スーグオ

御剣零一

第1章 神の器

第1話「お前、俺の器になれ」

 浮遊する。

 地に足がついていないということは、こんなにも恐ろしいものか。眼下に広がる見慣れた街並みに、フーレンは生唾を飲み込んだ。

 己の真下にあるこの国で一番大きな社、その周りに広がる門前街、砂埃を立て参道を行き交う馬車や行商。その奥には、鬱蒼と繁る森と、普段地上からは見ることのできない握り飯のような形の山が見えた。山の頂上を見下ろすのは、18年というフーレンの人生の中で初めてだ。

 ……落ちたら死ぬよな、これ。

 熟れ過ぎた桃のようになっている自分が容易に想像できた。

 内臓という内臓が縮み上がって、硬く絞られた雑巾のように萎れている気がする。気持ち悪いを通り越して、なんだか痛い。

 そんな本人の思いとは裏腹に、フーレンの体は支えなどないはずの中空で仁王立ちでしっかと立ち、口元はにやりと意地の悪い笑みを浮かべていた。

 いや、浮かべさせられて、いた。

 彼に輿入れした、神によって。

「さあ、初めての共同作業だ。しっかり頼むぞ? 旦那様」

 フーレンの頭の中で、男とも女とも大人とも子供ともつかない、ただただ人を小馬鹿にしたような、それでいて清涼感のある伸びやかな声が響いた。

 いや、違う。頭の中ではない。今のは、確かに、自分の口から出た言葉だ。

(なんだよこれ! どうなってんだ!)

 必死に叫んだ、つもりだった。けれど彼の口は動くことすらせず、代わりに脳内で煩くこだまするだけだった。





「見いつけた」

 フーレンにとっての悪夢の始まりは、この一言だった。

 午前の仕事を終え、路地裏に柳行李と腰を下ろし、さて昼飯は何にするか、この近くの店のウェントゥンが安くて美味いと聞いたし、そこに行ってみるか、なんて考えていた。見上げた空は足を浸せば気持ちよさそうな水色で、雲もほとんどない。

 今日は「晴れの日」だからなあ。「雨の日」は二日後だっけ、なんてぼんやり思った。

 フーレンの仕事は薬師だ。自分で薬の材料を集め、煎じて調合し、旅をしながら売り歩いている。この仕事を始めてから一年ほどしか経っていないものの、噂が噂を呼び、行く先々で行列が出来るほどの人気が出ていた。午前の売れ行きも上々で、無くなってしまいそうなものもある。そろそろこの街を出て、材料を仕入れに行かねばならない。

 季節は初夏。少しずつ暑くなってきて、植物の成長が早い季節だ。採れる量も多いだろうし、春先に山に入った頃には見つからなかった種類のものが見つかるかもしれない。少し長い間山籠りするために、今のうちにもう少し稼いでおきたい。目立つのは嫌だけれど、午後からはもう少し、目抜き通りに出てみるか。

 建物の影に腰を下ろしたものの、じわりと汗をかいていた。鼻の下まで伸びている前髪が額に張り付いて邪魔だ。汗ごと手の甲で拭った。

 そのときに、聞こえたのだ。

「見いつけた」

 あまりに嬉しそうな声色に、迷子になっていた幼子が親でも見つけたのかと微笑んだ。しかし周りを見回しても幼子の姿などなく、むしろ人っ子一人見当たらない。それはそうだ、人気のない路地裏を選んで休憩していたのだ。では、どこから。そういえば声自体は、頭の上から降ってきた気がする。

 まさかと思いながら空を仰ぐ。が、やはり自分の頭上に誰かいる、などということはなく。先ほどと変わらず穏やかな晴れの空が広がっているだけだった。

 聞き違いか、はたまた大通りの声が響いてきただけか。ずいぶん通る声だったもんな。

 安堵のような嘲笑のような息を吐きながら、視線を人気のない黄土色の裏路地に戻した。つもりだった。

 目の前が、今日の空の色に染まっていた。

「うわ」

 思わず声を上げ仰反る。だが建物を背にしていたフーレンに下がることなど出来ず、強かに壁に後頭部を打ちつけた。音や痛みよりも衝撃で、視界に火花が散る。痛みに悶絶し、頭を抱えてその場に蹲った。

