人形のように整った顔が、にいやと嬉しそうに笑うのを見て、心底後悔した。くそ、喜ばせるつもりで返事をしたわけではないのに。

「いーや、知っている。知っているぞお。俺好みの顔をしていて、旅の薬師で名前はフーレン。お前の薬はずいぶんと効くらしいな」

「はあ!? 何でそんなこと」

「うん? 俺の社に駆け込んできた老女がいてな。俺好みの顔のやつが居るって」

 なんだその垂れ込み情報。フーレンは釈然としない顔のままでシュイロンを見て、話の続きを促す。

「ときどき居るんだよなあ、俺好みの人間がいると報告してくる奴。大抵はハズレなんだけど。そんでまあその老婆が、普段は膝が痛い痛いと言ってるくせに今日に限ってはピンピンしているわけだ。何故だと問うたら、その俺好みの旅の薬師の薬を飲んだら治ったと」

「あー……あの婆さんか」

 2、3日前に薬を買いに来た老婆がいた。膝が痛いというので少し触らせて貰って、腫れていて少し熱があるように感じたから、抗炎症剤と鎮痛剤を渡したんだった。飲んで安静にしていれば、今日くらいには随分マシになっている頃か。鎮痛剤で痛みが和らいでいるだけだろうから寛解というわけはないだろうけれど、自分の処方はとりあえず間違っていなかったらしい。ほっと胸を撫で下ろす。そういえばあの時にも随分熱心に、

「薬師様はきっとうちの国の神様のお眼鏡に叶うから、私が行ってお話してくるわ」

 なんて言っていたな。お見合いおばさんと同じ類のやつだと思っていたから、半笑いを返すだけで特に何も言わなかったのだが、まさか本当に実行しているとは。そしてその言葉通り、本当に神が見にくるとは。

 ……面倒くさいことになってるな。

 ため息をついた。他人から顔を覚えられないように前髪を伸ばしているというのに、これでは全く意味がない。

「俺も今日は時間があったから暇つぶしに見に来たんだが……まさか当たりだとは。あの老婆に感謝しなくてはな」

 そう言いながら、シュイロンはまたフーレンの顎に手を伸ばした。よっぽどフーレンの顔が気に入っているのだろう。

「勝手に触んな」

 フーレンが鼻に皺を寄せながら言う。

「ああ、じゃあ触るぞ」

「駄目に決まってんだろ」

「えーなんだよお前ケチだなあー」

「いやむしろなんでこの流れで許可取れると思ったんだよふざけんなだから触んなって」

「だってお前前髪伸ばしてるから顔が見づらいんだって、今すぐ切れよお」

 駄目だ、全く反省していないし己を改めるつもりもない。これほど会話のしがいがないやつもいない。意思疎通できる気が全くしない。

「ごちそうさまでした!」

 勢い良く三百ウォンを机に置いて、フーレンは席を立った。これ以上ないほど味がしない昼食ではあったものの、それでも丼の中は空になった。案の定神に食事は必要ないらしく、シュイロンの器は手付かずのままだ。

「あ、いいぞおここは。店主ーあとでヤンファが払うから」

 シュイロンは焦ってフーレンに言うものの、フーレンは三百ウォンを拾うことはなく、

「借りなんか誰が作るか。自分の分だけ払え!」

 足早に店を出た。やはり背後にはシュイロンの気配を感じる。

 机に残された手付かずのウェントゥンが気になって仕方ないのは、貧乏性などではないはずだ。

 だって普通にもったいないだろあれ! 店主にも悪いだろ! せめて一口くらい、食うふりだけでもしろよ!



「なーどこ行くんだ?」

 人通りの多い雑踏の騒音に負けない声量でシュイロンが訪ねる。自国の神に気づいたシャンチャンの人たちの視線が痛い。でももう走ったって振り切れないことはわかっているので走ることはしない。無視しても睨んでも怒鳴っても暖簾に腕押しならば、こちらは至って平静に居られるように努めるしかないのだ。感情を大きく動かすのは疲れる。なるべく普段通りでいたい。

 俺とこいつは関係ない、器になんて勧誘されていない、なんとなく旅の薬師が気になったからついてきてるだけで、これ物見遊山ですよ、神様の社会見学なんですよーって体で過ごすしかない。

「仕事だよ」

 背負っている柳行李には「薬」と大きく書いてある。大声を張り上げなくても、通りを歩いている人にはフーレンの仕事が分かるのだ。ふと見かけて声をかけてくるものもいるし、旅の薬師の噂を聞いてわざわざ探してくるものもいる。なるべく見つかりやすい場所に陣取れれば良いのだろうけれど。