「おーい、大丈夫か? 驚きすぎだろ」

 頭の上に降ってきた笑いを含んだ声に、フーレンは確証を得た。

 こいつだ、間違いない。さっき「見つけた」と言っていたのは。

 視界は涙で滲んでいるけれど、無理矢理にでも顔を上げ立ち上がり、相手を睨みつけた。

 空の色だと思ったものは、どうやら髪の色だったらしい。真っ直ぐで長い髪を頭の上で一本に結い上げている様は、まるで滝が流れ落ちているようで、この暑い中なのに清涼感すらある。纏っている服も、上等な質感の上品な青。青を基調に、どうやら少し色調の違う青で細かい模様が刻まれている。あれは竜だろうか。腰から肩へ身体を横断し、高みへ上る大きな竜が施されている。傍目に見ただけでも厚さのあるしっかりとした布地なのに、柔らかく触り心地が良さそうだ。かなり高級なものなのだろう。髪も服も抜けるような青、なのに、少し釣った大きな目は最高級の琥珀を埋め込んだような金色の蛇の目。今は機嫌がよさそうに細められているが、この目に見られているだけで、捕食される寸前の蛙の気持ちになれた。

 いや、もしかしたら、たぶん、本当に、捕食される寸前なのかもしれない。

「……なんだよ、お前」

 フーレンは、己の中の予想と相手の答えが一致しないことを祈りながらそう訊いた。

 目の前の人物に、心当たりがあった。というよりも、こんな異質な存在を、他に知らない。

 目の前に確かにいるのに、存在しているという実感がないほどに美しい。男なのか女なのか、それすらわからない。生きている人間の生々しさが全く無い。人形だと言われた方がまだ納得は出来るけれど、それではこいつが話して動いていることに説明がつかない。

 青い存在はフーレンのいささか不躾な物言いに、気分を害した様子もなく、

「なーお前、前髪邪魔じゃない? 切れば? いや、切ろうぜ今すぐ」

 全く、答えを返すこともなかった。

「はっ、はあ!?」

「だってなあ、勿体ないじゃないか。お前良い顔してるのに」

 もっとよく見せろ、なんて、顎を掴まれ半ば強引に顔を寄せられ、フーレンは何度も目を瞬かせた。目の前の顔は至近距離でも非の打ち所がないほどの整いようで、そんなやつに「良い顔してる」なんて言われても全く説得力などない。なのに何に満足したのか、ふんふん上機嫌に頷いて、

「ああ、やっぱりなあ。良いぞー、うんうん、実に良い」

 フーレンの顎を掴んだまま、右に左に顔を動かす。動かすたびに首からバキッとかゴキッとかいう音が響いたけれど、一向に止める気配などなく、

「痛ってぇやめろ!」

 フーレンが抗議の声を上げて、ようやく手を離した。いまだに痛む首を押さえながら、相手を睨み上げる。自分より小柄な相手を見上げる格好なのは、相手が中空に浮いているからだ。それに気がついて、背筋にぞわと怖気が走った。恐ろしかったからではない。また一つ、己の予想と相手の正体が一致したからだ。というよりここまで来ると、もうそれ以外の答えが導き出せない。

 今すぐここから逃げ出したい。相手がもし本当に自分の思っている通りならば、今更逃げたって遅いだろうけれど。

「お前……この国の、神、だろ」

 諦めて、己の予想をこぼした。さっさと答えを聞いて楽になりたかった。

 どうか違うと言ってくれ、他の答えなんてもうとんと思い付かないけれど、それでも頼むから、もっと善良で害のない存在だと言ってくれ、ほんっと頼むから。

 一縷の望みをかけたものの、

「やっぱりお前、俺を知っているんじゃあないか」

 その望みはあまりにもあっさりと断ち切られた。しかも

「それなのに何故『なんだお前は』って訊いたんだ?」

 あまりに不思議そうな声色の追撃を受けた。

 聞こえてんじゃねーかよお前こそ何で答えなかったんだ!!

 怒りなのか絶望なのかなんなのかわからない感情に支配されたフーレンは、現実逃避のため地面に崩れ落ちた。見ないでおこう。とりあえず今は、何も。地面だけ見ておこう。感情のやり場が他になく、握り拳を地面に擦り付ける。

 神に目をつけられるなんて、絶対に絶対に絶対に、良いことであるはずがない。嫌われようが気に入られようが、どちらにしたって、絶対にだ。

 人々に踏み固められて出来た道は初夏の太陽に熱されて暑くなっていて、少し汗ばんだ手に張り付いた。

 ……あーあ。とりあえず、冷たいウェントゥン食べたい。



 この大陸には四つの国があり、それぞれの国に一人ずつ、神が存在している。

 このシャンチャンにいる神はシュイロンといい、水を司る神だ。

 その昔。シャンチャンが水の神であるシュイロンを祀る前。今から千二百年ほど前になるだろうか。この国は酷い水不足に陥っていたらしい。人々は困窮し、水の神を祀り信仰した。そうすると、水不足はもちろん、大雨で悩むこともなくなったのだという。言い伝えでしかないけれど、確かにこの土地で水に困ったことは一度も無い。というか、今目の前にその神本人が居るのだから、伝承に間違いはないのだろう。

 他の三国も、地、火、風の神を祀ることにより地震や日照不足、台風の被害を克服し、以来この大陸では自然災害などはなく、天気ですらも神によって決められている。多少外れることはあるが、それも「天気雨が降った」とか「一日中雨の予定が早めに上がった」とか、それくらい些細なことだ。

 異常気象には縁がなく、温暖化もなく、四季が決まった時期にきちんと移り変わる。神に感謝をしていれば、なんの憂いもなく生きていける、理想郷というわけだ。

 四人の神によって、このスーグオは完璧な自然の制御に成功した、そこまでは良かった。誤算だったのが、抑圧された自然災害の力の塊が「災厄」という形で現れ始めたことだ。

 災厄とは文字通り人や動植物に害なす存在で、そこに発現しただけで大地を腐らせ人々を呪い殺す。要するに、人類をはじめ、このスーグオに生きるもの全ての敵だ。

 今まで旅をしてきた中でフーレンが実際に遭遇したことはないけれど、災厄によって死の大地に変えられた場所はいくつか見てきた。草木一本生えない荒野。街の中だろうが山の中だろうが、そこだけ十円禿げみたいにぽっかりと何もなくなってしまうのだ。

 あんなものは出てこないに越したことがない。心からそう思う。

 厄介なことに災厄を倒せるのは神だけで、しかも倒すと言っても永遠にいなくなるわけではない。一時的に封印できるだけなのだ。それが半年になるのか一年になるのかはその時次第で誰にも分からないが、その封印できる期間を大幅に伸ばす方法がある。

 それが、神の器。神が人間に憑依した状態で災厄を倒す。それだけで、封印できる期間が五年十年になるのだ。それだけ災厄に襲われる危険性も減る。国に神の器が居ればと思うのは当然のことだろう。

 ただその憑依される人間というのは、何も誰でも良いというわけではない。神は伴侶である人間にしか憑依ができないのだ。

 つまり、神と結婚しなければ器にはなれないのである。

「ま、何でもいいや。お前、俺の器になれ」

 じりじりと照りつける初夏の太陽の元、地面にへばりついて現実逃避をしていたフーレンの頭上に降ってきたのは、自信満々なシュイロンの言葉だった。

 器になれというのは、つまり伴侶になれということで、つまり今の言葉は求婚の言葉ということになる。会って数分、いや数秒の相手に言う言葉ではないだろう。

 シュイロンは、断られるなんて微塵も思っていない。むしろありがたく受け取れという態度で、両腕を組みふんぞり返っている。

 神の器は栄誉ある立場だ。神の器になった途端、神の社に住まわされ、上げ膳据え膳された挙句に国民からの称賛の声を得ることになる。命の危険はあるけれど、神の力を得て災厄を倒すなんて、まるで冒険譚の主人公になったような気分になれるだろう。ついでにいうと、人外の美しさを持つ伴侶を得ることもできる。