 フーレンにとって、シュイロンは水の神ではなく疫病神だった。シュイロンの存在に気が付いた人たちが周りに集まり、直接声を掛けるものは少ないものの、皆が立ち止まって一礼をしていく。柏手を打つ者もいた。ただの街中の通りが、簡易拝殿になってしまったのである。これでは商売は全く成り立たない。神の隣に旅の薬師がいるなんて、視界にも入っていないだろう。

「お前って人気ないの? 薬師向いてないんじゃないのか」

 なんて、若干の同情を含んだ声色でシュイロンに言われて、フーレンは一瞬言葉に詰まった。

 わざとじゃないんだろうけれど、ほんっとうに人の神経を逆撫でするのが得意なやつだな。

 けれど実際、フーレンの前に客は来ない。シュイロンに否定するための材料は何もないので、言い返すこともできなかった。

 その後も、シュイロンの周りには人が集まるものの、フーレンに声を掛けるものなど一人もおらず。

 場所を変えるか。変えてもこいつがいるとまともな商売なんかできないんだろうけど。

 そんなことを考えていたものだから、

「あの、旅の薬師様ですか?」

 という遠慮がちな小さい声が聞こえたときに、

「あっ、はい! そうです!」

 なんて、やけに張り切った声で答えてしまった。その声に、シュイロンに祈りを捧げていた人たちも驚いて顔を上げ、フーレンのことを見た。焦って辺りを見回し、声の主を探すけれど、どうやら周りにいるのはシュイロンに祈りを捧げるものばかりで、自分の客の姿は見つからない。今日はこんなんばっかりだな、なんて視線に地面を向けたところ、

「あの、すみません。薬師様」

 ようやく、小さな客の姿が見えた。思わず口元に笑みが漏れる。視線の高さを合わせようと、フーレンはしゃがみ込んだ。

 年の頃は6歳ほどだろうか。8歳にはなっていないだろう。土と汗に塗れた頬はふっくらとしていて、目が大きくきらきらと輝いている。なんとも愛らしい少年だ。

「今日の用向きは?」

 周りの大人たちに潰されてしまわないように道の端へかばいながら、なるべく柔らかい声色で訊く。このくらいの少年ならば、一人で薬を買いに来たことなどほとんど無いだろう。初めてかもしれない。なるべく緊張をほぐしてあげたかった。

「あの、違っていたらすみません。薬師様は、一週間ほど前に、リンチュアンにいらっしゃった方ですか?」

 その物言いに、随分しっかりした少年だなという印象を受けた。6歳ほどに見えていたが、もう少し大きい子なのかもしれない。

 リンチュァンは、今いるシャンチャンの首都、ガオソンの隣町だ。確かに、二週間前から一週間前くらいに滞在していた。

「ああ、多分俺のことだと思う。……どうかしたか?」

 まさか自分の薬で何か問題があったのでは。一瞬背中に冷たいものが走っていったが、

「あの、うちの隣の家のおじさんが、お薬がよく効いたって言ってたんで。……買いに来たんです」

「り、リンチュァンから!? 一人で!?」

 リンチュァンは確かに隣町ではあるが、大人の足でも片道3時間はかかる。子供の足ならば一体どれくらいかかるのだろう。今が昼過ぎだから、朝一番に家を出た、くらいだろうか。

 その一言で、自分に期待されているものが随分大きいことが分かった。その気持ちに応えられるだろうか。

「……誰の薬だ? お前は元気そうだもんな」

 こくんと大きく頷いて、目の前の少年は自分の服の裾をぎゅっと掴んだ。よく見れば頬だけではなく、服も手も足も全てが泥だらけで、ここまで歩いてくる道中がこの小さな体にはいかに大変なものだったのか、窺い知ることができた。

「お母さんの。……お母さん、二日前から具合が悪くて、ずっと頭が痛いとか熱っぽいとか言ってたんだけど、今日の朝になって、起きられないほど酷くなっちゃって」

「……そうか。お母さんは、他になんて?」

「喉が痛くて咳が出るって言ってた」

「……俺は医者じゃ無いし、直接見たわけじゃないから断定は出来ないけど、多分今流行りの風邪じゃないか?」

「お母さんもそう言ってた。でもリンチュァンのお薬屋さんの薬じゃ全然良くならないし」

 そのときに、隣の家のおじさんが言っていた「旅の薬師」を思い出したのだという。

「お父さんは畑仕事で忙しい時期で、家に居なくて。妹も生まれたばっかりだし」

「……妹は母乳か?」

「ボニュウ? おっぱい飲んでる」

 母乳に影響が少ない風邪の薬なんて、葛根湯しか思いつかない。けれどそれはリンチュァンの薬屋だって同じだろう。それが効かなかったとなると、自分の持っている薬だって効かない可能性が高い。