 ドブネズミみたいにこそこそと旅をしながら薬を売り歩き、日銭を稼いでいるフーレンにとっては、まさに渡りに船だ。

 けれど。

「嫌だ」

 はっきりと答えた。現実逃避をしている場合じゃない。立ち上がり、そばに置いていた柳行李を背負う。

「……今、なんて」

 目を丸くしているシュイロンを一瞥することもなく、フーレンは歩きはじめた。

 そうだ、今は昼飯時で、早く行かなければ噂になるほど旨い店はすぐにいっぱいになってしまう。さっさと昼飯を掻き込んで、商売を再開しなくては。

「嫌だ、って言ったんだ。他当たってくれ。神の器になりたいやつなんか、いっぱいいるだろ」

 ついてきているのに足音が聞こえないというのは気持ち悪いな、とフーレンは思った。振り返らずともシュイロンがついてきているのはわかる。後ろでぶーぶー、

「えー、なんでだよお。器になれば一生左団扇だぞおー? 俺は面食いでなあ、器にしても良いかなと思える人間なんてそうそういないんだ。おーれーはーおーまーえーがーいーいーんーだーよー!」

 なんてでかい声で言っているからだ。どうにか撒けないかと早足で歩くものの、飛べるやつから逃げ切れる気がしなくて、

「とにかく嫌だったら嫌だ! ついてくるな!!」

 同じくでかい声で返すことしか出来ない。こんな、神に追いかけられた状態で人目の多い大通りに出たら、好奇の目にさらされるに決まっている。大通りに出ることも出来ず、人気のない道を選んで、ついには全力疾走をしたのだけれど、やはりシュイロンは息ひとつ乱さずについてくる。相変わらず自分勝手な理屈をぶーぶーと垂れながら。

 ――もう知るか! 俺は俺のやりたいことをやる!

 撒けないなら、もういっそのことこのまま店に行ってやる。神は飲食はしないだろうし、さすがにこれだけ厚顔でも、歯牙無き旅の薬師に断られまくっているところなんか、格好悪くて自国の民には見られたくないだろう。

 腹を括って路地裏を出て広い通りに出る。聞いていたウェントゥンの旨い店は、今いる場所より北にある、 シャンチャンで一番大きな、シュイロンの住まう社からまっすぐ伸びる道沿い、海にほど近い場所にあると聞いた。ここからそう遠くない。人並みを掻き分けるように、店に向かって走り出した。

「あれっ、シュイロン様!?」

 通行人がシュイロンに気づき高い声を上げる。まだついて来てんのかよほんっとしつこいな! なんて思いながら、店を目指して一直線に走る。

 橙色ののぼり旗を三本出している赤色の暖簾の店。橙色ののぼり旗を三本出している赤色の暖簾の店!

 口に出す元気はもうないが、脳内で何度も繰り返す。

 普段こんなに走り回ることなんて滅多にない。運動不足なのはフーレンも自覚していた。

 頭はぼうっとするし肺は痛むし最悪だったけれど、今走るのを辞めたら、諦めたみたいで嫌だ。だから足を止めるわけには行かない。ただの、意地の問題だ。

 そしてついに見つけた、橙色ののぼり旗が三本で赤色の暖簾の店。噂では店の外まで行列ができるほどの人気店という話だったのだが、比較的早い時間だからか並んでいる客もいない。半ば飛び込むくらいの勢いで引き戸を開けて店に転がり込み、バシンと音がするくらい勢いよく後ろ手で扉を閉めた。

 よし、振り切った!

 坊主頭に手ぬぐいを巻いた頑固そうな店主が、驚いた顔で厨房からこちらを見ていた。驚かせてしまったのも行儀が悪いのも申し訳ないが、逃げ切れたのだからよしとする。フーレンは勝利の余韻に浸りながら顎に垂れた汗を手の甲で拭い、上がった息とともに告げた。

「ウェントゥンの中、冷たいの」

「二つなー」

 真後ろで聞こえた涼しげな声。

 もう、振り返りたくなんてなかった。店主が驚いて見ていたのは、飛び込んできた自分などではなく、

「シュイロン様!?」

 自国の神が自分の店にやってきたから、だったなんて。

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