 それに、一つ気になるのが、

「……いくら持ってる?」

 どう見ても、大金を持っているようには見えない。自分が親なら、まさかこんな小さな子供に金を握らせてわざわざ片道3時間もかかるような隣の街まで行かせるようなことは絶対にしないだろう。きっと親にも誰にも何も言わずに、衝動的に出てきたに違いない。

 案の定、硬く握られた手の中から出てきたのは、汚れた五百ルゥン玉が一つだけだった。

 小さくため息をついた後、フーレンは苦い顔で首を横に振った。

「……千五百ルゥンなんだ、悪いけど」

 小声で告げると、告げられた方である少年の顔が真っ赤に染まった。

「そうなんですね。……ごめんなさい」

 顔だけでなく、手の甲まで真っ赤だった。きっと、これだけあれば足りると思い、自分の全財産を強く握り締めてきたに違いない。

 自分にも覚えがある。まだ小さかった頃、今目の前にいる少年と、同じ年頃のころだっただろうか。母親の誕生日に一人で近くの花屋に買いに行った。花束を贈りたかったのだけれど、小さな子供のお小遣いでは到底花束など買えるはずもない。自分の短慮さが情けなく、加えて花屋の店員の同情の目も恥ずかしくて、泣きながら走って帰った。

 当時の自分が、そこにいる気がした。

「……なあ、すぐにリンチュァンに帰るのか?」

「はい。きっと心配してると、思うんで」

 少年は今にも泣き出しそうな声でそう告げ、

「話を聞いてくださって、ありがとうございました」

 小さな頭を下げた。泣いているのだろうか、肩が小刻みに震えている。フーレンは、その頭に軽く手を乗せた。初夏の日差しは帽子を被っていない子供の頭に容赦なく降り注いでいたようで、随分と熱く感じる。

「いいか。ここの通りから東に行ったところに井戸がある。誰でも使って良い井戸だから、そこで水汲んで、顔と手を洗って水を飲め。……ああ、ついでに」

 そう言って柳行李を開け、中から竹筒の水筒を取り出した。勢い良く煽るものの、中身はまだ半分以上は残っていて、多少気管に入って咽せてしまった。無理矢理なんとか飲みきって、空になった水筒を差し出す。

「ここに水汲んできてくれるか?」

 少年は素直に竹筒を受け取ると、少し重い足取りで、人混みへと消えていった。その背を見送る。

「可哀想にー。多少足りなくても売ってやれば良かったんじゃないか?」

 隣で黙って聞いていたらしいシュイロンが口を挟んできた。

「健気じゃあないか、リンチュァンから一人で歩いてきたんだろ? それで、多分あの金はあの子供の小遣いか何かなんじゃないか。それを無碍に断るとは、お前ほんっとケチだなあ」

 くすくすと楽しそうに笑いながら、シュイロンは告げた。別に「お前は狭量だ」と責めたいわけではないらしい。その物言いに、ほんの少しだけ、救われた気がした。何が楽しいのかは、全く理解できないけれど。

「なんとでも言えよ。俺には、あの子の千ルゥン分を埋めてやる理由が見つからなかっただけだ」

「ふぅん?」

「別に金が貴重なのは、あの子だけじゃないだろ。……今まで俺の薬を、何も言わずに千五百ルゥンで買った奴らにとっても、それは貴重な金だったのかもしれない。今日の飯も食えなくなるかもしれない、それでも何も言わずに千五百ルゥン払った。そんな奴らに、あの子に薬を五百ルゥンで売ったのは何故だと問われたら……俺には、答えられないから」

 ふぅん? と、理解したような、していないような声を出して、シュイロンは、

「まあ、一理あるな。だが融通が効かなすぎて……やっぱお前、客商売向いてないんじゃないの」

 やはり意地悪げに告げる。どんな話をしても、「だから器になれ」に繋がるのが見えて、フーレンはこめかみを抑えた。やっぱり会話しても無駄だ。

「良いんだよ、別に。俺は俺のやりたいことをやりたいようにやってるんだ」

 道に迷っていなければ、そろそろあの子供が帰ってくる頃だろうか。雑踏に紛れて、この場所を見失っていなければ良いけれど。

 フーレンは体を右に左に揺らして、小さな子供の影を探した。昼過ぎの目抜き通りは人通りが多い。これから午後の仕事に向かう人たちが多いのだろうか。少年の姿を見逃さないように気を付けなくては。

 さすがにリンチュァンから一人で歩いてきたしっかりした子供らしく、迷うことなく見失うこともなく、まっすぐに自分のところに帰ってきた。

「薬師様、遅くなりました」

 見ると、言いつけ通りきちんと顔も手も洗い、水を飲んできたようで、先ほどよりもしっかりとした、精悍な顔つきをしている。

「いや、大丈夫だよ。ありがとう」

 言いながら、重たくなった水筒を受け取る。丁寧に洗ってくれたようで、渡したときよりも随分綺麗になっていた。

「じゃあ、これ。水を汲んできてくれたお駄賃」

 そう言って、フーレンは自分の財布の中から千ルゥンを出した。少年にとっては全く想定していなかったことのようで、ただただ目を丸くし、首を横に振る。

「い、いえ、そんな」

 良いんだよ、とフーレンは半ば無理矢理少年の手に千ウォンを握らせ、

「ほら、お前、千五百ルゥン持ってるじゃないか。薬売ってやれるぞ」

 言うと、少年は目を輝かせた。

「良いんですか!?」

「良いも何も、お前の金をお前が使いたいように使うだけだろ」

「ありがとうございます! ありがとうございます!!」

 壊れた赤べこのようにぺこぺこ頭を下げる少年に苦笑を浮かべた。別に感謝をされたいわけではない。柳行李を開け、いくつかの箱をかき分け葛根湯を探す。良く使う薬だから、目立つように赤色の箱に入れてあるのだ。すぐに見つかった。

「良いか、お母さんにはこの薬を、朝昼夜の食後に飲むように伝えてくれ。一週間分あるから。途中で良くなったと思っても、全部飲むように。妹は今何ヶ月?」

「あ、九ヶ月です」

「母乳への影響はほぼないと思うけど、もしかしたら母乳の味が変わって、飲みが悪くなるかもしれない。赤子には果汁を飲ませるとか、なんとか凌ぐように伝えてくれ。けどまあ、九ヶ月なら離乳食も始まってるしそこまで心配しなくても大丈夫だろ」

 はい、はいと真剣に話を聞いている少年に紙で包んだ薬を渡し、一拍置いてから、フーレンは少年の顔をじっと見つめた。薬を受け取った小さな両手を、自分の両手で包む。

「いいか、ここからが大切なんだ。良く聴け」

 少年が自分の顔を、目を、きちんと見返すのを待って、フーレンは続けた。

「俺の薬には秘密があって、体をゆっくりと休ませていないと効果がなくなるんだ。……お父さんは仕事で家にいない。お母さんは妹の世話や家事が大変。だけどお母さんはなるべく休ませてあげなきゃならない。……どうすればいい?」

「僕がお母さんのお手伝いを沢山する」

 迷いなく、考えることもなく、すぐにまっすぐ返ってきた答えに、フーレンは思わず破顔した。

「そうだな。それじゃあ大丈夫だ。気をつけて、なるべく早く帰ってやれよ。……これは餞別」

 そう言って、先ほど水を汲んできてもらった竹筒の水筒を渡す。

「本当に、ありがとうございます」

「いいから。急がないと帰るまでに陽が沈むぞ」

 何度も何度も繰り返される礼の言葉に、ついに照れ臭くなってしっしっと邪険に手を振った。なんだか自分がものすごい善人になったようで妙に居心地が悪い。少年は薬の袋と竹筒を抱えてようやく立ち上がったものの、見えなくなるまで何度も何度も、フーレンに頭を下げていた。

 いいから早く行けって本当に。

 フーレンも、彼の姿が見えなくなるまで見送った。なんだか妙に疲れている。ああいう、自分に全幅の信頼を置いた目に見られ続けるのは、精神状態によろしくない。

 その場に乱暴に座り込んだ。隣に神がいる状態では、もうまともな商売はできそうにないし、さっさとどこかの宿か野宿の場所を探すか。走り回った疲れが足に出てきたのか、少し太腿やふくらはぎが痛い。

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